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劉備の子、阿斗

孫夫人となった尚香からは急速に子供っぽさが抜けていくように見えた。不安定さがなくなり、穏やかな落ち着きが感じられる。蛹が蝶になる如く。

彼女の変化を、わたしは遠くから見守った。

劉備殿の成熟した穏やかさが、彼女の心をほぐしていったのかもしれない。できるならその役を、わたしがしたかった。でももう、何もかも手遅れだった。

変わったと言えば龐統もである。

いつの間にか龐統は劉備殿に仕えるようになっていた。小さな県の県令という職は彼の才には見合わないと思ったが、もう彼には周瑜殿亡きあとの呉に未練はないらしい。

しかし「あの県令は酒ばかり飲んで何もしない」という噂が流れてくるのは困りものだった。推挙した諸葛亮に迷惑が掛かる恐れもある。幼馴染として意見したい気持ちもあったが、わたしはあえて彼を訪ねなかった。妻帯した彼を訪ねるのは道理に反する。

尚香とは時々目が合った。遠くから彼女の姿を見守る時、周囲より少しだけ温度の高い視線を頬に感じることがあった。そこに彼女の鳶色の瞳があった。誰も知らないひそやかな視線。その時だけわたしの視界には色が付いた。淡く儚い色が。

幸せそうな尚香の視線がなぜ、いまだにわたしの姿を追うのだろう。

劉備殿からはたびたび城へ夫婦同伴での招待があったが、すべて断った。人の妻になった尚香とは距離を置くべきだ。わたしは遠くから見守るだけでいい。

諸葛亮は不在がちである。与えられた屋敷はわたし一人には広すぎる。子でもいれば違うのだろうが、わたしに子ができるはずもない。

いまだ懐妊の兆しすらないわたしに対して周囲の目もやや冷たく、女のくせにもの作りをする風変わりな女として敬遠されている。おかげで妻女たちの集まりに呼ばれることも稀だった。

子のいない女はいつの時代も不遇だ。まるで女の価値は子を生むだけとでもいうように。

そんな時、突然、わが庭に駆け込んできた子供があった。


「ここで匿って、早く!」

飛び込んできた小さな子は問答無用で私の後ろに回り込んだ。

わたしはわが目を疑った。

見るからに育ちのよさそうな恰好をした五、六歳ほどの童子。きっちりと結った漆黒の髪と、目元に父親の面影があった。

「…阿斗さま?」

その顔はまぎれもなく劉備殿の息子、阿斗さまであった。

阿斗さまはしいっと唇に指をあててわたしの衣の裾を握り締めた。すぐにぱたぱたと入ってくる物音がした。動揺しながらもわたしは阿斗さまを庇うようにしてそちらを見た。息が止まりそうになった。

追ってきたのは、孫夫人、尚香だった。

どんな顔をすればいいのか分からず、わたしは石のように固まってしまった。でも尚香は臆した様子もなく親し気に歩み寄ってきた。

「阿斗さまが来たでしょう。隠しても無駄よ」

わたしが答える前に阿斗さまがぴょこんと顔を出した。

「あれ、尚香姉さま」

「こら、母さま、でしょ」

「尚香はまだ子供だから母さまじゃない」

阿斗さまは笑いながら尚香の前に出てきた。わたしはあっけにとられるばかりだ。

「はあ。怖い蘆先生が追いかけて来たかと思った。尚香姉さまでよかった」

「良くない。あんたが講義をさぼって抜け出したら、あたしが怒られるんだからね」

尚香が阿斗さまの耳を掴んで捻り上げたので、わたしは小さな悲鳴を上げた。劉備殿の嫡子になんてことを。

「ごめんごめん、月英、びっくりしたでしょう」

「…ええ、まあ」

「この子ったら学問嫌いですぐ抜け出すの。困ったものだわ。でも殿の小さい頃もそうだったんだって。血は争えないわね」

尚香はとろけるような笑顔を阿斗さまに向けた。

「子供って、突拍子がなくて驚かされることばかり」

騒ぎに気づいて侍女たちが集まってきた。物見高く何事かとこちらをうかがっているのが分かる。わたしは二人を邸内に誘った。

「中で話しましょう。ここは人目につきすぎる」


奥の座敷に二人を通し、わたしは手ずから茶を淹れた。子供が好きそうな菓子が分からなかったので、何種類かうずたかく積み上げて前に置いた。

盆を持つ手が震えている。落ち着け。わたしは深呼吸をした。

諸葛亮はここ数日帰っていない。いつも何処かで戦が絶えず、諸葛亮に任される仕事が増えているのだ。劉備殿に付き従って遠出することも多い。諸葛亮は多くを語らないが、呉との関係が悪化しているらしい。折悪しく九娘も所用で家を空けていた。まるでわたし一人の時を狙いすましたかのような尚香母子の来訪だった。

「こんな風に話すのは久しぶりね、月英」

「お元気そうで何よりです」

「堅苦しい言葉使いはやめて。今日は、昔みたいに話そう」

そう言われても…とわたしは尚香を盗み見た。大事な跡取りがいなくなって騒ぎになっていないのだろうか。尚香は侍女の一人も連れず、問題になったりしないのだろうか。

もっと劇的な変化があるかと思っていたが、尚香はあまり変わっていなかった。孫夫人になっても闊達な口調は変わらない。

「びっくりさせてごめん。あたしも予想外だったんだよ。まさか阿斗さまがここに来るなんて」

すると阿斗さまが尚香の声を遮った。

「尚香姉さまはいつも、ここには私の親しい人がいるのよって言ってた。きっと匿ってくれると思った」

一瞬だけ、尚香の動揺したのが分かった。わたしまで動揺してしまう。尚香はそんなふうに、わたしのことを言っていたのか。

阿斗さまは尚香にじゃれついて、色素の薄い髪に触ったりしている。きゃっきゃっと二人の笑い声が上がる。母子というより仲の良い姉弟にしか見えない。

「孫夫人がお子様好きとは存じませんでした」

「嫁いだら変わるわ、誰だって」

わたしは違う。昔から子供が苦手だ。どう接していいか分からない。今も、阿斗様の黒々とした目を見ながら劉備殿によく似ているとぼんやり思うだけだ。

「この子、甘夫人のことを覚えていないの。記憶が抜けているんだって」

思わず目を上げた。甘夫人は阿斗さまの生母だ。それを覚えていない?

「初対面の時はびっくりしたよ。子供なのに無表情で、人形みたいで」

わたしは改めて阿斗さまを見た。乱世の常とはいえ、年端のいかぬ幼子の心にどれほどの苦痛が襲ったのか。

「だからあたしが埋めてあげようって思うんだ。こんなあたしでも、誰かの役に立てるなら嬉しい」

「劉備殿はどうなのですか」

「殿のことは好きだよ。でも、いつもいないから」

脳裏に孤独な母子の姿が浮かんだ。頼る者のいない城内で尚香は、阿斗さまに救いを見出したのだろうか。

沈黙が場を支配した。阿斗さまは尚香の袖を握り締めている。大人の間で育ったせいか、過酷な生育環境のせいか、この子は空気に敏感なようだ。それがこの子に乗って良いことか悪いことか分からないけれど。

わたしはなぜか不穏なものを感じた。新たな依存が始まったように見える。尚香の心は、思ったより危うい均衡の上に成り立っているのかもしれない。

重い空気を払うように尚香は明るい声で言った。

「外に出よう。また一緒に街歩きをしよう。阿斗も喜ぶわ」


前を歩く尚香と阿斗さまを見ながら、わたしは彼女との再会について考えていた。城下はそれなりに活気があったが、江東の街ほどには賑わっていない。何より色彩がない。

色彩がないのはわたしの心が弾まないからだ。

物売りもいれば玩具屋もある。食べ物の屋台もある。道行く者は皆楽しそうにそぞろ歩いている。熱々の串焼きを並んで頬張りながら、わたしはいつもより味がしないと思った。

阿斗さまはおとなしく飴細工の人形を舐めている。楽しいことは好きだが知的好奇心はなさそうである。この年頃の幼児は皆そうなのか、この子が特にそうなのか、わたしには分からない。

「舟に乗ろうよ」

風にそよぐ柳の緑が美しい。尚香は川べりに繋がれた小舟の一つに目をとめ、わたしの袖を引っ張った。

「危ないことをなさってはいけません」

「何よ。昔はそんなこと言わなかったわ。自分から危ないことをしていたくせに」

尚香は年老いた船頭に小銭を握らせ、率先して舟に乗り込んだ。驚いたことに自分で櫂を握った。さすが川育ちである。尚香は船頭を追い払い、おいでおいでと手招きした。

置いて帰るわけにもいかず、わたしも乗り込んだ。すぐ近くで水の匂いがした。

「尚香姉さま、どこへ行くの」

阿斗様が聞いた。

「どこまででも」

尚香が答えた。

「どこでも。ここじゃないところなら」

その声があまりにも哀しく、儚げに響いたので、わたしは思わず尚香の瞳を見つめた。鳶色の瞳はどこも見ていなかった。

「呉にいたとき、商人から聞いたの。この国の外には、女王の国もあるんだって」

わたしも聞いたことがある。父の承彦は交易にも力を入れていたから、小さいころから珍しい話はたくさん耳に入ってきた。巨人の国、小人の国、奇妙な妖怪の国、女が一番偉い国。虚実取り混ぜたそれらの話は、話し上手な商人たちによって魅力的な世界となってわたしたちに語られた。幼い龐統もその場にいた。彼の放浪癖はその時に培われたのしれない。

世の中にはわたしたちの知らない世界がたくさんある。

この国の、儒教でがんじがらめになった世界とは全く違う世界が。

「このまま行けるところまで行きたい。三人で」

ゆったりと流れる川。下流には尚香の実家がある。でも鳶色の瞳はそちらを見ていない。

「…行きつく先は、破滅かもしれないわ」

「いいね。破滅。最高だよ」

白昼夢のように浮浮かんだ光景があった。

尚香とわたしと阿斗さまと。

そこでは三人で疑似親子のように生きるのだ。

女が一番偉い国、その国の名は、邪馬台国という。


不意に小舟の前に立ちふさがった船があった。舳先には武装した女が足をかけている。後ろには彼女と同じく腰に弓矢を差した女たちがずらりと控えていた。尚香が小さく舌打ちするのが聞こえた。

言われなくても分かる。呉から来たという、尚香の侍女たちだ。

「迎えが来た。帰らなきゃ」

白昼夢は消えた。

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