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子をなせぬ女

走る、走る、走る。

わたしは女の名を呼びながら裾を乱してひた走った。大きな雨粒が頬に当たって痛い。走るのに邪魔でわたしは自分の裾を大きく捲り上げた。どれほど不作法に見えても構わなかった。

あの子は目を離したら死んでしまう。

みんな何故分からないのだ。痛々しい小鳥のようなあの子の心が。強気な瞳の奥に隠した縋るような色が。

大人たちがあの子の心をずたずたにしてしまった。

「尚香!」

ああ、わたしは何故こんなに懸命に走っているのだろう。わたしは空っぽだったはずなのに。空っぽの心を抱いて死んでいくつもりだったのに。

かつて愛した人の心は空っぽで、だからわたしは、人の心はどれも空っぽなのだと思っていた。

人というものはこんなにもよく泣き、よく怒り、歓喜するものだと、溢れるほどの激情が渦巻いているものだと、あの子に会うまで知らなかった。

ねえ、尚香。

全部あなたのせい。あなたに会ったから、私は変わってしまった。

わたしと一緒に死にましょうか。こんな世の中では、生きるのも死ぬのも、大して変わりないじゃありませんか――


あの夏の出会いが、わたしに色彩を与えた。


建安十一年。からくりばかり作っていたわたしの夫になったのは、徐州瑯琊じょしゅうろうやの諸葛家の男で名を亮といった。諸葛家は戦乱で荒れた徐州を逃れて襄陽にやってきた家である。わたしの家である黄家との交遊はなかったが、父がわたしのために招いた医者の中に年若い諸葛亮がいたのである。都の戦乱で色彩を失い、からくりに没頭するわたしは父の心配の種だったのだ。そして父は諸葛亮を気に入った。

わたしの作るからくり人形はわたしが愛した女の姿を模していたが、どうしても彼女には近づけなかった。あの絶世の美女、貂蝉さまには。

生涯結婚するつもりはなかった。父の黄承彦は襄陽で指折りの名士であったため、わたしを娶ろうという家も多かったが、わたしは「黄家の娘は不美人で子を生せぬ」と噂を流して遠ざけていた。

子を生せぬわたしを、諸葛亮が何故娶ったのかはいまだに分からない。

そのうち襄陽は戦場になり、わたしは諸葛亮とともに各地を転々とすることになった。


男装の少女に会ったのは、襄陽から江東に移ってまもない、夏の日のことだった。

その日は蝉が鳴いていた。江東の夏は暑くて、蝉の声も北とは比べ物にならないほど激しい。命の終わりを予感させる大合唱の中、わたしは商店の並ぶ路地から飛び出してきた少年とぶつかった。

「あ、悪い!」

ぶつかった拍子にわたしの頭から日よけの帷帽が飛び、雑踏に転がった。赤みがかった癖のある髪がこぼれ、思わずわたしは自分の頭を両腕で覆った。珍しい髪色なので隠さないと目立ってしまうのだ。赤い髪に黒い肌。人と違う容姿に生まれたことは呪うべきわたしの宿命だった。

少年はびっくりしたように立ち止まり、大きな目でわたしを見た。赤い髪に驚いたのだろうか。まだ十代の半ばだろう。線の細い体つきに色白の肌、薄茶色の瞳はこのあたりでは見られない色で、きりりと結い上げられた髪も色素の薄い鳶色だった。

――色。

ふっと南の風が流れた気がした。少年には、どこか南方の者と思われる空気があった。

「すまない。追われているんだ。助けてくれないか」

「え?」

言うなり少年は後ろに回り込んでわたしの羽織っていた上着をかすめ取った。同時に素早く帷帽を拾い、自分の頭に被る。声を出す暇もなかった。

ほどなくばたばたと足音がして、あっという間にわたしは数人の兵士に取り囲まれていた。

「ご婦人、若い娘を見なかったか。年は十五くらい」

「娘、ですか」

思わず首を廻らすと、わたしの帷帽と上着をまとった少年の後ろ姿が、雑踏の向こうに小さく見えた。足が速い。変装は完璧に見えた。

「いいえ」

わたしは兵士をまっすぐに見て答えた。「娘」は見ていない。嘘はついていない。

兵士はやや落胆した様子で「向こうを探せ」と言いながら路地裏へ散っていった。

一人になると、急に蝉の声が大きくなった。

蝉はひっきりなしに鳴いている。街中にはとまる樹もないのに、どこで鳴いているのだろう。不意にこれは幻聴だと気づいた。蝉の声はわたしの耳の中でだけ鳴っている。

わたしの世界には色がない。

「…そうだ、買いものを」

幸い財布は落としていなかった。歩き出そうとしてわたしは足に痛みを感じた。見ると沓が片方脱げ、小さな光るものを踏み抜いていた。鋭い金属でできた装飾の欠片のようだった。あの少女が腰に付けていた飾りの一部だろう。わたしは欠片を拾い上げ、丁寧に手巾でくるんだ。

工作の材料を買うつもりで市場に来たが、買いものをする気は失せていた。日差しにじりじりと灼かれながら、わたしは手ぶらで帰路についた。さっき一瞬だけ目に飛び込んできた鳶色の瞳が、久しく感じなかった色彩の欠片が、瞼に焼きついて幾度も思い返された。


「お帰り、月英」

家に帰ると、珍しく夫が在宅していた。

江東にいることは内密なので郊外に目立たない家を借りている。諸葛亮は、主である劉備玄徳のもとで諜報活動のような仕事をしているのか不在のことが多い。呉の重臣である長兄の諸葛瑾とも連絡を取り合っているらしい。家に戻るのは月に数度くらいか。

「月英、足をどうしたのですか」

わたしが足を引きずっているのを目ざとく見つけ、諸葛亮は穏やかに問うた。

彼は細やかな性格の人だ。女性への思いやりもある。夫としては申し分のない人だろう。だがわたしは男を愛することができない。というより人を愛することができない。まぐわうことができない。どんな医者も治すことはできない。わたしの喪った色彩と心は。

夫婦生活ができないことを最初は心苦しく思っていたが、諸葛亮が気にする風もないので慣れてしまった。

「市場で転んでしまいました。でも大丈夫です」

「それはよくない。見せてみなさい」

少し躊躇したがわたしは裾をまくり、怪我をした足を出した。諸葛亮は壊れ物を扱うように丹念にわたしの足を触り、傷の具合をあらためた。そこに性的な匂いがないことに私は安心した。彼は優しい。他の男とは違う。

「これは矢傷のようです。何かありましたか」

諸葛亮は訝しげな目をした。とっさにわたしは飾りをくるんだ手巾を諸葛亮から隠した。

失った色彩が一瞬だけ戻ったことを、なぜかわたしは言い出すことができなかった。少女の鳶色の瞳の色を。

「さあ、転んだ時に切ったようで、何か踏んだのかしら」

「気をつけて下さい。戦が近いのですから」

諸葛亮はそれ以上詮索せずに手早く消毒を済ませ、傷に効く軟膏を塗ってくれた。足裏に薬を塗られるのはどこかぞくぞくするような官能的な快感がある。気恥ずかしくなり、わたしは言葉を探した。

「孔明さま、戦が近いのに、劉備殿のおそばに居なくていいんですか?」

包帯を巻く諸葛亮の手が一瞬止まった。

「…殿は取嫁の話があるようで」

再び何事もなかったかのように包帯が巻かれ始めた。

「少し暇ができたのであなたの顔を見に来たのですよ、月英」

ややつり気味の目元を緩めて諸葛亮は笑った。

「劉備殿に縁談?お相手はどなたですの」

「呉の孫権の妹、孫尚香」

諸葛亮は尊称をつけなかった。

夫の仕える主、劉備玄徳は、魏軍に追われて大敗したばかりである。曹操軍は早晩ここにも侵攻してくるだろう。有力な基盤を持たない劉備陣営には、呉との同盟の強化が急務である。

もし劉備が孫権の妹を娶るとしたら三十も若い妻を持つことになり、年齢的に釣り合わない。しかし政略結婚などよくあることだ。特にこの乱世においては。結婚とはおしなべて家と家との繋がりを保つ楔の一つに過ぎない。

「それはおめでたいことでございますね」

「どうでしょう。不自然だと思いませんか」

「同盟の証として縁談はよくある話ですわ」

「孫権は油断ならぬ人物です。孫尚香は妻ではなく刺客の可能性がある。曹操への万が一の保険として」

ああ、とわたしは納得した。つまり負けた時は劉備殿の首を差し出せるよう、妹を嫁がせておくということか。それは連環の計を想起させ、わたしは貂蝉さまを思って身震いした。

「女の身で刺客など務まりましょうか」

「孫尚香は弓腰姫と呼ばれる武芸の手練れ。殿の(ねや)に置くなど危険すぎる」

「では、お断りになるのですか」

「そうしたいが、殿がお会いになると言うのです。お止めしたのだが」

諸葛亮は言葉を濁した。いつになく沈痛な表情だった。水面下で何かが起きている。戦の前には裏工作や流言が飛び交うものだが。

「今のは忘れて下さい。このことは内密に。私は少し動揺しているようだ」

諸葛亮は目をそらし、厨房に目を向けた。野菜が山積みになっているのが見えた。新鮮そうな魚の入った籠も置かれている。今朝はなかったものだ。諸葛亮が贖ったのだろうか。

「今日は私が君のために料理をします。その足では辛いでしょう。少し休むといい」

「まあ、ありがとうございます」

正直助かる。わたしはあまり料理が得意ではない。黄家では女らしいことより工作やものづくりに精を出してきた。諸葛亮の方がよほど身の回りのことが細やかにこなせる。弟と二人で暮らしていた期間が長かったと聞いた。

「なに、魚を使った江東の料理本を見つけたので試してみたくなったんです。味は保証できませんよ」

諸葛亮は悪戯っぽく笑って厨房に入っていった。少し様子が変な気がしたが、ほどなく魚を煮るよい匂いがしてくると、わたしはすぐに忘れてしまった。

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