この採掘場が欲しい
あいつが憎い。あいつを殺したい。その憎悪だけが男を生かしていた。だが、何故こんなにもあいつが憎いのか、俺はこの感情がどこからやってきたのかを憶えていない。回帰するたびに膨らみ続けるこの感情は、己の性格を変貌させ次第に身体ですらも蝕んでいく。己が己で無くなっていく。俺はこの感情が嫌いだ。俺の人生を狂わせていく危険なこの感情をどこかに放り捨ててやりたい。何度もそう思った。だが、結局のところおれはこの感情に縋っていくことしかできない。
力のない俺にはこの感情を利用するしかない。それしか他に無い。そのおかげで俺はあいつを殺しに行くことができる。余計な抵抗はいらない。己の思うがままに感情に身を任せてただ落ちていく。暗いこの空間をただただ落ちていく。あいつはもう目と鼻の先。今回こそはあいつの首を必ず切り落とす。この憎悪には噓偽りなど一つも存在しない。
底のない沼の中をただ落下する感覚があった。その妙な感覚のせいで俺は気分が悪くなった。吐きそうなのに吐けない。頭と胃が一つになる。足が肺の隣にある。指が口の中から生えている。ありとあらゆる体の部位が捩じられ、千切れて、潰れ、練りこまれ、あるべきでないところと無理にくっ付けられる。
皮膚と内臓が掻き乱れ続けるこの感覚には一生慣れることはない。視界は闇に包まれ何にも触れることはできない。時間をかけて落下していく。
失われた自身の肉体が再構築され始めた。目から脳、脊髄から心臓、胴体から手足の末端へ。熱い。血が通っていくのを感じる。なんでもなかった肉塊に生物の機能が生まれる。
自分の体の感覚が完全が戻ってきた。やがて背に何かが当たる感覚を覚えた。ぼんやりとだが視界は完全な暗闇ではなくなる。肌に風を感じる。俺は目を開けた。光が明るい。目の前にはまっ平な高原が広がっている。風が心地いい。背中には岩のひんやりとした冷たさを感じる。岩の隣には一本の木が、日陰をつくっている。手のひらで冷たい岩を撫でながら、俺は呟いた。
「ただいま。」
ここは忘れもしない大事な場所だ。感傷に浸りたいところだが、今はその時ではない。回帰前の記憶がぼんやりとしているが、まあいい。記憶は無くとも体が覚えている。俺はまた戻ってこれたのだ。あの頃に。これでもう一度あいつを殺しに行くことができる。この感覚は何度目だろうか。完全に覚えてるのは、回帰した事実とあいつへの憎悪だけ。アイツを殺すために、準備すべきことが山ほどある。この頃の俺はそもそも貧弱過ぎる。まずは何もないこの体を鍛える必要がある。ここでじっとしていては意味がない。
俺は身を起こして第一目標の肉体の鍛錬をできる場所に向かうことにした。その際の鍛錬期間は約半年とする。
向かうべきところとはカンヴァイ山脈にあるホーマ採掘場だ。あそこは街から奴隷として連れてこられた者が肉体労働を強いられることで有名な鉱山。体を鍛えるには良い環境と言える。ただここから徒歩で向かうとなると丸一日掛かってしまう。それも鍛錬として良い気もするが、始めのうちはどれだけ時間を短縮出来るのかが鍵になる。
一度街に行き奴隷運搬用の馬車に乗って行かねば。
街に着いた俺は鉱山行きの馬車を片っ端から探した。見つけた。屋根が付いていなく、訳ありな御者が待機している。あれだ。近くの馬小屋で服に泥を塗って、四台あるうちの一番後ろの馬車へ御者にバレないように乗り込んだ。
「手錠がねえな。お前、この馬車はホーマ行きだぞ。わざわざホーマに行こうって事か」
「そうだ。何か悪いか?」
「本当に行く気か。イかれてるなお前」
「放っておけ。今更だ。俺は寝るから着いたら起こせ。余計な事は考えるな」
「はあ」
男が俺に声を掛けてきた。この男は前回の回帰で出会ったがこの後に起こる出来事で死んでいたと思われる。そんなどうでもいい奴とは関わる必要がない。俺はその男を適当にあしらって外の方を向いて荷台に横になった。しばらくして馬車は走り出した。今日の夕方前ぐらいには着くだろう。それまで仮眠でも取っておくとしよう。
日が暮れようとする頃、馬車は目的地に到着した。
「おい。着いたぞ。起きろ」
「着いたか」
見た目に反して寝心地の良い荷台だった。到着後すぐに先頭馬車から見回りがやって来た。
「人数は確認したか?」
「へい、合計四十人丁度乗っています」
「食糧は?」
「言われた通り三十近く荷台に乗せています」
「よし、お前ら全員馬車から降りろ。お前らはこの先の四番鉱山牢に荷台の荷物を全て運べ。余計な事考えるんじゃねえぞ。いいな」
首から腕にかけて刺青を入れた男はそう言った後この場から去った。御者も「すぐ戻るから運んでおけ」と言ってその場を後にした。先程余計な事をするなと言われたばかりだが、俺はすぐに箱を開けて中身を物色し始めた。
野菜か。肉が無いのが惜しいな。体の基礎を作るための必要不可欠な栄養が足りないぞ。所詮、囚人採掘所なのでちゃんとした食べ物がないのは仕方がない。この山なら野良の動物も生息しているはずだ。自分で狩るしかないな。
「お、おいお前、さっきあの男が言ったこと聞いてなかったのか?余計な事するなって言ってただろうが。今すぐ箱を戻せ。何されるか分かんねえぞ。お前のせいで俺たちまで罰を受ける事になったらどうするんだ。早く戻せ」
「一々うるさいぞ。俺は今腹が減っているんだ。目の前に食い物が有れば、食べぬわけにはいかないだろう。それにあの男の指示に従う義理など俺には無い。お前らがどうなろうと知った事ではないしな」
「ふざけるな。俺らはお前のせいで危険な目に遭うんだぞ。周りの事をよく考えろ」
「そうか。ならば俺が食べている間にあの男に突き出すべきだ。そうすれば、少なくともお前らが罰を受ける必要は無くなるだろう」
「確かにな。じゃあ遠慮なくお前をあの男に渡してやる」
男たちは食事中の俺を取り押さえようと背後から手を伸ばすが、俺はそれらがまるで見えているかのように避けた。男どもが騒ぎ出す。
「まだか?」
「避けるんじゃねえ!くそが、なんで触れられないんだ」
「後ろに目でもついてんのか!?」
「おかしいだろ!」
「自分たちの手を見ろ」
「んなこたあ分かってんだよ。手錠してるとかそういう意味じゃねえ!なんで見えてもいねえのに避けられるのか聞いてんだよ」
「お前らと俺とでは差があるからだろう。もう箱の底が見えるぞ」
「くそが、答えになってねえよ」
「疲れた」
「くっそぉ、無理だろぉ」
「降参だ」
「そうか、根性がないな。あと少しで触れられたというのに」
「嘘つけ。そんな隙少しも見せなかっただろ」
「大体どうやって見てたんだ。一度も振り向かなかっただろう」
「見てはいない。気配を感じただけだ。生き物は体を動かす際に部分的に熱を籠る。それを先読みしただけだ」
「はあ、お前人間か?そんなことできる訳ないだろ」
「誰だってできる」
「できねえよ。お前だけだろ」
「そんな事はない。お前も訓練すればできるようになる。俺だって初めから―――」
途端に前触れもなく俺は膝から崩れ落ちた。男たちは俺がいきなり倒れたのを見て困惑した。耳鳴りがする。何なんだこれは。気分が悪い。クソッ、頭が割れそうだ。視界が霞む。俺は横に倒れた。
「どうした。大丈夫か」
「おい、あんた立てるか?」
「あが、ぐぁ...がッ」
何が原因だ。野菜か、腐っていたのか?指先がしびれる。いやこの症状は毒か、何の毒だ。吐き出さなければ。駄目だ。意識が...
「おい、やばいだろこれ」
「食ったものが原因じゃないか?」
「なら吐き出させよう。急がないと手遅れになる」
「あ、こいつ気絶したぞ。どうすんだよ」
「仕方がねえよ。こいつが勝手に食っただけだろ。ほっとけ。むしろ都合がいい。このまま渡しちまおう」
数人が同調するように「そうだそのまま渡せ」と騒ぎ立てた。用を足しに行っていた御者が丁度戻ってきた。
「お前ら何騒いでんだ。さっさと運べつったろうが!」
「違うんです。止めたんですが、変な男が箱の中を漁って勝手にくたばったんです」
「はあ?そのアホは何処だ」
「ここです」
「マジじゃねえか。なんで手錠ついてねんだ。おい、誰でもいい。一人こいつを担いでついて来い」
気絶した俺はそのまま抵抗することなく、別の場所に連れていかれた。
声が聞こえる。寝るには煩すぎるその声で俺は目を開いた。ここはテントのようだ。外と中で松明が揺らめいている。部屋の隅の方で男と女の話声が聞こえた。そのうちの一人が俺が覚めたことに気づいて隣にやってきた。
「やっと起きたか。クソ野郎」
起きて早々気分が悪い。金魚の糞みたいなその顔を俺に近づけるな。今すぐその首を絞めてやりたいが、俺の手には手錠が掛けられている。この頃の俺はこんな鉄くずですら引き千切ることができない。
「聞いてんのか!てめぇ、あんだけ勝手なことはするなといったのに何で箱の中を探った!おかげで俺まであのジジイに殴られたじゃねえか。てめぇのせいだぞ」
面倒くさいやつだ。一度聞くだけじゃ理解できないと思っているのか。
「腹が減っていた。仕方がないだろう。それと起きたばかりだ。少しの間静かにしてくれ」
「お前、この状況でよくその口が利けるな。今すぐ殺してやる」
男は殴りかかってきたがすぐに返り討ちにした。
「ヤン兄ィィ!!」
両手がふさがっているから抵抗は無いと油断していたのか、蹴り回した脚はもろに男の顎に目掛けて打ち込まれ、殴りかかろうとしたその勢いのまま男は気絶した。それを見ていた後ろの男らは攻撃する手を緩めた。
「なんだ。お前は来ないのか」
「くそッ、ヤン兄は俺より強いはずなのに…!」
「お前より強いからなんなのだ。兄貴分がやられたのに反撃しようともしないのか。意気地なしめ」
「俺が敵うわけないだろ」
「まあ、身の丈を分かっていると言うべきか。それならばこの手錠を外してくれ。両手が塞がれるのは窮屈だ。…おい、さっさとしろ。躊躇うな。俺は気が短いぞ」
「分かっ…分かりました、今外しますからヤン兄の頭を踏まないで!」
シンという名のこの男は、兄貴を殺さない代わりに言う事を聞いてくれると言った。
「シンよ。俺は喉が渇いた。何か飲み物は無いか」
「今、今持ってきます!水で良いですか」
「ああ、水でいい。ありがとう」
シンは心優しい青年のようだ。俺の為に水を持って来てくれるらしい。シンが水を取りに行っている間、俺は隅に突っ立っていた女の声を掛けた。
「女、名前は」
「は、はい。リエンです」
「リエンよ。ここの管理者について知りたい。何か情報は無いか。どんな些細な事でもいい。教えてくれ」
行くべき場所は憶えていても、詳細に関しては一切覚えていない。情報収集は基本だ。どんな小さなことでも必ず何かに繋がる。
「ええと、管理者はアモウといって、顔に青い刺青を入れています。シンバという体の大きな右腕もいて、山の上の門番をしています」
青い刺青が特徴の男。全く記憶に無いな。シンバも知らん。
「アモウはよく朝方に町へ降りて行って、夕方には戻ってきます」
「何故、アモウは朝方に町へ出向く?」
「それは多分、この鉱山と契約を交わした領主とのやり取りがあるからだと思います。領主はここで採掘した鉱石を他国に売り払う仲介役を担っているのです」
「それは毎日か?」
「いいえ、二日に一度の頻度です」
「領主の名前と特徴は分かるか?」
「いいえ、アモウしか知りません」
「アモウは今日は町に下りたのか?」
「はい、下りて行きました。陽が沈む頃なのでそろそろ戻って来るかと思います」
「そうか。ありがとうリエン。助かった」
「と、とんでもございません!」
タイミング的には丁度良い。今日のうちにそいつを殺して、さっさとここを手に入れてしまおう。俺がここに来た理由は単に体を鍛えるだけではない。
ここで採れた鉱石は、クラシーム大陸が保有する鉱石量のおおよそ四分の一を占める。つまりはここを手に入れてしまえば、財政に困ることはないということだ。ここを要として、大陸国家の実権を握ることも難しくないだろう。あの化け物とやり合うにしろ、戦力は必要となる。
回帰前の世界でも国を興して、同じように戦力として蓄えることがあったが、もっと早く国を手に入れていればなどと考えていた。
なので、今回は早いうちに国を味方につけたいと思っている。手中に収めてしまえば、国家同士の面倒ごとやその他の問題は押し付けて、俺は俺のやるべき事に集中することができる。一石で二鳥どころの話ではないな。一石で十鳥もいいところだ。
足音が聞こえる。シンが水を持ってきてくれた様だ。
「大兄貴様!水を持ってきました!」
「そうか、ありがとうシン」
テントの入り口に手が掛かる。それと同時に背後から何者かが俺を目掛けて飛びかかってきた。
「オラァァァッーーー!!」
「奇襲する際は声を上げるのはどうかと思うが」
ナイフを持って伸ばしてきた腕を、ほんの少しの力で軌道をずらし、その勢いのままテントの外の岩まで投げ飛ばした。
「かはッ...ッ!!」
岩に投げつけられた襲撃者は白目を剥いて、床に寝転がっているみたいだった。
「シン。俺は水が飲みたいと言ったはずだが、俺が間違えてしまったみたいだな」
「あ、あ、いや...」
「シン。人間は誰しもが間違えを犯してしまう。なので、こんな私を許してほしい」
「ち、違います。大兄貴様は何も間違えていません」
「?...ではどこの誰が間違えてしまったのだ?」
「間違ったというわけではないのです...!私が連れてきたのです!」
「シン。シンよ」
「...はい」
「頼まれごとに返事をしたのならば、最後まで責任を持つことだ。俺はお前に水を持ってきてくれないか、と頼んだんだ。水はどうした」
「も、持ってきていません」
「何故」
「そ…それは...」
「シン。お前も人間だ。間違えてしまったら、どうすればいい」
「...まさか...」
「...」
「...罪を償うべきです」
「ならばお前はどう償う?」
「!!」
俺は襲撃者の持っていたナイフを拾い上げ、シンらに見せびらかすように手に持った。それを見たシンが固唾を飲み込んだ後、沈黙が続いたので、俺はリエンに答えを尋ねた。
「リエン」
「はい...!」
「シンはどう罪を償うべきだと思う?」
「チャ、チャンスを与えるべきかと!」
「ほう、どんな」
「もう一度、水を持って来させるというのはどうでしょう...」
俺は真顔のままリエンを見つめる。案外綺麗な顔をしているな。俺の好みではないが。
「リエン。いい考えを思いついた。シンよ。もう一度水を持ってこい」
「「え」」
「二人揃ってなんだ、チャンスをやるんだぞ」
(今私が言った案なのに...)
(今リエンが言った案だろ...)
「いいかシン。もう間違えるなよ」
「...は、はい...はい!ありがとうございます!ただ今持ってきます」
シンは複雑な顔をしながらも、改めて水を取りに行ってくれた。そして、今度はちゃんと水を持ってきてくれた。襲撃者を縛っていた間にヤンは目を覚まし、シンが状況を説明したので、大人しく俺に従ってくれるようになった。
「リエン。そいつの顔を見せてくれ」
リエンは少し躊躇いながら、襲撃者の顔を隠した布を取った。襲撃者の顔には左部を覆い隠すように、青い刺青が彫られていた。どうやら俺を襲ってきたのは、ここのホーマ採掘場の管理人アモウだった。