竹の葉の先、小田原の夏(3/3)
小田原に引っ越してきた僕の、ある夏の夜の話。
今は深夜、僕はひとり入浴中。
脱衣場では、愛犬のモーが寝ている。
湯船の中で、何か動いたらしい。
状態を軽く起こして目を開けると、温まりすぎたせいか小さく眩暈がした。
白い水面から灰色に光る何かが、
ゆっくりと左側から僕の脚の間をよぎって、
再び湯の中に消えた。
すぐにまた右側から、開いた足のスペースからその背中(頭かもしれない)を覗かせた。
「背びれか」
見てすぐ、背びれという言葉が出るなんて自分でも意外だった。浄水されたお湯の効能かもしれない。
背びれの形の、ぬめった灰色の体の、シャチとかサメとかイルカとかの、
背中についてる三角のアレだった。
ガラス壁の向こうで、
浴室側に体を向けて伏せているモーは、静かに眠っている。
何も聞こえていないのか、ガラスの壁に防音機能は無いはずだけど。
少なくとも、近所の喧嘩に反応した時の、警戒した犬的動作はとっていない。
同じ光景を、僕は以前にも見ている。生き物の次の動作はわかっていた。
灰色のヌメヌメした生き物は、
「ギュウ、キュウ」
僕の脚の間、曲げた膝辺りから、頭を出して小さく高音を出して僕に挨拶した。
鼻と呼ぶのか、クチバシと呼ぶのか、丸いツノ的な顔の先端を、上下に振る。
お辞儀している動作に見えた。
「こんばんは」
僕はため息とともに小さな声で、
目の前の小さな(大きな湯船を泳ぐ程度には大きい)イルカに挨拶を返した。
「また会ったね」
小田原に引っ越して、たまに深夜に風呂に入るとこのイルカがでてくる。
僕は温まった体をシャワーで軽く覚まして、脱衣所で頭からタオルをかぶった。
部屋から持ってきた三ツ矢サイダーを飲むと、目の前の鏡越しに浴槽を見た。
イルカは変わらず、湯船で泳いでいた。
湯船を独占して嬉しいのか、優雅に尾ひれを振ったり、浴槽の淵に上体を乗り上げたりした。
僕が引っ越してくる前から、ずっと前から、自分はこの湯船で泳いでいたのだと、
そういう板についた振舞い方に見えた。
「部屋もどるよ」
僕が声をかけると、モーは立ち上がって、身震いをした。
ガラス壁にモーの唾液が飛んだ。
イルカがキュウと鳴いてジャンプした。
髪をドライヤーで軽く乾かし、再度パジャマを着ると
三ツ矢サイダーをチタン仕様のくず籠に捨てて、浴室の電気を全て消した。
暗い部屋に戻ると、窓から見える竹の葉の先を、赤いライトが照らしていた。
パトカーか、救急車かもしれない。
僕が窓に駆け寄るより先に、モーがソファに駆け上った。
僕は窓を開けずに、ガラス越しにアパートの方をみた。
モーも窓に鼻を押しつけて、ヴヴヴと唸った。
シイっ静かに、と小さく注意した。
そして、息をひそめてお隣さんの喧嘩を見ている自分に違和感を覚えた。
これじゃ覗き見じゃないか。喧嘩している二人に悪い気分になった。
でも実際覗き見ているので、それは正当な「悪い気分」だった。
道路には、さっきより近隣住民が出てきていた。
三十人はいないけど、窓から見えるだけで二〇人はいたと思う。
野次は飛ばしていないけど、野次馬という人だかりがこれか。
アパートの他の住人たちが、喧嘩がうるさくて自宅にいられないのかもしれない。
心配して出てきているのかもしれない。
去年の秋口の僕と同じく、今夜初めて二人の喧嘩に遭遇した人もいるかもしれない。
消防団の寄り合いや、町内会のお祭りに見えなくもなかった。
赤い光は、パトカーと救急車、両方の車両のものだった。
誰かが倒れたのかケガをしたのか、
その類のトラブルになる前に、住民が通報したのかもしれない。
前回の六月は、パトカーだけだった。
次回はどうなるんだろう。消防車も来たりするのだろうか。。
僕は二人の喧嘩をキライではなかった。
初めて聞いたときも、嫌ではなかった。
むしろ、定期的な喧嘩の声をきくと、安心した。
ふたりの真夜中の喧嘩から得られる安心感は、回数を重ねるごとに増していった。
ベッドサイドを電子時計は、午前一時十四分を指していた。
モーが僕の顔を舐めた。
子犬の頃から、眠い時とおやつをねだるときモーは僕の顔を舐める。
モーツアルトと名付けたのは和也さんだった。
同居を始めたのが去年の七月。
八月一日に、和也さんがブリーダーから連れてきた。
八月は僕の誕生日があるから、と連れてきた。
犬にはまったく詳しくないんですとたじろぐ僕に、和也さんは、
「英国ゴールデンレトリバーという犬種でね。
アメリカンゴールデンレトリバーより鼻が短くて目と鼻は黒、
毛はじきに緩くウェーブしてきます。ゴールド系のレトリバーはアメリカ系、
白はほとんどが英国系なんですよ。
真っ白い犬って神秘的に見えませんか、小田原城みたいで。
清潔で知的で。わたし一人で育てるにはなんとも体力がもちませんが、若い人にはちょうどいい弟がわりというか、相棒になると思いますよ。小田原での新しい生活の、相棒。
どうでしょうか」
どうでしょうか、と言われて、
両腕に3キロにも満たない骨格の柔らかい子犬を抱っこしながら、
「いや特に興味ありません」なんて、僕に返答できるわけがない。
「広い家の中が、にぎやかになりますね」
僕の反応に、
「なかよくね」和也さんは微笑んで、僕に抱っこされたモーの頭を撫でた。
一年も前の記憶を、結構鮮明に覚えている。
「さて、寝ますか」
窓から見える野次馬も、減ってきた。
ふたりの喧嘩に安堵を覚える野次馬も、
あの中にいたのだろうか。いたらいいなと思う。
どんなに喧嘩しても一緒に住んでいる二人は、
僕が知らないだけで、町内の名物なのかもしれない。
喧嘩のたびに、まだこの二人一緒に住んでるのかと確認する、
地域ぐるみの儀式なのかもしれない。
僕は立ち上がると、おいで、と両手をひろげてモーを抱っこした。
先週獣医で測ったとき、モーの体重はきっかり27キロだった。重い。
腰に気合を入れてモーをベッドへ移送する。
まんざらでもない顔の表情なのか、僕のきまぐれにあきれた表情なのか、
無事ベッドへ着地したモーは、僕の顔を見て鼻息を吐き、そのまま伏せた。
モーのいつもの眠る姿勢だった。
僕はベッドから右手にある窓側に、顔と体を向けた。
足元で伏せるモーの背中が僕の脚首に触れていて高い体温が伝わる。
窓を見ると、かすかな街灯の光で、竹の葉がかすかに揺れているのが見えた。
風は吹いていなくても、長い背丈のバランスをとるのに竹は揺れるものなのだろうか、
それとも外は風が吹いているのだろうか。
深呼吸。口の中に飲み干した三ツ矢サイダーの甘味が残っていた。
歯を磨きなおすのをあきらめて目を閉じようとすると、
背中側のシーツが波打った。
またあの生き物がタオルケットとシーツの間を動いている気配と音を感じた。
スーッと僕の背中を沿って足首まで移動すると、
ターンして足首から首元まで上がってくる。
珍しいな、風呂の中でしか現れないと思っていたのに。
「ギュウルル、キュルル」
イルカが僕のうなじを小突いた。
「ベッドまできたの、めずらしい」
クーラーに冷やされたイルカの皮膚が冷たくて気持ちよかった。
「おまえも、おやすみ」
イルカの生ぬるい体温が、僕の背中にぴったりくっついた。
背中一面に、イルカの胴体を感じた。
足首に触れたモーの温かさとは少し違う。
もう一度、僕は深呼吸した。
吐く息とともに、僕は自分の体重をイルカに預けた。
街灯にかすかに照らされた窓ガラスは、
モーの鼻の跡で白い軌跡まみれだった。
窓の外では竹の葉が揺れて、葉の先が描く曲線が、心地よい眠りを誘った。
(おしまい)