竹の葉の先、小田原の夏(1/3)
小田原に行ったことはありますか?
のどかで歴史的文化度が高くて、、でも住んでみるとまた一味違います。
母の再婚をきっかけに、新宿でサラリーマンをしていた僕は、
小田原に引っ越します。
そんなある夜の話です。
今夜もクーラーで冷やされた窓ガラスに、
モーが鼻を押しつけて外の景色を見ている。
曇ったガラスに、白レトリバーのモーツアルトが鼻の穴で二つのトンネルを描く。
フーッフーッ。
僕の部屋の窓ガラスは、年中モーの鼻の跡だらけだ。
ベッドサイドの電波時計が指すのは、
2019年8月3日午前0時36分。
『モーツアルト』の正式名称でモーを呼ぶのは、
継父の和也さんだけだ。
家政婦のサヤマさんも母も僕も、
最初の音だけ取ってモーと呼んでいる。
生後一一カ月ともなると、モーの体はほとんど成犬だ。
体重は30キロ弱で、白いゴールデンレトリバーは膨張色も手伝って、
実際より大きく見える。骨太で迫力があってかっこいい。
モーツアルトというよりは、エクスカリバーと呼びたくなるような。
「キャウ、ガウ」
モーが吠える声の向こう側で、人の話し声がかすかに聴こえた。
僕はスマホから流れる音楽の音量を下げた。
僕の部屋は二階なんだけど、
一階のリビングに大掛かりなシャンデリアがあるせいで、
二階プラス半階ほどの高さがある。
窓の外では、外壁の内側に等間隔で植わっている竹群の先端、
細い葉と枝が揺れている。
僕の部屋より高い建物は近隣に無いので、
僕はブラインドを外出時以外は降ろさない。
竹の葉と空が見える窓辺に、僕はロングソファを置いていた。
小田原の夏は全然おしゃれじゃない。
住んでみて初めて知った。
観光地としての小田原は、
情緒と歴史と魚の干物の香りがふわり香る。
居住地としての小田原は、
土着の庶民の慎ましやかな家屋と、
財を成して隠居した金持ち達のそつなくリノベーションされた屋敷が、
バランスをとらずに軒を連ねている。
1年前まで、僕は渋谷区民だった。
シングルベッドとニトリ家具に囲まれた1Kに住んで、
新宿のIT企業でシステムエンジニアとして勤めていた。
母は二年前、52歳の誕生日に八歳年上の会社経営者と再婚して、
相手が持ち家を構える小田原に引っ越した。
何回か訪ねるうちに、継父になった和也さんに同居しないかと誘われて、
なんとなく僕もいっしょに住むことにした。
別に理由なんかない。
あえて挙げるなら、リモートワークに踏み出すきっかけが欲しかったし、
一人暮らしじゃ滅多に食べない旨い魚の干物が食卓に並ぶ生活に憧れた。
後者の思惑は見事に外れたけど。
継父の和也さんは、フレンチやイタリアンが好きで、
食卓には日替わりの飾り皿が並び、
見目麗しく体に優しいコース料理を日常的に食べる生活を送っていた。
同居初期に、どうして綺麗な絵の皿の上にまた皿を重ねるのかって、
誰にも聞けずにネットで調べた。少し悲しかった。
飾り皿。
フレンチレストラン以外では見たことの無い様式美だった。
箸で食事をするときは家政婦のサヤマさんが休暇のときと、
僕が手料理を振舞うときだけだ。
「キャウウン、ガウ、バウ! ワン!」
ベッドに寝転がっていた僕は、なんだよ、とモーのいるソファへ向かった。
都内で住んでいた1Kが、現在の寝室に3つ分は余裕で入る。
キングサイズのベッドに、
壁掛けの68インチTV、マホガニーのデスク兼テーブル。
1K時代に使っていた2ドア冷蔵庫を、寝室の隅にミニバー代わりに置いたけど、
笑いたくなるほど部屋と調和していない。
モーの吠える白いマズルの向く先を、なぞってそとを覗いた。
角度が深すぎてよく見えないけど、
二軒右隣のアパートから人の声がして、分厚い窓ガラスをかすかに震わせた。
相当大声で話しているんだろう。
多分女性の声。たまに男性の声。
モーがヴヴヴヴと唸る。
怯えた声なのか、威嚇の声なのかはわからない。
僕は窓のロックを解除して、重い窓サッシを開けた。
はめこまれた網戸窓があらわになった。
「おまえ、きいてんの!」
女性の叫び声がクリアに、道路と夏の夜の生々しい熱気に響いた。
モーが吠える。
「ガウ、ギャウ、バウン!!」
僕はモーのマズルを抑えて
「だめ吠えるな。近所迷惑だろ、だめだぞ」
僕がモーの耳元につぶやくと、頭ごと僕の顔の方を向けた。
犬のモーに人間みたいな眉毛はないけど、
眉毛があるあたり、眉間の距離を縮めて、
モーは片眉をあげた表情になった。
女性がさらに大声で吐き叫ぶ。
「おまえの、役立たずのおまえの、そのケータイ、誰が払ってると思ってんのよ!」
「家事ひとつ手伝わねーで、あたしはおまえの家政婦か!」
金切り声と呼ぶには低すぎる声だった。
女性の声は40代後半くらい、
酒に酔った声にも聴こえたけど確認はできない。
女性の姿は相変わらず死角で見えない。
アパート前の駐車場か、
もしくは自室前の通路で口論しているのかもしれない。
女性の言葉の合間に、おなじく姿の見えない男性の声がする。
「いいから、部屋いれてよ」
「わかった、近所迷惑だから」
「あーもう、うるせーな」
怒声というより困った声に聞こえた。
男性の声は、女性より若い年齢らしかった。
女性の恋人か、息子だろうか。
窓から見える街灯や曲がり角、道路脇に、
ちらほらと人が集まってきていた。
正直、僕は二人の喧嘩を
すこし懐かしく思った。
そろそろそういうタイミングか、と思った。
この母子、もしくは恋人たちの喧嘩に、
僕は梅雨時の六月にも、もっとさかのぼると、
桜の咲く時期と、去年の秋口にも遭遇している。
毎回モーが喧嘩の声に向かってソファから吠えて、
ベッドにいる僕が起こされた。
初めて喧嘩の声を聞いたのは、
小田原に引っ越ししてきて三か月たった秋口だった。
僕はまだ新しい家にも部屋にも、
子犬を飼う生活にも馴染んでいなかった。
今夜の喧嘩なんてまだ人間的なほうだ。
秋口の、僕が聞いた初回の喧嘩で女性は、
「キイイエエエエエエエエエ」
かなり長い時間叫んでいた。
僕の中の、素朴で上品な、
ほんのり艶やかな小田原のイメージが崩れ去った夜だった。
初回に比べると、
まだ今夜は両者の会話としての喧嘩が
かろうじて成立しているように思えた。
勿論どちらの方がマシとか比較なんかできないし、
比較しても仕方ないんですけど。
「またか。飽きないね、あのひとたち」
僕の肩に頭を預けたモーは、フウと鼻息を吐いた。
口を開けて舌も出し始めていた。暑いのだろう。
僕は窓を閉めると、部屋の隅にある冷蔵庫へ向かった。
階下のキッチンまでは少し遠いので、
ちょっとしたドリンクやスナックはこの中に常備している。
和也さんの飲まない発泡酒、コンビニプリン、お徳用ビッグサイズのキャベツ太郎。
量販店で売ってる安価なスパークリングワインに、
スーパーカップバニラ味。
キャベツ太郎が特に僕のおつまみレギュラー部員なんだけど、
上品で美食家の和也さんはきっと食べない。
和也さんの食生活を、プロとして支えているサヤマさんも買ってこない。
というか、サヤマさんにジャンクフードを買いに行かせるのは失礼な気がした。
後妻の連れ子とはいえ、
三〇歳過ぎて家政婦さんに
「お菓子買ってきて」なんて僕は言わないし、
自分のお菓子をキッチンの棚に入れておくのもなんだか気恥ずかしい。
キッチンはサヤマさんのナワバリなんだ。
聖域といってもいい。
過呼吸になりそうに清潔なキッチンを見れば一目瞭然だ。
さらにキッチン奥の業務用冷蔵庫には洗練された食材が、
寝息を立てて保存されている。
食材たちの寝息は、
夜な夜な躾けられた合唱団的ハーモニーを奏でている。そう断言できる。
なんて、冗談にならない冗談だ。
僕は前かがみになって、庶民的マイ冷蔵庫を開けた。
三ツ矢サイダーのペットボトルを開けると、
シュウッと開栓音が部屋に響いた。
スマホで聴いていたサカナクションはもう鳴りやんでいた。
この家とズレている僕の冷蔵庫は、僕だけの嗜好品が詰まっている。
「ちょっとだけ風呂いくよ」
モーに告げると、勢いよくソファから駆け降りてドアを開ける僕の腰を前足で蹴った。
(つづく)