番外編 やり直したい
ここは地獄のどこか。
そもそも物質の無い霊界に明確な『住所』など存在しない。
ただ、ここは地獄の中でも、比較的浅い階層と言えた。
1体の人型の怪異と、1人の柔和な微笑みを浮かべた男が
正面から対峙している。人型の怪異は、よだれを垂らし、
すでに正気を失って久しいようだ。
柔和な微笑みを浮かべた男は、袈裟のような衣装に身を包み、
合掌して動かない。
どれくらい向かい合っていたのか、その人型の怪異が
唐突にポツリとつぶやいた。
「ク・・・食って・・・やる・・・」
柔和な微笑みを浮かべた男は、満足げに小さくうなずいた。
何が満足なのかは、全くわからない。だが、この小さな男は
確かに怪異の言葉にうなずいたのだ。
「グオオオオッ!」
怪異が恐ろしい声で叫ぶ。しかし、それでもこの小さな男は
微笑みを崩さない。ただ、『構え』をとった。
合掌する手から、左手をそのままに、右手だけ拳を握り、振りかぶる。
小さな男へ向かって、怪異は狂気の叫びを上げながら突進してきた。
ぐんぐん距離は縮まるが、その男は全く動じない。
そして、握った拳を怪異へ向けて放った。
「地蔵流・・・『天地心響拳』!!」
その握った拳は、怪異の顔をとらえ、吹っ飛ばした。
怪異は地面を転がり、仰向けに倒れる。
「・・・。・・・くっくっく・・・はっはっは!」
その怪異は笑い声をあげ、即座に立ち上がった。
『全く効いていない』ことをアピールするように。
その小さな男は、それを見て、微笑みを浮かべたまま、
またもうなずいた。しかも、今度は大きく。
「どうした? 全然効いてねえぞ。
かかって来いよ。あのひょろひょろパンチを
もう一回やってみろ。今さら怖くなったのか? ああ?」
不思議なことに、その怪異は、いつの間にか
普通にしゃべれるようになっていた。
その上、次第に姿がどんどん人に近づいている。
その小さな男は、穏やかに語り掛けた。
「お前こそ、来ないのか?」
「はっ、安い挑発だな」
その怪異は笑った。しかし、内心、奇妙な事に気付いていた。
(なんだ・・・? なぜ、俺は動けない?
いや、体を動かしたくない・・・?
くそっ、どうなってやがる? なぜか前に出たくねえ。
あのパンチは全然痛くなかったってのに・・・。
俺に何が起きてるんだ? それに、殴られたところが温かい。
いや、『熱い』・・・。不思議だ、俺は、この『熱さ』を
昔から知っているような気がする。
何か、何かを思い出しそうな気がしやがる・・・。
あのヤロウは、俺に何をしたんだ・・・?)
その怪異は、態度と裏腹に、
その場所から全く動けなくなってしまった。
「全く痛くないのが不思議かな?」
その小さな男は、相変わらず微笑みを絶やさない。
(なんでわかるんだ・・・)
その怪異はすでに完全な人の姿へ変わっていた。
痩せた、みすぼらしい姿。目の下には隈が出来ている。
頬までも、げっそりと痩せていた。
「先ほどは、ただ殴ったのではない。この者の『心』を
お前に直接打ち込んだのだよ」
この小さな男はそう言うと、懐から小さな光の玉を取り出した。
その小さな光は、手のひらの上で、次第に形を変えていく。
その光の玉は、やがて一匹の小さな小さな痩せた猫の姿になった。
先程まで怪異だった瘦せた男は、その猫を見た瞬間・・・思い出した。
「お前・・・『チョビ』か・・・? チョビ? チョビなんだな?」
「にゃー」
その痩せた猫は、微笑みを浮かべる男の手から飛び降り、
痩せた男の元へ、小さな体で一生懸命、一生懸命、走った。
そして男の足に、ほほを摺り寄せる。
「お前・・・俺を忘れていなかったんだな。鼻の下の
『ちょび髭』みたいな模様も、そのまんまか。
はは、なんか懐かしいなぁ。お前が死んだ時は、
俺、泣いたんだぜ。そう言えば、あれからだな・・・
俺が全てに絶望して世の中を呪うようになったのは・・・」
この痩せた男は、不幸な生い立ちを抱えていた。
父親からも、母親からも愛されず、毎日殴られていた。
『金を持ってこい』と、いつも言われていたので、
幼いころから犯罪に手を染めていた。
盗んだお金を持って帰った時だけ、両親から殴られない。
この男は、それだけが唯一の幸せだった。
ある時、この男は小さな、痩せた子猫を見つけた。
いつもなら金にならないので無視するだけだったが、
痩せたその姿に、自分を重ねた。男は気まぐれを起こし、
この痩せた子猫に食べ物を与えるようになっていく。
自分自身が満足に食べることができないのに、
自分の食料を子猫に分け与えた。子猫も、この男に懐いた。
痩せた子猫は、この男の唯一の『ともだち』になったのだ。
だが、ささやかな新しい幸せは長くは続かなかった。
ある日、男が子猫の元へ行くと、いつものねぐらにいなかった。
そこから少し離れた場所で、その子猫はボロ雑巾のようになって
息絶えていたのだ。
多くの『噛み痕』・・・野良犬に襲われたのだろう。
男は、子猫の亡骸を抱え、泣いた。
声を上げて、泣いた。
もう帰らぬ命に対し、泣いた。
泣いた。泣いた。泣いた。泣いた。
泣き続けた。
『どうして、ぼくのたった1人のともだちを奪うのか』
『なぜ、誰も助けてくれないのか』
『なぜ、この世界は弱者だけを憎むのだ』
男は神を呪い、世の中を呪い、全てに絶望した。
全てが怒りの対象となり、あらゆるものを憎んだ。
自分を殴る両親を殺し、他人を殺し、奪った。
だが、子供の体では、強盗など長く続くはずもない。
すぐにゴロツキから返り討ちに遭い、路上で血を流し、死んだ。
地獄の裁判所で刑期を言い渡されたが、聞いてなかった。
全てに絶望していたからだ。そして、刑期が終わると、
この男の魂は暗い地獄の底へ落ちていった。
すぐに魂は怪異と化し、正気を失い、同じような地獄の住人と、
終わることの無い殺し合いを延々と繰り返す。
冥界に『死』は無いからだ。
それが何年続いただろう・・・?
ある時、不意に周囲が明るくなった。
気が付くと足元に地面まで見える。
正気を失っていたが、初めての出来事に驚いた。
そして、この微笑みを浮かべた小さな男が現れたのだ。