002 守護竜の間
竜谷の滝の真下には、守護竜の間と呼ばれる秘密の空間がある。
大きな天井は滝壺の底であり、水面が見えるが水が下に落ちることはない。
広々としたこの洞窟は、細い横穴がいくつも存在するが、ドラゴンの様な巨体が通るのは不可能だ。
しかし守護竜だけは天井を突き破り飛翔することができる。ただ、それは面倒なので、ほとんどこの洞窟で過ごすのが今代の守護竜の日常だった。
横穴から度々他のドラゴンが人の姿で訪ねてくるし寂しいことなど何もない。
寂しくはないはずだったのに──。
◇◇◇◇
『ヒドイのじゃ。ヒドイのじゃ。何ヵ月も放置するとかヒドすぎるのじゃぁぁぁぁぁ。ずっと、ここにいるって約束するまでここからは出さないのじゃ!』
「だから、そんな約束できません。僕は帰ります。約束してもここから出られないじゃないですか」
泣きじゃくる甲高い声に、聞き馴染んだ青年の声。
ルーシャがシュヴァルツに連れられ辿り着いた先は、二つの声が響く広い洞窟だった。
天井は曇よりとして暗く、まるで水面のように揺れ動く不思議な空間。
その真ん中には白銀の巨大なドラゴンが踞って泣き喚いていた。
『ワシの命も後僅かなのじゃ。独りじゃ寂しいのじゃぁぁぁぁぁ』
「何言ってるんですか。コハクだってザクロだっているでしょう? 僕は前回のようにならない為に彼女の側にいたいんです」
『コハクは口が悪いし、ザクロは一緒に泣くだけ。ヒスイがいいのじゃぁぁぁぁ』
「泣かないでくださいってば……」
ルーシャは緊張しながらゆっくりとヒスイの声がする方へ歩みを進めた。
大きなドラゴンの目の前で、ヒスイは正座しドラゴンの鼻先を撫でてやっていた。別れた時のまま、元気そうなヒスイを見てルーシャはホッとしてその場に崩れ落ちた。
「良かった。ヒスイ……」
「る、ルーシャ!? どうやってこんなところまで!」
『あ、人間じゃ。それもあの時の……』
ヒスイはルーシャに駆け寄り冷えきった身体を抱き締めた。
「ルーシャ。何でこんな無茶を……」
「だって、ヒスイに会いたくて。もう会えなくなっちゃうのかと思って。怖くて怖くて、いてもたってもいられなかったの」
「すみません。もう一人にはさせませんから……泣かないで下さい。ルーシャ」
「でも、止まらないんだもの。嬉しくって……」
目の前にヒスイがいる。それだけで胸がいっぱいになる。彼が触れた箇所は暖かく、次第に熱を帯びていく。
ルーシャは、ここまでの道程で気づきかけていた自分の感情が何なのか確信した。
ヒスイが好き。ずっと一緒にいたい。
ルーシャの心に安息をもたらすのは、彼しかいないのだ。
ヒスイは溢れだすルーシャの涙を指で拭い、もう一度抱きしめたが、隣から発せられる熱い視線が鬱陶しく、守護竜を横目で睨んだ。
『若いのぉ~。お熱いのぉ~』
「いい加減に──」
ヒスイが言い返そうとした時、後ろにいたシュヴァルツがブルンッと身体を震わした。そして水滴を周囲に振りまくと、突然頭だけ膨張させ、口から何か吐き出した。
「きゃっ。な、何!? ──り、リック!?」
リックは見るも無惨にボロボロのローブを纏い、地面に吐き捨てられた。ローブは所々焦げ、仰向けに倒れると荒い息遣いで顔を押さえた。
ヒスイがリックを抱き上げ手を握ると、リックは震える手でヒスイの手を力無く掴み返した。
「リック君。大丈夫ですか!?」
「ははっ。雷ヤベェ。けど良かった。ヒスイ殿、ルーシャをここまで……オレが連れて来たん……ですよ」
リックは無理やり笑顔を作って自身の功績を話すが、痛々しくて見ていられない。
「話は後で聞きます。少し寝てなさい」
「へへっ。じゃ、後で背中乗せろ……よ」
「ヒスイ。リックは……」
「寝ましたね。魔力の使いすぎだと思います。最後の力でシュヴァルツのところへ転移したのでしょう」
地面にリックを寝かせると、シュヴァルツが顔をペロペロと舐めている。怪我は何処にもなさそうだ。
「私が無理をさせてしまったの。ヒスイに会いたくて。コハクにヒスイが連れていかれちゃって、どうしていいか分からなくて、リックに頼ってばかりで」
「すみません。全部僕のせいです。もっと早く守護竜の所へ行くべきでした。駄々をこね始める前に」
「駄々?」
ルーシャが守護竜へ目を向けると、精悍な顔つきで白銀のドラゴンがこちらを見据えていた。さっきまで泣き喚いていた姿は微塵もなく、神々しいその姿はまさに守護竜の名に相応しい。
『人間よ。我がこの国の守護竜じゃ。ここまで辿り着いたことを誉めて遣わそうぞ。しかし、まだ儀式には早い。早々に立ち去るが良い』
「しゅ、守護竜様。私はルーシャ=アーネストと申します。私はヒスイを迎えに来ました。また会いたくて、傍にいて欲しくて……私の我が儘でこんなところまで来てしまいました。申し訳ございません。この場からすぐに立ち去ります。でも、ヒスイを連れていってもいいですか?」
「ルーシャ……」
『それは嫌じゃ。他のドラゴンならいい。でもヒスイは駄目じゃ。ヒスイが一番優しいのじゃ。ヒスイがいないと寂しくて涙が止まらんのじゃ』
守護竜は急にふてくされた顔つきに戻り、ヒスイに大きな顔を寄せ自分の方へと引き戻した。
「そ、そんなっ」
「守護竜様。ただの駄々っ子に戻ってます。子供じゃないんですから、もういいでしょう? 空が泣いてます。僕だって顔見せに来たんですし、それで満足してください。人間相手に威厳が足りませんよ!」
ヒスイに叱られると、守護竜は目を細めて不満を表す。どうやら最近の長雨は、守護竜の涙だったようだ。
『威厳なんてもうどうでもいいのじゃ! その人間への借りは返したつもりじゃ。いくら守護竜の花嫁になる人間だろうと関係ない。さっさと帰るのじゃ。そうじゃ。コハクならうるさいから連れていって良いぞ』
「こ、コハクって……」
確かにうるさそうだ。
そういえばコハクはどこにいるのだろう。
そう思った時、天井近くの横穴からパラパラと土埃がこぼれ落ち、コハクの怒号が響いた。
「ふざけんじゃねぇぇぇぇぇぇ!」
滑り落ちてきた人型のコハクは、守護竜の背中に飛び降り、ルーシャとリックを見下ろしヒスイを睨み付けた。
「まぁた、この人間かよ。赤髪のクソガキはそいつの仲間だったのか。……だったら遠慮せずに殺しちまえば良かったぜ。なあ、ヒスイ。あん時みたいに、あいつの家族を殺した時みたいにな!」
怒りを露にしたコハクを、ヒスイは見上げ首を横に振った。
「もうやめろよ。そんな嘘、つかなくていいから」