001 泣き声
今朝も土砂降りの雨だった。
シェリクス領に来てからずっとこの調子だ。
こんな雨がひと月も続いているのだろうか。
その割には土砂災害や地盤沈下の話は出ていなかった。
滝壺までの道のりが心配であったが、リックは意外な移動手段を隠し持っていた。
それはシュヴァルツだ。別荘を出ると、いつもよりちょっと大きめサイズに膨れたシュヴァルツが待っていた。リックとルーシャを乗せるのにちょうど良い大きさだ。
「んじゃ。出発するから、オレにしっかり掴まって。何か見つけたらすぐ教えて」
「うん。シュヴァルツよろしくね」
「バゥッ」
シュヴァルツは元気よく返事をすると、身を屈め大地を強く蹴りあげ、大木よりも上へ飛び上がり木の上を走り出した。
「え、ぇぇぇぇぇええええ!?」
「ルーシャ。ちゃんと掴まって!」
驚いて離しかけた手をリックに引き寄せられ、ルーシャは怯えながらもリックの腰にしがみついた。
ここは木の上だ。シュヴァルツは雨を全身で受けながらも優雅に木の上を走る……というより、翔んでいる。
「と、翔べるなら先に言って。驚いたでしょ!?」
「あれ~。言わなかったっけ。あ、もう少し速度あげられるけど、いける?」
「無理無理っ。あっ。その森の先に崖があるから、そこを落ちれば竜谷の山に繋がっているわ」
「よっしゃ。意外と近いな。一気に行くか!」
「バゥッ」
「ゆ、ゆっくりお願っ──」
ルーシャの言葉は誰にも聞き入れられず、シュヴァルツは加速すると空を蹴り崖に飛び出した。
ああ、このままきっと落ちていくんだ。
ルーシャは覚悟を決めてリックの背中に顔を埋めて目をギュッと閉じるが、落下の衝撃はおろか、風を切る感覚も急に消えてしまった。
「おっとぉ……」
森を抜けた崖の真上で、シュヴァルツは毛を逆立て足を止めていた。
その視線の先には崖の先端に立つ人物がいた。
オレンジがかった飴色の髪の青年は雨を滴らせながらこちらを見上げている。
「こ、コハク……」
「やっぱあいつがそうか。ルーシャ。顔隠しとけよ」
「うん」
リックは無言でこちらを睨むコハクに陽気に声をかけた。旅先で住民に道を聞くときのような、軽い感じで。
「お~い! オレはリック。ドラゴンに会いたくてここに来たんだ。ここのドラゴンは話ができるって聞いてさ。オレを背中に乗せてくれるような、優しいドラゴン、ここならいるかな?」
「……んなヤツいねぇから帰れ」
「そっか。じゃ、せめてドラゴン拝んでから帰ります」
リックがそう告げると、シュヴァルツは真下を向き崖を一気に駆け降り始めた。
少しでも気を緩めたら振り落とされてしまう。
ルーシャは歯を食い縛り必死で堪えていると、背後からコハクの怒鳴り声がした。
「おいっ。そっから先は行くな。止まれ!」
「何でっすか~? ここまで来たんですから、一目で良いのでドラゴンに会いたいんです~。あわよくば、オレを背中に乗せて空を翔んでくれるようにドラゴンにお願いしたいんです~」
急降下しながら叫ぶリックの後を、コハクも崖から飛び降り追走する。
「ふざけてんじゃねえよ。てめぇの犬で空翔んでりゃ良いだろっ」
「オレはドラゴンがいいんです~」
「はぁ!? ──だったら、拝ませてやるよ」
コハクのどすの聞いた声がしたかと思うと、背後に強い光を感じた。そして次の瞬間、周囲は暗くなりルーシャの身体を打ちつけていた雨が急に止まった。
「ヤバイぃ。下に降りたらシュヴァルツを分けるから、オレと別行動なっ」
「囮になる気!? それに、分けるって……」
「着けば分かるっ──うぉぉぉぉぉぉっ!?」
その時、背中から暴風が押し寄せ、シュヴァルツは煽られ更に速度を上げて地面に近づいた。このままじゃ木に突っ込む、そう覚悟した時、ルーシャはリックにローブを掴まれ空中に投げ出された。
身体が宙を舞い、天地が逆転する。
上空には羽を広げた巨大なドラゴン。
強烈な風は、そのドラゴンの羽ばたきだった。
「行けっ」
リックはシュヴァルツをまた空へと走らせた。
囮になるつもりだろうけれど、ルーシャはこのまま地面に落ちていくだけ、どうしたら良いか思考を巡らせたとき、身体がフワリと浮かび上がった。
「シュヴァルツっ」
黒い狼がルーシャのローブをくわえていた。
地面に落下する寸前に捉えられ、ゆっくりと地上に下ろしてくれた。
「ありがとう。シュヴァルツ。でもシュヴァルツは二匹だったの? 君もシュヴァルツでいいのかな?」
「……。バゥっ」
さっきよりも少し小さいシュヴァルツは、ルーシャが背中に乗りやすいように屈み込んだ。空にはリックがもう一匹のシュヴァルツと一緒にコハクの注意を引いてくれている。
「シュヴァルツ。ヒスイのところに連れてって」
「バゥ」
木々の隙間を縫ってシュヴァルツは泥だらけの大地を駆けた。後方では落雷の音が鳴り響く。
リックは大丈夫だろうか。シュヴァルツにしがみつくので精一杯で振り返る余裕もない。
森を切り抜けると小さな洞窟に滑り込んだ。
少し屈まないと通れないぐらい狭い洞窟でも、シュヴァルツは怯むこと無く駆け抜ける。
生温い風を浴びながら、ルーシャは不思議な感覚に包まれていた。
雨音が遮られてやっと気づいた。
洞窟の奥から声が聞こえる。
とても悲しい寂しさと孤独を訴える声だ。
赤子の泣き声のようなその声は、ルーシャが目指すその先から、絶えず響いていた。