008 偽りの婚約者
ルーシャは二人掛けソファーへ腰かけ、目の前には営業スマイル全開のリックが正座している。
そしてルーシャの隣にはもう一人、居心地の悪そうな顔をしたテオドアがいた。
テオドアの姓を聞いたリックは、丁重に馬車の中へと彼を招き入れたのだ。
「シェリクス家の方と偶然お会いできるとは驚きました。ルーシャさんとはお知り合いなのですね!」
「ルーシャは私の婚約者だ。何故ここに?」
「婚約者!?」
リックが驚いて固まってしまったので、ルーシャは仕方なくテオドアの質問に答えた。
「雨が続いていると聞いたので、お義父様のことが心配だったのです。テオドア様は、どうされたのですか?」
「王都へ行く予定だった。ルーシャ、君は今までどこにいたのだ? 教会に連絡したら、君はいないと返事がきた」
「私は……」
お互い目すら合わせずに会話する二人をリックは訝しげに眺めていた。本当に婚約者なのだろうかと。
「あの。ルーシャさんは今、パン屋の手伝いをしていらっしゃいますよ」
リックが口を挟むと、二人同時に驚いた顔をしてリックに目を向けた。
「パン屋だと?」
「えっと、お、王都の……」
ルーシャは目を泳がせながら返答を必死で考えているのがリックには分かった。この二人は訳アリだな、と。
「中央区にあるパン屋です。本当は教会にいらしたんですけど、そこのパン屋の老夫婦が人手不足で困っていて、教会の慈善事業の一貫としてお手伝いに行ったんです。そしたら、そこでルーシャさんが作ったアップルパイが人気になってしまって、もう教会に戻るどころの話じゃなくなってしまったんです。なんと、今では陛下まで足繁く通っちゃうほどなんですよ」
ルーシャはペラペラと嘘を話すリックを呆然と眺め、テオドアは途中相槌をうちながら、熱心に聞いていた。
「そ、それは凄いな。しかし、ルーシャが見つかって良かった」
「私を、探していたのですか?」
「いや。その……。王都で不可解な病が出ていると聞いて、レイスに話を聞きに行こうと思っていたのだ。シェリクス領の異常気象についても相談しようかと。何か聞いているか?」
口ごもるテオドアにルーシャは自分を探す理由を察した。テオドアは守護竜の花嫁であるルーシャの存在を確認したかったのだ。
「王都では、守護竜の花嫁を催促しているのではないか、と噂されているようですよ」
「やはり……そうなのだろうか」
「なんですか? その守護竜の花嫁って」
「知らないのか?」
「リックさんは、異国から来た商人の方なんです。だから、何も知りません」
テオドアは納得すると、少しの沈黙を挟んでルーシャの手を握りしめた。
「そうか。ルーシャ、君はこれからどこへ? アーネスト伯爵は健在だ。安心して良い。だから、私と行動を共にしないか?」
「テオドア様と、ですか?」
「ああ……私とだ」
ルーシャの手を握り、祈るように顔を俯かせたままのテオドアに、ルーシャは他人事のように、そして語りかけるように話しかけた。
「どこへ行くのでしょうか。安心してください。私は守護竜の花嫁であることから逃げたりしません」
「そういうつもりではないんだ。ただ……」
テオドアの手の力が緩んだ隙に、ルーシャはそっと手を引き、頭を下げた。
「申し訳ございません。私は一つ嘘をつきました。私はここへお義父様を心配して尋ねたのではありません。私は竜谷へ友人を探しに来たのです」
「まさか、ドラゴンに人が拐われたとは本当のことだったのか!? それがルーシャの友人ということは、やはり……花嫁を誘いだそうとしているのか」
「ドラゴンに人が?」
「見たものがいるのだ。一昨日、人を抱えてドラゴンが飛んでいる姿を」
ヒスイはここにいる。ルーシャはリックと顔を見合わせ微かに微笑んだ。
「そうですか。やっぱりここだったのね。その人は無事なのですか?」
「分からない。雨が続いているから、竜谷への道も危険だ。だから」
「助けにも行っていないのですね。──私は行きます。大切な人なので」
「ならば、私も行こう。君一人でなんて行かせられない」
ルーシャはテオドアが伸ばした手から身を引いた。
テオドアも身じろぐルーシャを求めることはしなかった。
「私は偽りの婚約者です。そこまでしていただかなくて結構です。私はテオドア様の花嫁ではなく、守護竜の花嫁として選ばれたのですから。テオドア様は公爵家を継ぐお方です。軽率な行動はなさらない方が良いと思います」
「分かった。力が及ばず申し訳ない。私は……君のこともクラウディアのことも失いたくないのに……失礼する。もし、こんな無力な私でも力になれることがあったら言ってくれ。シェリクスの屋敷に私はいるから」
「はい。お心遣いありがとうございます」
テオドアは涙を拭い馬車を出ていった。
間も無く、隣の馬車がシェリクス家へ向けて出発する。テオドアが何故クラウディアの名を出したのかは気になったが、もう彼と話したくなかった。彼と一緒にいると、辛い。
「リック。私達も行きましょう。ヒスイもドラゴンも竜谷にいることが分かったもの」
「えっと……。それは分かったんだけどさ。守護竜の花嫁って何なんだ? 全然話が掴めないんだけど」
「話は別荘についてからにしましょう。どうせ今日はもう時間がないから、竜谷を目指すのは明日になるわ」
「分かった」
リックが御者台へ向かうと、シュヴァルツがルーシャに身体を擦り付けてきた。ルーシャを心配するように、身体を寄せ温もりをくれる。
「ありがとう。シュヴァルツ。私は大丈夫よ。彼が選ぶのは何か知っていたから。辛くなんか、ないんだから」
リックは下唇をグッと噛み締めた。ルーシャの悲しみが、シュヴァルツを通じて嫌という程心に流れ込んできたから。