007 爽やかな香り
「ミールさん!」
ショックで動けなくなったルーシャの代わりに、ヒスイは倒れたミールを抱き上げた。
割れた陶器で切ったのか、腕から血が流れているので、ヒスイはミールの腕をハンカチで包み止血する。幸い傷は深くなさそうだが、意識がないことが心配だった。
「ロイさん。この近くに怪我を診てくれる所はありますか?」
「そ、それは……」
ロイが青い顔でしどろもどろしていると、アリスが戻ってきた。
「教会に行きましょう。診療所があるわ。頭を打っているかもしれないし、そのままゆっくりミールさんを運ぶことは出きる?」
「はい」
「私に付いてきて。えっと……」
「ヒスイと申します」
「ヒスイ君ね。貴女はロイさんについていてあげて。大丈夫、すぐ戻ってこれるわ。教会には優秀な教官が沢山いらっしゃるから」
「は、はい。よろしくお願いいたします」
ルーシャは震える声を絞り出し、アリスへ深々とお辞儀した。ミールが外へと運ばれていく。
恐くて顔を上げることが出来ずにいると、床にこぼれた茶色い液体が見えた。ポットの破片に付いたミールの血がそれに溶け、赤黒く濁っていく。
どうしてだろう。土砂降りの雨音が耳に響く。
壊れた馬車。泥の混じった水溜まり。
雨に流される赤い──。
「ルーシャさん!?」
遠くの方でロイさんの声がした。
そう思った瞬間、あの滝壺に落とされた時のように、意識が遠退いていった。
◇◇◇◇
爽やかなミントの香りが鼻を掠め、目覚めを誘う。重い目蓋を開こうとしたら、爽快な香りとは相反するほど騒々しい声が聞こえた。
「ルーシャさん! 良かった目が覚めて~」
「ろ、ロイさんっ」
号泣するロイの後ろには、アリスとヒスイ、それからミールも見えた。
「ミールさん。怪我は!?」
身体を起こそうとしたルーシャの肩に、アリスはそっと手を添えソファーへ押し戻した。
「それより自分の心配をしたら?」
「そうですよ。店に戻ったら、ロイさんがずっとルーシャの回りをグルグル歩き回りながら泣いてたんですからね!」
ルーシャは喫茶スペースのソファーに寝かされていた。床もきれいに掃除され、窓の外には夕焼け空が見える。
「ごめんなさい。あの、ミールさんの怪我は……」
「私は大丈夫。教会で治療していただいて。今朝よりも元気になってしまったわ!」
ミールの腕の怪我は綺麗に無くなっていた。
顔色もいいし、いつものミールだ。
「良かった……」
「私は失礼するわ。陽が落ちる前に王都へ戻りたいから。お大事にね」
アリスはテーブルに置かれたロウソクを吹き消し、店を出ていった。火が消される瞬間、ミントの香りが広がった。どうやらこのロウソクから香りがしていたようだ。
「これは?」
「アリスさんがくれたんだ。アロマなんとかと言ってな。ルーシャさん。夕食は部屋に運ぶから、ベッドで横になりなさい。歩けるかい?」
「そうよ。私はピンピンしてるから、安心して」
「ありがとうございます」
ロイにもミールにも心配をかけてしまった。
それに、アリスにも二重に迷惑をかけてしまった。
ルーシャは元気な姿を見せようとソファーから立ち上がろうとしたが、急な目眩に襲われソファーへ倒れかけた。
「ルーシャ。無理しないでください」
ヒスイが肩を支えてくれたかと思うと、ルーシャの身体が軽々と持ち上げられる。
「あら。お姫様抱っこ。いいわね~」
「ミールもさっきヒスイ君にやってもらってたんだぞ」
「あら、そうなの。恥ずかしいわ」
「ヒスイ。下ろして。私も恥ずかしい!」
「はいはい。このまま部屋まで行きますからね」
「そうしてくれ。その方が安心だ。今日の仕込みはワシ一人で出きるから、ヒスイ君はルーシャさんを頼むよ」
「はい」
「でも──」
反論しようとしたら、これ以上喋るなとヒスイに睨まれ、ルーシャはヒスイの胸に顔を埋め身を任すことを選んだ。
ロイとミールは二人の後ろ姿を見てほっこりしていた。
「あの二人、お似合いよね」
「ワシもそう思う。……がしかし、ルーシャさんにはカルロの嫁に来てもらうのだ」
「そうね。そんな話だったわね。──あ。アリスさんから聞いたのだけれど、王都の常連さんが待ってるみたいよ」
「そうか。ヒスイ君もよく働いてくれるし、そろそろ王都へも売りに出すか」
「ええ。そうしましょう」
二人は微笑み合うと、それぞれの仕事に戻っていった。