006 初めてのお客様
週に一度はレイスがアリアを連れてパンを買いに来るようになってから、ひと月が経った。
孫のカルロは戻ってくる気配もなく、ヒスイはパン作りにハマり、ルーシャはミールから料理を教えてもらい充実した日々を過ごしている。
レイスと共にアリアが来店することをルーシャは気に掛けていたが、長くても店にいるのは昼から夕暮れ前まで。特に問題は起こらなかった。
毎朝パンを取りに来る騎士訓練所と教会の給仕さんとは顔見知りになったし、両施設の講師や教官の人もよくパンを買いに来てくれるようになり、親しくなっていた。
ミールはお客さんが好むパンを熟知していて、日によって焼くパンをロイに指示していることも分かり、ルーシャも段々と日々の流れを理解してきていた。
今日は教会に週に一度、講師として訪れるアリスさんが来店する日だ。
彼女はいつもライ麦パンとラズベリーのジャムを買っていく。美人で落ち着いた雰囲気の大人の女性だ。
その日の朝、ミールはルーシャにある提案を持ちかけた。
「ルーシャさん。今日はアップルパイを焼いてみない? アリスさん、王都でお茶会を開いているらしくて、お茶に合う物を探しているらしいの。アップルパイを置いてみたら、気に入ってくれるかもしれないわ」
「私の作った物でいいんですか!?」
「ええ。先日作ってくれたアップルパイ。とても美味しかったもの。主人の許可も得たわ。アリスさんが買ってくれるかは分からないけれど、どうかしら?」
「ぜ、是非作らせてください!」
◇◇◇◇
昼過ぎ、アリスはいつも通り店に顔を出した。
腰まで延びた金髪は毛先だけ上品にカールしていて、透き通ったエメラルドの瞳は清楚で美しい。ルーシャの理想の女性だ。
ルーシャはカウンターの奥にある厨房の入り口から、こっそりアリスの動向を眺めていた。
アリスは店内を見回し、アップルパイに目を留めるとミールに話しかけた。
「ミールさん。このアップルパイを2切れくださる。こちらで頂いていきたいのだけれど」
「はい。お飲み物は紅茶でよろしいですか?」
「ええ。外に待たせてる人がいるから、呼んでくるわね」
「はい。かしこまりました」
ミールはルーシャの方へ振り向くとにっこりと微笑んだ。
しかしルーシャは内心ドキドキしていた。アリスがアップルパイを気に入らない可能性だってあるからだ。
その場にしゃがんだり立ったり、グルグル回ったりしていると、ルーシャは後ろからヒスイに肩を掴まれた。
「ルーシャ。少し落ち着いてください。ロイさんもルーシャが挙動不審過ぎて心配してますよ」
「ああっ。ごめんなさい。緊張してしまって」
「はっはっはっ。カルロを思い出すなぁ。初めてお客さんに自分で焼いたパンを出す時、カルロもそうやってウロウロしたり、店をジーっと睨んでいたなぁ」
「そうなんですか?」
「そうだ。ルーシャさんもジーっと睨んでおくといい。きっと、いい思い出になる」
「は、はい!」
お茶を入れ終えた頃、アリスは男性を連れて戻ってきた。アリスより少し背の高い男性で、腰に剣を携えていることから、騎士のようだ。
「あら、アリスさんの旦那様かしら?」
「ふふ。そんなところよ。──まぁ、いい香り」
アリスは紅茶をひとくち飲んだ後、アップルパイにフォークを刺す。ルーシャの作ったアップルパイが、口へとゆっくり運ばれていく。
「うん。美味しいわ。残りのアップルパイも包んでいただける? それから、いつものライ麦パンとラズベリージャムをお願い。後……来週、アップルパイを五つ持ち帰りたいわ。お願いできるかしら?」
「はい! かしこまりました!」
カウンターの奥でルーシャが顔を真っ赤にして元気よく返事をすると、アリスはミールと顔を見合わせてにっこりと微笑んだ。
「とても可愛らしい職人を雇っているのね。来週も楽しみにしているわ」
「ええ。ありがとうございます」
ミールはルーシャにアップルパイを包むように目で合図し、ルーシャは初めてカウンターに立ち、自分で作ったアップルパイをお客さんに手渡した。
「とても美味しかったわ。王都でも宣伝しておくわ」
「あ、ありがとうございます」
ルーシャはアリスに笑顔を向けられると、心臓の高鳴りを抑えようと胸に手を当てた。憧れの女性に自分の作った物を気に入って貰えることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかった。
アリスはクスリと上品に笑うと、沢山パンの入った紙袋を隣の男性に渡し、ミールに声をかけた。
「あ、そうそう。ブランジェさん家が王都へパンを売りに来ないって心配している常連さんが沢山いるわよ。素敵な従業員さんも増えたのだし、また王都にも売りに来ていただけたら嬉しいわ」
「あら、主人と相談してみますね」
「お願いするわ。では、失礼します」
アリスは淑やかに礼をすると男性と腕を組み店を出ていく。ルーシャはそんなアリスの後ろ姿に見とれている内に、ミールは盆にティーセットを乗せ片付けをしていた。
「あ、ミールさん片付けなら私が──」
ルーシャがミールから盆を受け取ろうとした時、急にミールの顔から笑顔が消え、そのまま床に力なく崩れ落ちる。
「ミールさんっ!?」
ルーシャの叫び声と、ポットが割れる音が店内に響き、床には紅茶と割れた食器が広がった。白いポットの破片には、赤い血がついていた。