011 アーネスト伯爵
アーネスト伯爵は、書斎の一番奥の机に肘を付き、ルーシャをじっと睨み付けながら腰かけている。
ルーシャはソファーへ座ることも許されることなく、机の前に立たされていた。
「良かったではないか。お前のような傷物で無能な人間でも、嫁に行くことが出来るのだ。式は一年後──。何だ、その顔は。男でもいるのか?」
「そんなことは──」
「ああ。お前の母親も、どこの馬の骨とも分からないような男と結婚したのだったな」
ルーシャの言葉など聞こうともせず、伯爵は実の姉を侮辱した。
伯爵は姉のことを良く思っていない。長年優秀な姉と比べられ、肩身の狭い思いをしてきたのだとレイスから聞いていた。
しかし、いくらルーシャでも、母を悪く言われることだけは、いつも許せなかった。
「お言葉が過ぎます。お父様は立派な騎士様でした」
「姉と同じ瞳でこちらを見るな! 私はそのは瞳が一番嫌いなのだ」
「きゃぁっ」
伯爵は机の上に置かれていた分厚い本を、怒りのままにルーシャに向かって投げつけた。
足元に本が落ちると同時にルーシャが悲鳴を上げると、裏庭へ通じるのドアが大きな音を立てて開き、雨風が中へと吹き込んできた。
「嵐か。あの日と同じだな。……何故、お前なんかが生き残ったのだろうな」
伯爵はルーシャを恨めしそうに睨んだ後、壁に掛けられた女性の肖像画に視線を伸ばした。
彼女は伯爵の妻。ルーシャの両親と一緒に事故で亡くなっている。
伯爵は、妻が命を落としたことをルーシャのせいだと思っていた。
だが、それはルーシャ自身も同じだ。
生きていたのは奇跡だと言われたが、そんなものは早々起きやしない。
土砂崩れに巻き込まれ、崖から馬車が落ちた時、ルーシャだけ生き残れたのは、きっと両親と叔母が、自らの命を犠牲にして助けてくれたからだと、そう思っていた。
「話は済んだ。出ていけ」
伯爵は開け放たれたままの裏庭へ続くドアに目をやった。
「裏庭を通った方が近道だろう。その汚いドレスも雨で洗い流すといい」
ルーシャの部屋は裏庭の先の離れの部屋だ。
近道と言えばそうかもしれないけれど、そこから追い出されるのは初めてだった。
ルーシャは伯爵に一礼し、降り注ぐ雨粒の中へ一歩踏み出そうとした時、後ろから背中を突き飛ばされた。
バランスを崩し、ルーシャはぬかるんだ地面に膝を突いた。
「きゃっ」
「何が不満だ! 生意気な顔をして……。その傲慢な心を清く洗い流すといい。戸籍上、お前は私の養女だ。お前の婚約者は私が決めて然るべき。自分にも存在する価値があったと思い、喜ぶがいい」
伯爵は憎しみのこもった瞳でルーシャを見下ろし激しく罵声を浴びせた。
「伯爵……様」
「お前は花嫁に選ばれたのだ。この国の未来を守る一人にな。とても名誉なことだ。お前の両親もさぞかし喜んでくれるだろうな。ふっ」
伯爵は鼻で嗤うと勢い良く扉を閉め、ルーシャは驚きと恐怖で動けなくなっていた。
伯爵は、この国の未来を守る一人と言った。
もしかしたら、伯爵は知っているのかもしれない。
ルーシャが、テオドアの花嫁ではなく、守護竜の花嫁に選ばれたことを。
「ルーシャっ」
微かに怒りを帯びた優しい声と共に、ルーシャの身体にローブが掛けられた。見上げるとそこには、雨で濡れたヒスイが立っていた。
「ヒスイ……。伯爵様は──」
「全て聞いていました。やはり、ここを出ていきましょう。今すぐにでも。……立てますか?」
差し伸べられた手は暖かく、震えは次第に収まっていく。
不思議と涙は出なかった。
テオドアがルーシャを守護竜の花嫁に選んだことはショックだったが、伯爵なら迷わず差し出すことなど分かっていた。
それにルーシャは、泣いている暇などない。
「ヒスイ。私、この屋敷を──」
「ルーシャ!?」
屋敷の方から声が響き、こちらへ向かうレイスの姿が見えた。
「遅いから様子を見に来たら……。早く中へ入ろう」
「お従兄様、私」
「話は中でしよう」
「いいえ。今、聞いてください」
「ルーシャ?」
レイスは真剣な眼差しを向けるルーシャに、戸惑いつつも見つめ返した。ルーシャが何を言おうとしているか、分かっているのかもしれない。
それでもルーシャは、自分の言葉で伝えたかった。
「私はこの屋敷から出て行きます」
「……分かった。だが、その前に着替えを済ませて私に事情を説明してからにしろ。──行くぞ」
「えっ。お従兄様っ」
レイスはルーシャの手を取ると、問答無用で屋敷へと足を進める。廊下を突き進みながら、レイスは小声でルーシャを勇気づけるように言った。
「婚約が嫌なら、私がテオドアに言ってぶち壊してくる。ルーシャは何も心配しなくていい」
「お従兄様。婚約は、お義父様とシェリクス公爵様とお決めになられたことだそうです」
その言葉を聞くと、レイスは急に足を止めて振り返った。
「何っ!? シェリクス公爵は、領地を持った侯爵家の令嬢をご所望のはずだ」
「それが公爵様の本意だと思います。ですが……私は、この国の未来を守る為に選ばれた……花嫁なのだそうです」
伯爵の言葉通りにルーシャはレイスへと伝えた。守護竜の花嫁と言っても、誰も理解できないと思っていたから。
しかし、レイスは表情を暗くさせ、微かに震える声で尋ねた。
「それは、まさか……守護竜の花嫁ということか?」