世の中、どこかに落とし穴
ヴェロニカから、この話を持ち掛けられた時、グレーテルは質の悪い冗談だと思った。どこの世界に、かわいい義妹を不幸にしようとしている女に、優しくしてやる義姉がいるのか。
仮に、仮にである。こちらがそのつもりであっても、向こうから疑心暗鬼に陥り、断ってくるだろうと思っていた。
まさか、フィリーネから「是非とも、指導をお願いしたい」という返事が来るとは思わなかったのである。
「これは、何も分かっていない、夢見がちな世間知らずのお嬢さんか、もっと狡猾でしたたかなお嬢さんのどちらかだろうと思ったのよ」
例えかわいい義妹の幸せが崩れるとしても、そこに政治的な思惑が絡めば、やむを得ずと判断することもある。一体、どちらのお嬢さんなのだろうと、警戒していたのだが……
「ある意味、一番良くないタイプのお嬢さんだったね」
「ええ、そうですわね。でも、あのタイプは誘導しやすくもありますから……」
これで良かったのだろう。
「君が間に入らなければ、彼女の熱い恋心は、氷水を浴びせかけられ、砕かれることになる。それは、いくらなんでも可哀想だ。でも、君が間に入ったことによって、身分の壁を超えることが出来なかった、青春時代の甘酸っぱい思い出の1つになりそうだから──」
「だと、良いのですけれど……」
グレーテルが、王子妃教育の内容としてあげた事柄は、全て本当である。他にも乗馬や魔法学、魔道具学などもあげられる。
しかし、身に付くかどうかはまた別の話。
人間、好き嫌いや、得手不得手はあるものだ。何年勉強しようが、ダメなこともある。
例えば、殿下の婚約者、ステファニーは音楽が苦手だ。特に聴く方は、すぐに眠たくなってしまうと愚痴をこぼしていた。グレーテル自身は、運動神経がよろしくないので、ダンスは見苦しくない程度にしか踊れない。でも、何とかなるのが社交界である。
「……ぁ、そうですわ。旦那様、この話、テオドールには…………?」
「ん? あぁ、今頃、話しているんじゃないかな?」
夫の返事は、夫人にとって最悪のものだった。
「あぁ、何てこと! 旦那様、ルーカス殿下は、最強の手駒を1つ失うことになりますわ」
「それはどういう……?」
「嫌ですわ、旦那様! テオドールは、あのヴェロニカの弟なのですよ!? キツネ狩りに出かけるような感覚で、ワイバーンを狩りにいく彼女に、一緒に連れていって下さいと笑顔で言えるおかしな子なんですっっ!!」
当然(?) ヴェロニカの内縁の夫たるハインツも「いいなぁ。俺も行きたいなぁ」と指をくわえて嫁とその弟を見送るようなおかしな男である。
テオドール・アスマンは、王宮の一室でお茶をいただきながら、いずれ仕えることになる男の話を聞いていた。部屋には、彼の婚約者ステファニーや側近たちも揃っている。
その中には、テオドールの直接の上司になるであろうイザーク・シュティールの姿もあった。横目で様子を伺えば、気まずそうな顔で、お茶をすすっている。
つまり、彼も知っていたのだろう。
「──でもまぁ、結果的には助かったよ。これくらいで私の評価が揺らぐこともないだろうが、傷は少ない方が良いに決まっているからね」
男、ルーカス殿下は少しも悪びれもせず、むしろ得意そうに胸をはっている。
彼が言うには、フィリーネを王宮に迎えると言ったのは本当。ただし、妻としてではなく、公娼として。公娼というのは、要するに愛人である。
そもそも、婚約を正式に発表する前から愛人を見繕うという、その神経がテオドールには理解できなかった。付け加えるならば、公娼として認められるのは、人妻だけである。
そのことは、ルーカス殿下も理解していて、フィリーネをカーライル伯爵に嫁がせるつもりだったと言うではないか。カーライル伯爵は、確か60になるやならずといった年齢だったはずだ。もちろん、先妻の間に子供もいて、そちらも30半ばくらい。
フィリーネとの関係は、決して良いものではなかったが、これではあまりにも彼女が可哀相である。
姉が早々に騎士団を辞めた理由が、何となく理解できた。姉ヴェロニカは、正式な騎士として騎士団に在籍せず、准騎士として遠征などに加わるのみとなっている。
普段は冒険者として活動し、国中を飛び回っていた。
「うん。よし。決めました」
テオドールは持っていたカップをテーブルに戻し、居住まいを正した。
「うん? 何を決めたんだい?」
ペラペラと武勇伝らしきものを語っていたルーカスが、ぱちりと大きく瞬きをする。
「はい。騎士への叙任は断れませんので、受けることにいたしますが、その後、騎士団への入団はお断りすることにいたします」
「は? ちょ、ちょっと待て、テオ! それはっ、本気か!?」
「もちろんです、イザーク……いえ、シュティール卿。世間知らずの娘を弄び、それを得意げに語るような方をお守りする剣を私は持ち合わせておりませんから」
遠回しにではあるが、イザークも自分が支えるべき相手ではなくなったのだと伝える。
「まぁ……では、これからどうなさるおつもりなの? まさか、冒険者になるなどとはおっしゃいませんわよね? アスマン殿。成功できる冒険者など、ほんの一握り。わたしは、夢を見ながら敗れていった殿方も多く存じておりますわ。今一度、お考え直されてはいかが?」
騎士になれば、万一怪我をして戦えなくなったとしても、補償がしっかりしている。働きに応じて年金が支給されたり、その後の働き口についても斡旋してもらえたりするからだ。
だが、冒険者にはそういった制度がない。多くは夢破れて、苦しい生活をすることになる。
淑女らしく優雅な微笑みを浮かべたまま、ステファニーはテオドールを一瞥した。その微笑みは、うぶな田舎騎士など、一瞬で虜にしてしまうだろうほどに魅力的である。
───が、彼女は、ルーカスの、人としての品位を疑うお戯れを「仕方のない方」と流してしまえる女性なのだ。テオドールの心は、ピクリとも反応しない。愛想笑いを返し、
「お気遣いありがとうございます。ですが、心配はご無用です。10歳で冒険者登録は済ませていますし、先日Bランクへ昇格することができました」
決して見栄などではないことを示すため、テオドールは先日発行してもらったばかりの登録証を見せた。見せたカードは、プラチナシルバーカード。
戦闘能力だけなら、Sランク。ただし、社会貢献度が足りないため、冒険者のランクとしてはBだということを現す特殊なカード。ある意味、Sランクのプラチナカードより、レアなカードである。
部屋にいる少年たちが、凍り付く。
登録証の偽造は不可能であることくらい、この部屋の全員が承知していた。
「あ、そうだ。ちょうどよいので、シュティール卿からお預かりしたこの剣もお返しします。皆さまの手前、この剣を使っておりましたが、私にはちょっと扱いづらいので……」
腰に佩いていた、希少級のショートソードをベルトから外し、テーブルに置いた。イザークにしてみれば、テオドールへの期待を込めて下賜した物であったのだが──
「僕は、双剣の方が得意ですから」
どこからともなく取り出した、2振りの剣は、まるで芸術品のようであった。