何やら雲行きが……
「あなた、そんなものを請求してどうするのです。あちらから請求される賠償金の方が大きいのですから、意味がないでしょう。賠償金は億単位の金額になるでしょうから、そこから数十万程度の金額を引いたところで、何になりますか。いえ、訴えが認められるかどうかさえ怪しくてよ?」
「そ、そんなっ……! す、数十万って……あたしは、ルーカスの妻になる女ですよ!?」
「今は、ただの男爵令嬢でしょう? ルーカス殿下とゲーゲンバウワー侯爵令嬢の婚約は、国王陛下がお決めになられ、議会と教会の承認を得ているものです。あなたと殿下の結婚の約束は、誰がお認めになられたのです?」
「そ……それは……」
証明になるような物は何もなく、2人の結婚は、単なる口約束に過ぎなかった。
「ゲーゲンバウワー侯爵令嬢のあなたへの態度は褒められたものではないかも知れません。ですが、婚約者として、婚約者に近づく不心得者を遠ざけようとするのは当然の行いではないのですか?」
「不心得者って……そんな……」
「あなたが、どんなつもりでいらしたのか、わたくしは存じません。ですが、これだけは分かります。あなたが、寝る間も惜しみ、食事の時間も削って学び王子妃に相応しい教養と振る舞いを身に付け、ご希望通りルーカス殿下とご結婚されたとしても、結婚生活はマイナスからのスタートになりますよ」
「マイナスって……何で……っ……!」
「ゲーゲンバウワー侯爵を敵に回したい貴族がいると思いますか? 同等クラスの家柄の令嬢ならともかく、あなた、男爵家の娘でしょう? それも、つい最近まで市井で暮らしていた……。あなたに味方することで、どれだけの利益が得られるとおっしゃるの?」
愛や恋で政治はできませんわと、夫人がピシャリ。
「国王陛下夫妻も、ゲーゲンバウワー侯爵令嬢を可愛がっていらっしゃるのよ? 社交界での評判も上々。王宮勤めの方々にも人気だとか──」
「それってつまり…………」
「あなたとルーカス殿下のご結婚を祝福して下さる方は、いらっしゃらないということよ。ご実家にとってもそう。ゲーゲンバウワー侯爵とその派閥を敵に回すことになるだけでなく、王子妃としての体裁を保つための費用と維持費、王子妃教育費用。あなたを養女として迎え入れてくれる家を探すための費用とそれに対する謝礼。ゲーゲンバウワー侯爵令嬢への賠償金の支払い。男爵家の資産で賄いきれると思われて?」
もちろん、答えはノーである。となれば、アスマン一族がみな路頭に迷うことになるのは必須。一族だけでなく、使用人や領民たちにも影響する。
一体、どれだけの人間から恨まれることになるのか、想像もできない。
「予定している婚約披露パーティーでは、殿下の婚約者が招待状の人物とは別の人間になるのですから、少なからず国の体面にも関わります。ルーカス殿下の評価も著しく低下し、求心力も減退。王宮内は元より政治的なパワーバランスも大きく変化するでしょう」
「そっ、そんな……っ……あ、あたしは、ただ……ルーカスを好きになっただけで……」
「好きになるだけなら、いくらでもどうぞ? ですが、王子妃になるというのであれば、話は別です。国の顔、国の代表となり、国民の生活と命を預かる立場の人間になろうというのですから、国内外への影響も考えていただかなくては」
ディードッリヒ伯爵夫人の声音は、淡々としていた。表情に感情は見えず、まるで人形のよう。それでも、視線は冷たく鋭く、フィリーネを真っすぐにとらえている。
「あなた、おっしゃったわよね? 覚悟はできていると──」
「ひっ……!」
思わず腰を浮かせ、身を引いてしまう。
覚悟。覚悟だ。そう、覚悟はしていた。
王子妃になるのだから、たくさん勉強しなくてはいけない。でも、笑顔と優しさを忘れず、明るく謙虚に──。ルーカスたちは、自分の飾らない性格と天真爛漫さを気に入ってくれたのだから、王子妃になっても、そのままの、ありのままの自分で──
「あなたの何気ない一言、何気ない行い。たったそれだけのことで、人1人の人生が良くも悪くも大きく変わることを理解し、常に意識なさい。あなたの選択で、人は死に、人は生きる。恨まれる覚悟を持ちなさい。憎まれること。嫌われること。それも仕方のないことだと割り切る強さを持ちなさい」
ディードッリヒ伯爵夫人の強く鋭い眼差しの前に、フィリーネは怖気づいてしまった。
ただ、ただ、この場から逃げ出したくなり、ろくに挨拶もせず、転がり出るようにして図書室から逃げた。
「あらあら……ちょっと脅かしすぎたかしら?」
淑女らしくないフィリーネの逃げ出し方に、伯爵夫人は目を丸くした。足を痛めたりしていなければ良いけれど。若い彼女の見事な撤退ぶりに、半ば感心していると、
「お姫様という立場に夢を見ていただけのお嬢さんに、あんな言い方をすればねえ……」
そりゃ逃げ出したくもなるだろうさと、苦い声音が返ってきた。
「旦那様。お見立てのほどはいかがでした?」
図書室の暗がりの中から夫、ケビン・レンツ・ゲーゲンバウワーが姿を見せても、伯爵夫人は、驚きもしなければ、慌てもしなかった。
「ん? グレーテルが想像していた通り、思春期にありがちな恋と憧れだけを全身に詰め込んでいただけの、愛らしく滑稽なお嬢さんだったね」
夫の評価を、伯爵夫人グレーテルは出番のなかったお茶やお茶菓子をテーブルに並べながら聞いている。保温の魔法のお蔭で、お茶は温かいままだ。
蔵書を保護する意味もあって、図書室の照明は極力落としてある。そのため、部屋の隅っこでじっとしていると、案外気付かれない。今日の講義のことを夫に話した時、それならばと、彼が見学を申し出ていたのだ。
「妹から、殿下の悪いお遊びで、それに付き合わされる彼女が可哀相だと聞いていたから、心配はしていなかったんだ。彼女には同情するけれどね」
妻から、ソーサーごとカップを受け取り、ケビンはソファーに腰かけた。彼の妹、グレーテルの義理の妹にあたる娘の名は、ステファニー・エルマ・ゲーゲンバウワーという。
「ヴェロニカも人が悪いわね。わたくしに、義理の妹を蹴落とそうとしている令嬢へ、王子妃教育のアドバイスをしてあげてほしいなんて……」
カップのお茶に口をつけ、グレーテルは短く息を吐いた。
貴族社会というのは、実にややこしい。長男は、父の持つ爵位を借りることができるし、同じ男兄弟でも生まれた順番で呼ばれ方が異なるなど、前もって関係性を学んでおかなければ、とんでもない赤っ恥をかくことになってしまう。
今回のことも、そうである。
フィリーネは、これから蹴落とそうとしている相手の義理の姉に、王子妃としての教育についてアドバイスを求めたのだ。あまりにも、間が抜けすぎているではないか。
割とご都合主義。