次から次へと目まぐるしい……
ディードッリヒ伯爵夫人は、今あげた3つの事柄を黒板に書き出し、フィリーネを見た。
「あなた、ダンスは踊れて? 音楽は?」
「ぁ、はい。ダンスは踊れます。音楽もピアノを少々」
丸まっていった背中をピッと伸ばして、フィリーネは即答した。夫人の表情が少しは柔らかくなってくれることを期待したのだが──
「聞く方はどうなのかしら? お好きなピアニストやバイオリニストはいるかしら? 他の楽器の奏者でも良くってよ。お気に入りの楽団やオペラ歌手は?」
「は? え、えっと……」
目が泳ぐ。ピアニスト? バイオリニスト? オペラ歌手に楽団……今まで全く縁がなかったものだから、フィリーネにはサッパリである。
「では、お父様にお願いして劇場に通って、お気に入りの演奏家や歌手を見つけて下さい。社交界でも、この手の話題はよく出ますから、知ったかぶりをしても恥をかくだけですよ」
はいと返事をしたものの、劇場に通うとなると、またお金がかかる。
「美術の方はいかが? 絵画や彫刻──」
これも目が泳ぐ。芸術品なんて、ちっとも興味がない。作品を見ても、きれい、わぁすごい、と思うだけで、それ以上の感想は出て来ない。後は、これはいくらするんだろう? という下世話な感想くらいだろうか。
「美術館通いもした方が良さそうですね。それから、美術史なども学んでおいた方が良いでしょう。芸術に関わるパーティーなどでは、美術品のにわか評論会なども行われますもの」
陶磁器類や宝飾品、細工物なども知っておいた方が良いと夫人は言う。
「外国語はどれくらい話せるのかしら?」
「えっ? がっ、外国語……ですか? ルメール語でしたら、ほんの少し……」
「会話はできないのね。なら、頑張らないといけませんわよ? ルメール語とブーラント語は、日常会話ができるようになっておいて。さらに、ヒックス語とジェルベック語も話せるようになれば、もっと良いわ。あぁ、話せる言葉は多ければ多いほど良いの。余裕ができれば、少しずつ増やしていくことをお勧めするわ」
「あの……通訳は……?」
上目遣いで、恐る恐るたずねれば、
「もちろん、側に控えていますよ。ですが、彼らはお守り程度のものだと思って下さい。ルメールとブーラントは、国同士のお付き合いも長い友好国ですもの。通訳なしで会話できなくては、王族に連なる者として恰好がつきませんわ」
そう言われれば、そうかも知れない。ルーカスもステファニーも、3か国語は話せるみたいに言っていた。騎士になるのだというイザークは、ルメール語は分かるものの筆記は苦手、またブーラント語は発音が苦手だと、項垂れていたのを覚えている。
「学ぶこと、覚えることはまだまだありますわよ。系譜学を元に、各家の繋がり及び政治的なパワーバランスは、必ず覚えて下さいね? 当然ですが、我が国の地理、歴史、経済、産業などもご理解いただいた上で、諸外国についても学んでいただきます」
「は?! なっ、何で……?」
「何故? 我が国のことを知り、諸外国を知らねば、外交なんてできないでしょう? あぁ、忘れるところでした。植物学も学んでいただかなくては。特にバラや百合、ダリアはお好きな方が多いので、品種もある程度は知っておいた方が良いでしょうね」
黒板の空きスペースには、次々と学ぶこと、覚えるべきことが書き加えられていく。
「とにかく、本はたくさん読むようになさってください。古典はもちろんですが、流行のものも含め、過去ベストセラーになったものは、なるべく読んだ方が良いでしょうね。絵本も意外に知られていますから、子供の物だと思ってないがしろにしないように」
子育てをなさっている方々と共通の話題になります、と伯爵夫人。
「礼儀作法とマナーは、下級貴族のものに加え、上級貴族と王族のものも学んで下さいね。外国へ行けば多少変わるところもありますので、そこも含めてしっかりと学習するように。一夜漬けのマナーや礼儀作法なんて、すぐにメッキと見破られ、嘲笑されるだけです」
「じょっ、上級貴族の礼儀作法とかも勉強するんですか?!」
暗に必要ないのでは、と訴えてみたわけだが、
「当たり前です。知らなければ、失礼なことをされているかどうか、判断できないではないですか。バカにされていることも分からないでニコニコしているようでは、王子妃失格です」
ぐうの音も出なかった。
「よろしいですか? ルーカス殿下には、ステファニー・エルマ・ゲーゲンバウワー侯爵令嬢という婚約者がいらっしゃいます。あなたは、ゲーゲンバウワー侯爵令嬢が10年以上の時間をかけて学ばれて来たことを、半年以下の時間で学び、習得しなければなりません」
「はっ、半年ィ!? な、何でそんなに短いんですかっ?!」
「何をそんなに驚いていらっしゃるの? 半年後にルーカス殿下の婚約披露パーティーがあるからに決まっているではありませんか。半年で、あなたはゲーゲンバウワー侯爵令嬢を越える淑女にならねばならないのです」
「延期して下さい! 半年でなんて無理です!」
「わたくしに言われても、困ります。そもそも、延期なんてできないでしょう。すでに、諸外国へは内々にスケジュールの打診をしております。それに合わせて、皆さまがお泊まりになられる場所や、人員の配置。滞在中のご希望などをお伺いするなどして、着々と準備を進めておりますもの」
夫人の視線が氷のように冷たい。
「国内でも、記念行事や記念品などの作成、国民への振る舞い酒などの準備も進められております。どれだけの人員と時間と経費が使われていると思っていらっしゃるの?」
それを全て台無しにするのかと、言外に問われる。延期することによって、さらに費用が発生するのは、考えるまでもないことで──
「いいですか? 今のあなたは、無名の令嬢です。国民にあなたの顔と名前を知ってもらうためにも、王子妃教育の合間をぬって、孤児院や救貧院、貧民街、施療院などの慰問なども行うべきです」
「は!? ますます無理に決まってるじゃないですか?! そんなこと……!」
「その無理を通そうとしていらっしゃるのは、どなた? あなたではないですか。言っておきますが、王子妃教育の講師費用、テキストなどの必要経費。慰問やチャリティーを行うための資金、全てあなたのお父様の負担ですよ? 現時点で王家とは何の関わり合いもない人間なのですから、国庫からの援助などありません」
「まっ、まだお金がかかるんですかっ!?」
「何を甘いことをおっしゃるの。まだまだ序の口ではありませんか」
「じょっ、序の口!?」
「ゲーゲンバウワー侯爵令嬢との婚約を撤回しようと言うのですから、当然、賠償金が発生します。王子妃教育費用、婚約者として参加した公務にかかった費用。婚約の撤回による、精神的苦痛に対する損害賠償請求、婚約中の浮気行為による精神的苦痛への損害賠償も請求されるでしょう」
「そっ、それなら、あたしだって、ステファニー様にはたくさんいじめられました! そのいじめに対する損害賠償を請求します!」
フィリーネの意見への答えは、大きな大きなため息だった。