教えてください! 何もかも
フィリーネは、とても緊張していた。グレーテル・ヤスミン・ディードッリヒ伯爵夫人と言えば、レディー・ウィステリアと呼ばれる、社交界の花だ。新聞や雑誌の社交欄では、その名前を頻繁に目にすることができる。王太子妃の友人としても知られているし、流行の仕掛け人としても紳士淑女から注目されている人物だ。
若い女性の憧れの的で、セントール学園でも彼女の話題を頻繁に耳にしている。
そんな人と従姉が知り合いだったなんて、今でも信じられない。もっと信じられないことは、レディー・ウィステリアが、フィリーネに協力してくれるというのだ。
従姉、ヴェロニカは言った。
「あんたには、負けたわ。でも、今のままじゃ王子妃になれないってことは、あんただって分かってるでしょ? だから、アドバイザーを紹介してあげる」
驚きである。あれだけ、バカかアホかと、散々にフィリーネを罵倒していたくせに、急に態度を変えたのだから。彼女の弟、何かと口うるさいテオドールも「頑張ってね」と後押しをしてくれた。
2人共、フィリーネが本気だとようやく理解してくれたらしい。
「……ディードッリヒ伯爵夫人はまだかしら……」
講義室として案内された図書室は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。窓は最小限で薄暗い。本を読むために置かれたソファーはどっしりとしていて、男性的である。
柔らかな色合いに満ちた開放的なサロンで、お茶とお菓子をいただきながら講義を受ける。そんなエレガントな雰囲気を想像していたものだから、図書室の真逆の雰囲気は、何だか居心地が悪くて、お尻の座りも悪い。もぞもぞと体を動かしていたら、
「待たせてしまったわね。ごめんなさい」
「あ、いっいいえ! そんな──!」
図書室に入ってきた夫人は、生成りのブラウスに藤色のワンピースを着ていた。彼女が歩くたびに、ワンピースは軽やかにひらりふわりと揺れる。
その後ろには、メイドがティーワゴンを押してついて来ていた。真っ白なワゴンには、銀のティーポットと白いティーカップ。それに、ビスケットなどの軽食も乗っている。
さすがはレディー・ウィステリアの持ち物。趣味が良い。
「アスマン女騎士爵から聞いたわ。あなた、王子妃になるのですって?」
「え……ぁ、はっ、はい……。その……ルーカスからはまだ……正式にプロポーズされた訳ではないのですが──いずれは、あたしをお城に迎えてくれるって……」
きちんとした挨拶もなければ、雑談もなく、いきなり本題に入られてしまい、フィリーネは言葉を詰まらせる。しかし、聞かれたことにはきちんと答えねばと、不満を飲み込み、彼との出会いから、伯爵夫人へ語った。
夫人はとても聞き上手で、フィリーネは、とても気持ちよく話をすることができた。
学園で、ルーカスがああ言ってくれた。こうしてくれた。彼との甘酸っぱい思い出を話せば「まあ、素敵」「羨ましいわ」と、微笑んでくれる。挨拶もなく、いきなり本題に入られた不満など、すぐに忘れてしまっていた。
「あ、いやだ、あたしったら……話しすぎですよね。恥ずかしいです……」
「いいのよ。好きな人のことは、いつまででも話せてしまうもの。わたくしも、旦那様のことなら一日中話していられるわ」
「でも……今のままだと、あたし……ルーカスの側にはいられないんですよね……」
「何を気弱なことを──。彼の側にいるために、あなたは今日、ここにいらしたのでしょう? 愛を貫くために努力すると、覚悟を決めたのではなかったのかしら?」
「っ! そうですっ。その通りですわ。あたし、一生懸命、頑張ります」
フィリーネは、力強く頷いた。
容姿には、自信がある。ドレスやアクセサリーを選ぶセンスも悪くないはずだ。ダンスは得意。音楽もピアノが弾けるから、クリアしていると言えるはず。
礼儀作法やマナーは下級貴族のものしか知らない。王族の礼儀作法は自分が知っているものとは違うらしいので、これは今からしっかり学ばなくてはならない。
魔法は、回復魔法と補助魔法が得意だ。これも、貴族令嬢としては十分なレベルだと思う。
正直に言って、勉強は苦手ではあるけれど、ルーカスとの愛を貫くためだ。どんな課題でも、クリアしてみせる。
フィリーネは、大いに意気込みを語った。
「それほどの覚悟があるのなら、わたくしもしっかりつとめさせていただくわね」
「はいッ! よろしくお願いします」
夫人に頭を下げ、さあ、何から始めますかと目で彼女へ訴える。
「ではまず、お父様にお願いするなりなんなりして、補佐役を最低5人、揃えていただいてちょうだい。あなた付きのメイドも最低3人。欲を言えば、5人から8人は欲しいわね」
「は? え、えっと……? 補佐役……ですか?」
思いもよらない言葉が出てきたので、フィリーネの声はやや間の抜けたものになってしまった。パチパチと大きく瞬けば、夫人は当たり前のような顔をして
「ええ。あなた1人で、何もかもはできないでしょう? 補佐役は絶対に必要よ」
「それは、そうですけど……あの……そういう人って、お城にいるんじゃないんですか?」
「女官のことかしら? もちろん、いるわよ。でも、女官はあなたの部屋を担当しても、あなたに付くことはないわ」
「えっと……どういうことですか?」
よく分からなくてたずねてみれば、夫人は席を立ち、近くから会議室などで見受けられる、キャスター付きの黒板を押して戻ってきた。
「旦那様が考えを整理する時などに使っているのよ」
そう言いながら、夫人はチョークを手に取って、黒板に大きめの円を描く。円の上の方に王子妃という文字を描き入れ、円を4分割。左側に『私』右側に『公』の文字を書いた。
「王子妃に限らず、人にはプライベートな時間と公の時間があるのはご存知ね?」
フィリーネは頷く。
「多少、線引きがあいまいな部分もありますが、分かりやすく分けるとこうなります。女官が担当するのは『私』の土台部分。洗濯や掃除、料理の支度など、環境を整えるのが彼女たちの仕事です」
左下の区分に『女官』の文字が書き加えられた。その上に『メイド』の文字が書かれ、
「ここに入るメイドは、あなたの身の回りの世話をする人よ。身支度を整えたり、必要な物を揃えてくれたり。あなたが快適に生活できるよう、あなたの味方となり、細やかに気を配るのがメイドの仕事です」
だから、信用のおける人でないとダメなのだという。
「次にこちら。『公』の土台を支えるのが、文官と武官です。例えば、孤児院へ慰問をすることになったなら、いつ、どこの孤児院に、どのルートで行くのか。滞在時間や滞在中の予定、どの馬車で、馭者は誰で、護衛は誰で──というようなことを決めていきます」
女官も文官、武官も環境を整えるのが仕事だという。
「補佐役は、あなたの『公』な部分の相談相手であり、時にあなたの代わりをつとめてくれる人たちです。こちらも、信用のおける人でないと任せられませんわ」
フィリーネのかわりに孤児院を訪れ、フィリーネの言葉を伝えてくれる。あるいは、フィリーネのかわりに人々の話を聞き、それを伝えてくれる。
そこに、例え耳の痛い内容であったとしても、嘘偽りや誇張があってはならない。
「あの……補佐役はどのように選べば……?」
「それは、あなたが決めることですわ。あなたのお友達でも良いですし、実務能力の優れた方を雇うという方法もあります。王宮勤めの文武官を頼りにしてもいいでしょう。一度、お父様にご相談なさるとよろしいわ」
「は、はぃ……」
父に相談したところで、解決するとは思えない話である。今、男爵家にいるメイドは、確か5人くらい。それと同じ人数を雇うようにと言われても難しい話だ。さらに、補佐役も雇うとなると……! 補佐役を頼めそうな友人もいない。どうしたものかと考えていると、
「そうそう。王子妃の年間予算の内、3分の1から半分くらいは、ご自分の資産から拠出する必要がありますからね」
「は!? どっ、どうしてですか?!」
「『公』の役目をこなすために必要な経費は国庫から支出されますが、『私』の部分までは賄いきれないのが現状です。そのため、国王陛下をはじめ、王族の皆さまはそれぞれに個人資産をお持ちでいらっしゃいます」
例えばドレス。国王陛下が主催するパーティーにて着用するものであれば、国庫からお金が出る。しかし、フィリーネが個人で開くパーティーにて着用するものであれば、お金は出ない。開催費用も同じである。
「ですから、持参金についても、お父様とご相談なさいね。それから、これも重要でしてよ?伯爵家以上のお家にかけあって、養女にしていただかなければなりません」
「え? どっ、どうしてですか? 今のままじゃダメなんですか?」
「法律で、王家に嫁げる身分は、伯爵家以上の娘だと決まっていますから。正当な理由なく、法律を変えることはできません」
これまた、ピシャリと言い切られ、フィリーネは口をつぐんだ。王子妃として必要な知識などの話になると思っていたのに、伯爵夫人の口から全く別の、想像もしていなかった話。
今更ではあるが、何やら雲行きが怪しくなってきたような気がする。