月がきれいですね、なんて。
「月がきれいですね。」
とはあなたのことを愛しています、という意味だと現代文の先生が授業中に豆知識として喋っていた。正直先生の授業は教科書通りで。退屈でつまらないという生徒が全校生徒の総意だと認識している。けれど、たまに授業で脱線したときの話は最高に面白い、と個人的には思っている。今回の月がきれいですね、の下りなんてその最たる例だ。
『I love you.』を愛してるよ、なんて直接的すぎるという意見には賛成なので、月がきれいだと耳元でささやくくらいでちょうどいい気はする。
私の教室での席は、一番後ろの窓際から右に2つ目の位置にあって先生の死角には入るが、周囲の把握はできるというベストポジションだ。特に左斜め前に座る乃村くんのことをしっかり見ることができるというポイントが一番大きい。乃村くんは今日も授業にはあまり興味がなさそうな顔をして窓の外、体育の授業風景を見ている。
友人の爽子に言わせれば乃村くんはその辺にいる量産型草食系男子だという。余計なお世話だ。これは主観だけど、乃村くんは多少草食気味なのは否めないがとても格好いいのだ。
授業終りのチャイムが鳴って、教室がにわかに騒がしくなる。今日の授業は、現代文が最後だったので、周りでは放課後に向けて部活に入っている人や遊びに行く人など各々が準備を始める。私も天文部の部員のため、放課後は天文部の部室である理科準備室へと向かう。
そして、帰り支度を済ませSHRが終わった頃、乃村くんが声をかけてくれる。
「木村さん、部活行こう」と。
部活内の目標として【新しい星を見つける。】というものがある。これは創部した十数年前から変わっていないという、伝統ある目標だ。と言えば聞こえはいいけど、意識ばかりが高いだけの実現するめどがまるで立たない、実にふわふわとした目標である。部への参加が強制なのは、火曜日と金曜日の放課後だけであとは自由参加。部員は2年生の私と乃村くん以外には、1年生が3人。いずれの子も強制参加日以外の出席率はあまり高くない。実際今日は水曜日ということもあり、部室に顔を出すのは私たち2人だけのようだ。
部室に毎日いるからといって熱心に星について語っているかというとそうでもない。お互いに課題に取り組んだり、読書などの好きなことをしたりと各々自由な時間を過ごしている。そして目標と一緒に引き継がれてきた部のコーヒーメーカーでコーヒーを豆から挽いて飲んで時折談笑する。この時間がとても居心地が良くて、私は大好きだ。
私は、例の『月がきれいですね』について、詳しく知りたくなってスマホで調べることにしていた。昨日挽いたコーヒー豆でコーヒーを淹れる準備をして、インターネットを開く。調べてみると、『月がきれいですね』から派生した言葉にもいろいろあるようで、それに対する返事の言葉もあって、終ぞ使用用途はなさそうな知識が増えた。
読みかけの本を読み始めた私と課題に黙々と取り組んでいる乃村くんの2人だけの静かな空間にコーヒーメーカーのポコポコという音と教室においてある時計の秒針のカチカチという音が響く。これが、私と乃村くんが2人だけで部室にいるときのルーティンだ。そして、淹れ立てのコーヒーをそれぞれ好みの味で楽しむ。私は専らブラック派で、乃村くんは砂糖もミルクもたっぷり入れて嗜む甘党だ。正直乃村くんの飲むそれは胃が痛くなるほど甘くて、とても飲めたものではない。でも、それを乃村くんが飲むときの表情は、普段感情の起伏が少なくて見る機会の少ない笑顔を見ることができて、私はその瞬間が好きだ。
2人でコーヒーを飲みつつ、またそれぞれに作業を再開し、その合間にぽつぽつとおしゃべりが混ざり始める。乃村くんは口数が少ない方だ。教室では、友人以外と喋っているところを見ることは極めて少ない。友人といるときには割とよく喋るようで、事実この部室内で私といるときはよく喋っているように思う。
「今日の現文、またおもしろい内容だったよね。」
さっき調べた知識を披露するにはいいタイミングだからと話しかけてみる。
「え、先生また何か話してたかな。授業あんまり集中できなくて外見ながらボヤっとしてたから聞いてなかったかも。」
だから外の方向を見てたのかと納得する。そうとなれば話は別で、一から話すとなると少し手間で、何より恥ずかしい。
「夏目漱石の名前を正岡子規が付けたとかって、知らなかったから面白いし勉強になるなって思って。」
「そうなんだ。それは聞いてなかったし、普通に知らなかった。確かに勉強になるね。」
口をついてとっさに嘘が出る。嘘をつくのは胸が痛むけれど、かなり恥ずかしかったので今回ばかりは、割り切ることにする。うまく誤魔化せたようだし、オールOKだ。
その後のんびり本を読んだり喋ったりしていると、いつの間にか手元のコーヒーはお互い空になっていて、外もすっかり夜になっていた。
閉門の時間も近いので、2人共早急に準備をして、部室を出る。外は真っ暗で空を見ると、月も星も輝いていた。どうやら今日は満月のようだった。確かに部室内に貼ってある月齢表では今日が満月だったような気もする。
「月、きれいだね。」
口から出たのは絶対に先生のせいだ。乃村くんは、聞いてなかったみたいだし油断があったのも大きいだろうけれど。
乃村くんの顔は、恥ずかしすぎてみることができず、同じ速度で進んでいく2人分のローファーを見ていた。そのすぐあとに聞こえた耳心地の良い「死んでもいいや。」の声はいつもよりも上擦っていて、赤い顔はきっと2つになっているだろうことは簡単に想像がついた。