第一の花嫁 料亭の女主人ゾラ (3/5)
ゴロゴロゴロ
上空では暗雲が腹を空かしたような音をたてていた。
ゾラは柵越しに、星の消えた夜空を見つめる。
「……」
彼女は今、牢屋に閉じ込められていた。
最後までザスティンを止めるよう抵抗したが駄目で、吸血鬼は獲物を探しに出かけていた。
ゾラは空っぽの銃を見下ろす。
なんとかあのイカれた吸血鬼を殺そうと、秘密裏に手に入れた品物。店の権利まで売って、あとひと月で肉魚野は潰れる予定だった。
「わたしなにやってるんだろう」
奥の手まで通じないと分かって、ゾラは力尽きる。
冷たい石の壁に寄りかかりながら、夫と娘を想う。
ついこの前まで、幸せな人生だった。
娘は夫が死んでから、この世に授かった。まるであの人の忘れ形見みたいで嬉しかった。絶対のこの子だけは手放さないと思った。
……だけどもうあの娘を抱きしめた時の暖かさは返ってこない。
石の壁は、体温を奪っていく。
「わたしも死にたい」
「……いけませんな。吾輩を独りで残していくなんて」
「きゃあ!」
ビックリし過ぎて、ゾラは幼さを感じる高い声をあげてしまう。
檻の外にいるラドゥへ顔を向ける。
「ど、どうしてここに?」
「夫たるもの。妻の三歩先に常にいるものです」
「いやそういう冗談はいいですから」
「あなたがあの吸血鬼を殺すのを失敗したら、このくらいの時間で戦いが終わるなと思って近くで待機していました」
「……」
ザスティンを殺す計画については、他の誰にも漏らしていない。
つまり見抜かれたようだが、この軟派でふざけた老人にそんなことができるのかとゾラは怪しく感じる。
「ともあれ、ここにいるということはやはり失敗したようで」
「そうだラドゥさん。アイリーちゃんが危険です! わたしのことなんてどうでもいいでうから、すぐに助けてあげてください!」
「アイリーなら大丈夫ですよ」
「えっ?」
ラドゥは、どっしりと床へ尻を下ろした。
胡坐をかくと、楽しそうにする。
「それよりもお話しましょ。将来の生活像とかいいですな」
「ふざけないでください」
「未来だけじゃなく、過去の話でもいい。たとえば、あの吸血鬼とあなたの関係とか?」
怒るゾラだったが、ラドゥの最後の一言を聞いた途端に彼へそれを向けるのをやめる。
不気味なものを見る目つきで、ラドゥに応じる。
「どうやらラドゥさんは、全てをお見通しのようですね……」
「いえ。全部は把握しておりません。だから知りたいな。吾輩が分かってないあなたのこと」
「もうどうせ終わったことです。だからせめて死ぬ前にお話ししましょう――吸血鬼ザスティンを村へ招いたのは、このわたしだってことを」
雨を受けて垂れる水滴を隣に、ポツポツとゾラは秘密を話す。
「吸血鬼は、招かれた場所以外では人間の住処には入れません」
「そうですな。だからこそ吸血鬼側も洗脳や色仕掛けで、外で襲った人間を操って招待させようとする。まさかあやつと!?」
「違います」
「さいですか」
冷たく反応されて、ラドゥはしゅんとした。
「ザスティンと接触したのは、わたしからです」
「……」
「近隣の村を支配していたザスティン。噂を聞いたわたしは、彼へ会いにいきました。ちょうどわたしが村へ着いたころ、滅びかけた場所で彼は餌に困っていた」
「……」
「チャンスだと思ったわたしは、契約を持ちかけ、それに乗った彼を自分の村へ招待しました」
黒紅の契約。
それは吸血鬼の間で行われる絶対の契約だが、人間とも可能だった。
「なるほど。それであやつは、村の人間を一人ずつ殺したと?」
「はい。それが、わたしとあの吸血鬼が交わした約束ですから」
「どうしてそんなことを?」
昔を思い出しながら、ゾラは語る。
「復讐です。夫を殺したあの村の住人たちへの」
「……」
「あの村には、ザスティンが作ったもの以外にも他の儀式があるんですよ。作物が実らない年に、住人の誰かを生贄にして豊作を祈るんです」
「……」
「この時代に、馬鹿げてますよね。だけどいくらわたしが都の研究者に頼んで持ってきたデータで訴えても、みんな考えを改めてくれないんです。夫でさえそうでした。だから儀式はとくに遮られることなく行われ、村で一番、作物を無駄にしたと思われる人間が殺されました」
「まさか」
「はい。それが料理人の夫ですよ。故郷の人を幸せにしたいからと、村の不作にも合わせながらできるかぎり美味しく調理しようとずっと努力していたのに。幸せそうに、彼は簀巻きにさながら滝に落とされました」
「……」
「わたしはあの村を憎いと思った。だから夫を生贄にすると判断した老人たちから殺すようにザスティンへ言いました。ひとりずつ恐怖を煽るように。村長を最後にあとまわししたのは、後悔に後悔を重ねて死んでほしかったからです」
黒い炎が、ゾラの中にあった。
時の経過で消えないよう自分さえも傷つけるそれを、己の手で憎しみの風を送り続けた。
胸の中で燃え続けた炎は、とても熱く、揺らめいていた。
だが、そんな巨大な炎がパッと消えた。
ゾラは膝を抱えて、大粒の涙を流していた。
「でも先月、娘がザスティンに殺されてやっと分かったんです。わたしはなんて愚かなことをしていたのだろうって」
「……」
「あいつはわたしとの契約を破って、村に残っていた唯一の少女である娘を連れていきました。あの子がずっと帰ってこない家で過ごす内に、後悔が押し寄せてきました。死んでしまったはずの心が、その時、動きを再開させたんです」
「……」
「それで分かりました。わたしが命を奪うように指示した人にも、同じように大切な人がいて大事に想われてもいたんだって。理屈じゃなくて、感情で納得してしまったんです。だからわたしは、わたし自身が起こした不始末を処理しようと今日ここへ来ました」
号泣するゾラ。
自分の細い腕では、あの暴走した吸血鬼は止められないと痛感する。
自分でしでかしたことだ。助けてなんて言えない。
でも思ってしまう。
もう頼れる人なんてどこにもいないのに、誰かわたしを助けてと――
「――花嫁に悲しみの涙は似合わない」
ペロリ
いつのまにか、ラドゥはゾラの目前にいた。
涙を舐めとった彼。
ゾラがなにか言おうとしたところで、ラドゥの土気色の皮膚がカサブタのように剥がれていく。
「知っているかい? 血と涙は同じ成分だって」
「あ、あなたは――」
染みは消え、鼻はシュッと高くなり、瞳はルビーのように煌めく。
醜くもどこか人としての温かさを感じる老人の容姿が、氷のように冷たくても人間の目を引きつけてやまない絶世の美丈夫へと変貌を遂げた。
それは初めて会うにも関わらず、ゾラにとっては見慣れた姿。
吸血鬼ザスティンとうりふたつ、いやそれ以上に闇の輝きを放っていた。
「フッ」
ラドゥが大きく笑うと、並び立つ三日月よりも美しい牙が現れた。夜空は既に晴れていた。