ルリ
僕の記憶の中のルリはいつも泣いていた。
†
貧しい農村にて、僕とルリは、同じ日に生まれた。
僕の両親とルリの両親とは、ルリの両親がこの村に越してきた頃からの付き合いで、互いの子どもの誕生を心から祝福しあったという。
その後すぐに、僕の両親は魔物の襲撃で亡くなり、生き残った僕をルリの両親が引き取ってくれた。
後になってその辺の事情を聞かされたが、僕は物心付く頃にはルリの一家と暮らしていた為、本当の両親に関して特に思うところは無かった。
ルリの両親は、善人だった。
友人の子とはいえ、赤の他人である僕を引き取って育ててくれている事からも、それは明らかだ。
しかし、僕の目から見て、彼らはルリの考えを誤解することが多いように思えた。
ルリの精一杯の優しさから出た行動を、取るに足らない事として無視したり、ルリの悪気のない行動に対し、烈火のごとく怒り、大声を上げたりした。
僕にとってはルリほど分かり易い人間はいなかったから、ルリの両親が何故ルリを誤解するのかがわからなかった。彼らに注意力が足りなかったのか? それとも、僕の指摘に対して彼らがよく口にしたように、「大人よりも、子ども同士の方が良く理解し合える」というだけの事だったのだろうか。
今となっては確認のしようがないし、興味もない。
ルリと僕が4歳になったある日、いつものように、ルリは両親から理不尽に叱られて泣いていた。
部屋の床にうつ伏せに寝転び、自分の腕に顔を押し付けて泣いているルリの哀れな姿に、居た堪れない気持ちになった僕は、その場に座りながらルリを優しく抱きしめ、その頭を撫でながら、よしよしと優しく声を掛けてみた。
嫌がられて、すぐに突き放されるかと思いきや、彼女は僕にしがみ付くようにして腕を回してきた。
そのまま僕に前から抱きつくような体勢となったルリに対して、僕は、大人が赤ん坊にするように、頭を支え、背中をトントンと叩いてあやしてやると、ルリは僕の胸で涙を拭いて泣き止み、しばらくすると、僕にそっと微笑みかけた。
その瞬間に感じた衝撃を、僕は未だ表現できそうにない。
泣き疲れて、そのまま寝入ってしまったルリを抱いたまま、僕は憑かれたかのように、彼女の寝顔に見入った。時間が経つにつれ、胡坐をかいた足が少し痛んでくるが、体勢を変えようとは少しも思わなかった。胸、腹、腕、腿、ルリの体が触れている部位が、互いの体温によって温められている。
こんなにもちっぽけで弱々しい存在が、同じくちっぽけな僕を頼ってくれている。そのことが、僕の胸を締め付けるほどの喜びを感じさせた。
そして、先ほど見たルリの笑顔。他のだれでもない、僕だけに向けられたルリの感情に僕は言いようの無い幸福感を覚えた。彼女の笑顔、彼女の喜び、彼女の幸せの為ならば、僕の全てを投げ出しても良いとすら思えた。
「この子を守りたい」
「この子を害するすべての存在を、僕が消してみせる」
そんな気持ちが腹の奥底から湧き上がり、僕の呼吸さえ圧迫する。僕は息も絶え絶えになりながら、ルリの頬に自分の頬を擦り付けた。
ルリの体の温かさ、彼女の香り、彼女の静かな呼吸音とそれに合わせて変化する触感。僕はルリという存在を、僕のもつ感覚器の全てで感じていたかった。ルリの全てが、僕の心と体を侵してゆくのを感じる。それがこの上ない喜びを感じさせた。
「僕のルリ、僕だけのルリ」
「他の誰にも、ルリはやらない」
「ルリの笑顔も、泣き顔も、何もかもを僕のものにしてしまいたい」
その日から、僕の本当の人生が始まった。
†
僕らが5歳のときに、ルリの両親が疫病で亡くなった。
一般的な倫理観からすれば、きっと悲しむべき事件だったのだろう。しかしその時の僕にはそうは思えなかった。ルリを悲しませる存在が、またひとつ消えた。ただそれだけのことだ。
周囲の反対を押し切り、僕はルリと二人で暮らすことにした。親切な村人たちが色々と世話を焼いてくれたこともあり、問題なく生計を立てていくことができた。
ルリが時折、両親のことを思い出して涙しているのを見る度、僕は死んだ彼らへの嫉妬から気が狂いそうになった。
泣いているルリを抱きしめながら、僕は思った。あんな連中の為に、君が泣く必要は無いんだよ。さあ、少し休もう。いい子だ。
泣いているルリも可愛らしいな。でも泣くのなら、僕だけの為に泣いておくれ。
不意に、僕とルリの体が一つの肉塊になる程に、強く、強く抱きしめたいという衝動に駆られ、僕は自身の思考の混乱に怯えた。高鳴る心臓を何とか押さえつけ、ルリを抱く腕に力が入り過ぎないよう、全力で衝動に抗った。
その時突然、周囲が炎に包まれた。
気付くと、僕は自宅の前に一人立ち、炎に包まれる屋敷を呆然と眺めていた。
急激な状況の変化に意識が追い付かないまま、炎の揺らめきと、パチパチという音が僕の意識の表層を滑ってゆくのを感じていたが、先ほどまで腕の中にいたはずのルリが居ないことに気づき、僕は弾かれたように動き出した。
そうだ、ルリを助けなければ!
僕は板の打ち付けられた玄関のドアを無視し、中庭に面した小窓から内部へ突入した。一目散にルリの部屋へ向かう。
しかし、ルリの部屋は空だった。
じりじりと肌を炙るような熱気が、痛みよりもむしろ焦燥感をあふれさせる。既に屋敷全体が赤黒い炎と黒煙に覆われていた。
煙が目に染みて、反射的に目を閉じると、何かが崩れるような音とともに全身に強い衝撃が走る。気が付くと僕は何かに押しつぶされるようにして床に這いつくばっていた。体が動かない。
すると、目の前に気を失ったルリが倒れているのに気付いた。
「ルリ!」
僕は唯一動く左腕を思い切り伸ばすが、あと一歩のところで彼女に届かない。
その時、ルリの上に、燃え盛る柱が倒れてくるのが見えた。
「ルリ! ルリ!」
僕の必死の呼びかけにも、ルリは目を覚まさない。
「ルリ! 起きてくれ! ルリ!」
ゆっくりと倒れる重厚な柱が、ルリの小さな体を押し潰す。ズシンという振動とともに、何かが破裂するような音が、やけにはっきりと耳に入り……
「うわああああああああああああああああ」
僕は獣のような咆哮を上げて、目を覚ました。
え?
「おはよう、お兄ちゃん」
声のする方を見ると、傷一つないルリが、僕の顔を眺めていた。