第87話 ワガママナザレゴト
キナの告白は、ひどく、衝撃的なものだった。
陳腐な表現だが、衝撃、と言う他に思いつかない。
キナとアレス――ヘタレさん。
どっちも、大切な人だ。
なのに、どちらを取るか、なんて。
――いわば、どちらを見捨てるか、ということなのだ。
「……そんなこと……」
決められるはずがない。どっちかを、犠牲にするなんて。
「気にしないで、レイ君。別にきみに選びなさいなんて迫っているわけじゃないわ」
「え……」
鈴の音のような笑い声を立てるキナに、僕は目を丸くした。
それなら何で、そんなこと。
……それなら、どういう、選択をしたのか。
「私たちが生きたいから、ヘルグさんにじゃあ死んでなんて言うわけにもいかないでしょう? 当然だけど。私はもしレイ君が選んでくれたなら、その決定に従うのだけれど……ヘルグさんはそうでもなさそうだから」
微笑むキナから、ヘタレさんへと視線を移す。
ヘタレさんもいつもの不敵な笑みを浮かべていた。――本当相変わらず、だ。
視線を外して、僕は小さく吐息した。
そうだ、そんな人じゃない。そして、キナとアレスは……そういう人だ。
「……ねえ、レイ君、私の言いたいこと分かるわよね」
「分かるよ。――だてにずっと一緒に旅をしてたわけじゃない」
はあ、とため息とともに出た言葉。
半ば自分自身にも呆れながら、僕は、キナが言いたかったのであろうその科白を紡いだ。
「十日間あるんだから、それで十分なんだよね?」
僕のその言葉に、キナは満足そうに微笑んで頷く。
後ろのアレスも、同じく。
……だけど、満足してるのなんて二人だけだ。僕はぐっと唇を噛みしめた。
「……それでいいの?」
「分かってるくせに。いいのよ、それで」
くすりと漏らす笑いに、思いは募る。
「自己犠牲なんて……綺麗じゃないよ」
「知ってるわ。だけど仕方ないの、これは私のわがままだったんだから」
何でもないことのように言う。
わがまま? ――だけど。
もう失いたくないと思う僕の方が、わがままでも?
「だけど僕は……失いたくない」
「口調が戻ってるわ、レイ君。……だけど失いたくないからって、全部抱き締めているわけにはいかないでしょう?」
どれか一つは零れてしまうわ、とキナは笑った。困ったように眉尻を下げて。
そうだ。全部抱き締めていることなんて、できない。
そんなことは、頭では、分かっている。
「そうしたら、どれを捨てるつもりなの、レイ君? 重すぎたら沈んじゃう」
首を傾げて、可愛らしく尋ねるキナ。
どれかを。
――捨てる。
そうだ、どれかを捨てなきゃ全部沈んでしまう。
今僕は、全部を抱えて、歩き出そうとしているけれど。
「水は海へ、雲は空へ、人は地へ、死人は世界へ還るべきだわ。みんな、還るべき場所があるの」
諭すような声。
まるで、コメットみたいなことを言う。……キナとコメットは、ひどく、似ていた。
けれど、少しだけ違う。キナはちょっと残酷だ。
残酷だ。
残酷だ。
……それなら、何で。
「……何で、来たの?」
もう一度僕の前に出てきたのは。何で?
キナは柔らかく微笑む。風船のような脆さを、いっぱい詰めて。
「還らなきゃいけないのに、何で、また、来たの」
いけないと思うのに、棘のある言葉が僕の口からすらすらと出ていく。
――傷付けたいわけじゃない。
そんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけれど、決して、傷付けたいわけじゃなかった。
ただ、自制がきかない。歯止めがきかなくなって、ぽろぽろと零れていく。
「……レイ君。わがままでごめんね?」
けれどキナは、傷付いた表情も見せず笑う。ただ。残酷なりに、優しすぎるほど。
「だけど、これが最後のわがままだから。……私、レイ君に会いたかったのよ」
そっと僕の頬をなでる、風のような冷たい手。
驚いたまま固まっていると、キナは手を止めて微笑んだ。
「これだけは本当だから。ね、アレスが私の最後のわがままを許してくれて……神さまも、許してくれた。だから、ずるいけど……レイ君も、許して」
ずるい。
本当にずるい、僕は口の中で呟いた。
けれどそれは誰かの耳に届くことなく、重い空気に押しつぶされてしまう。
そんなのずるい。頷くしかないことを、彼女は知っている。
「……だけど……僕だって、あの時、死ぬべきだったのに」
「……レイ君」
僕は最後のささやかな反論というように、言葉を落とした。
「死んだのは、二人だけじゃなかったのに――」
暗に、『僕もあの時死んだのに』。
――ここに、いるべきじゃないのに。
どうしているのかも、よく分からない。
分からないまま、ここにいる。
コメットに――コメットの周りの人たちに、償いも出来ないまま。
「……神さまが、レイ君に、死んじゃ駄目だって言ってくれたのよ?」
キナが両手で、僕の頬をふんわりと包んだ。
お姉さんぶるような振舞い。手つき。
手は冷たいのに、どこか胸のあたりが温かい。――けれど、それも一瞬、急速に熱を失う。
「じゃあ、コメットは……コメットはどうなるんだよ!」
完全に元の口調に戻っていたけれど、そんなことは気にしない。
ディーゼルとアリセルナが、ぴくりと反応したのが分かった。
コメットは。
――彼女が一体、何をしたというのか?
「背負うしかないじゃない」
けれど残酷にも、キナはそう言い放つ。
「悪いけれどね……私は、コメットさんって人を知らない」
ディーゼルが怒りとも悔しさとも取れない、負の感情の色を浮かべているのが視界の端にちらと映った。
痛い。心が痛い。
どうしてこんな風にならなきゃいけないのか、全く分からない。
「だけど、彼女はもういないのよ。もういないなら……背負って、生きていくしかない」
キナは苛立ったような、それでいてどこか悲しげな表情で僕を見つめる。
背負って、生きていくなんて。
重すぎる。
人の死は、些か重すぎるというのに。
「悪いのは誰で、善いのは誰かなんて知らないわ。コメットさんは善くて、レイ君は悪いのかもしれない。逆かもしれない」
責めるような口調のまま、キナは続けた。
僕は何も言えない。言えないまま、ただ目を瞠る。
「けれど死んでしまった今、そんなことに意味はないわ――死人はみな同じよ。しゃべらないし、動かない。何もできない」
……その通りだった。
悔しさが胸中に渦巻く。ぐるぐるとせめぎ合う、暗い感情。
「きみが背負うべきなんでしょう。他の誰でもない、きみが」
キナの言葉は、心に棘でも鎖でもなく侵入してくる。
深く深く刺さったそれは、誰にも、抜くことができないのだ。
――やっぱり君は残酷だ。多分。
「……うん……」
けれど僕は、それしか言えなかった。
「……ねえ、レイ君」
ふいに、キナの口調が柔らかくなる。
優しい声は、ひどく懐かしい気がした。
「お願いだから、私たちを、このまま死なせてね。……きみは優しいから」
悲しげに伏せられる睫毛が、その下からのぞく灰色の瞳が、弱々しい。
さっきまでの勢いなんて、どこにもなかった。
「私、帰りたくなくなっちゃう……」
まるで仲のいい友達と離れることを嫌がる、幼い少女のようだった。
夕暮れ時の公園になら、どこでもいそうな少女だった。
僕は息を呑む。
「――ごめんね」
キナは最後にそれだけ言って、僕に背を向ける。
アレスの表情さえ見えない。――影に覆われて。
十日間。
たったそれだけで、満足だというのか。
それだけのために、こんなにかき乱していくのか?
「……ずるいよ」
僕はそう、呟くしかなかった。
ぐっと唇を噛みしめたまま、僕はドアに向かって歩いていく。
「……どこへ行くんですか?」
「ごめんなさい。部屋に戻ります……」
ヘタレさんの声にも、振り返らず答えた。
――ああ、一体僕は何をしているんだろう?
だけど僕の気持ちとは裏腹に、手はドアを押し開け、足は規則的に動いて、部屋をあとにした。
もう分からない。
分からなくなってしまったんだ。
◇
「……よく何も言いませんでしたね?」
ヘルグはコメット――否、似て非なるもの、だ――が部屋から出ていくのを見届けると、にやりと笑って俺を見下ろしてきた。
「……別に。言えなかっただけだ」
それに俺は、素っ気なく返す。嘘じゃない。
ヘルグはくすりと笑っただけで、俺から視線を逸らした。
「魔王様も。てっきり優しい貴方のことですから、止めると思っていました」
「……三つ」
魔王様も何だか素っ気ない。無表情がそうさせているのだろうとは思うが。
「事情がよく呑み込めていなかったのと、私が口を出すことじゃなかったということ」
これで二つ、と魔王様は呟く。
「それと、私はそこまで優しくはない」
目を閉じて呟かれた言葉。
ヘルグはまた笑った。ひどく面白そうに。
「よく言います」
本当に。
誰より優しいくせして、と俺は思う。
こてんと頭を壁に預け、隣を振り返れば、相変わらず蒼い顔をしたアリセルナ。
……俺が何を言っても、反応しそうにはないな。
――仕方ない、といえば仕方ないか。
はあ、とため息をつく。どっと疲れた。
まだ信じられない気持ちと、もう全てどうでもいいという気持ちが混ざって心の中に同居する。
……本当に、な。どうでもいい、って気もする。
「……そうもいかないんだけどな」
呟いて、向かい側の壁に寄り添って座ったアレスとキナを見遣る。
暗い表情。さっきまでの取り繕ったような笑顔はどこへ行ったのか。
――結局、中身がどうであろうと、『コメット』がいないと何も成り立ちやしないのだ。俺たちの世界は。
◇
部屋のベッドにばふっと倒れ込んで、はああー、と長いため息を漏らす。
いつもの部屋がどうしてかひどく殺風景に見えた。
寂しい部屋。寂れた風景。……どうしてだろう? おかしいな。
――そうだよ。どうしてだろう。
どうして、あんなことになっちゃったんだろう?
リルちゃんが帰ってきたという、そんな喜びはもう悲しみに塗り潰されていた。
全てが複雑に絡まっていく。――もう、解きようがない。
そして、僕は弱く、とても脆い。何もできないのだ。
「……背負っていかなきゃ、いけないのかな……」
呟く。目を閉じて。
――背負っていかなきゃいけないのか。
こんな重いものを。全部?
ひとり、で?
「……はあ……」
背負うべき、なんだろう。
何を失っても。
それだけは逃れられないのだと、告げられる。
ただひとり、部屋の中で。
誰一人いない、僕だけの、部屋の中で。
――突然、ふわりとした眠気が襲った。
それは甘い風みたく。
瞼が重く、中途半端な思考を放ったまま下ろしてしまいそうになる。
疲れた、なあ。
眠ってもいいだろうか。よくないだろうか? ――よくないに決まっている。
さようならを告げるって、決めたのに……告げられないまま。
また、朝を迎えるのかもしれない。
……僕の弱虫。
けれどどんなに叱っても、叩いても、僕はただ萎れていくだけ。
萎れて、眠気に、身を任せてしまうだけ。
ただ、現実を手放そうと、弱くなるだけ――。
それだけだった。
作者のテンションが低いとキャラのテンションも低くなる。これ鉄則。
……っていやいやいや、駄目ですよ勇者さんー。
読者さんのテンションまで低くしちゃったらどうするんですか。冗談じゃないぜ貴様。
制裁を加えてくれるー!
……ってことでこんにちは。白邪です。
ハロウィンに急ぎすぎて、この出来、この有様です……。申し訳ございませーん!
それにしてもキナが鬼のようだ。
勇者さんは精神的に脆い奴だから、そんなこと思っても正直に言っちゃいけないよ。……あいつ本当に勇者やってたんだろうか?
きっと何かの間違いですよね。せいぜい勇者に助けられた一般人にしか見えなもごもご。