第86話 La Petite Sirène
ねえ――僕は君のことが、好きだったのかな。
――たとえば、
「……ん」
吐息が離れる。一瞬のことだった。
それはひどく優しく。
白い頬に、すっと赤みが差して。
リルちゃんは、ようやく、その黒い瞳を上げた。
「……コメット……?」
「リルちゃん!」
向けられた目に、僕は思わず声を上げる。
優しい、黒曜石の瞳。
それは確かに、リルちゃんのものだった。
それが、それだけのことが、おかしなほどに嬉しくて。
身体を横たえたまま瞬きを繰り返すリルちゃんに、僕はほうっと胸をなで下ろす。
「よかった……よかった、リルちゃん……」
「…………ここ、は」
「魔王様のお部屋ですよっ。あの、大丈夫ですか? 痛いところとか」
きょとんと見上げてくるリルちゃんに、口調を戻して僕は微笑んだ。
よかった。
よかった……リルちゃんが、戻ってきた。ちゃんと――ここにいる。
安堵と歓喜で思わず笑みが漏れてしまう僕を不思議そうに見ながら、リルちゃんはうんと小さく頷く。
「大丈夫……。私は、何とも、ない」
未だにぼーっとしているリルちゃんはそれだけ言って、ドアの方に目をやった。
扉は閉まっているけれど。――どうしたんだろう?
リルちゃんはようやく起き上がって、それでも、ドアを見つめたまま呟いた。
「……ヘルグ?」
え、ヘタレさん?
――一体、何が?
「あ、やっぱり分かっちゃいましたか? 魔王様には隠せませんね」
僕が何のことかと目を白黒させていると、ヘタレさんがひょいとドアを開けて部屋に入ってきた。
……心なしか楽しそうだ。
何? 何なの? 嫌な予感がする……んだけど。
「……さっきからずっと見てたな? 透視使って」
……は?
透視?
おもむろに呟かれたリルちゃんの言葉に、僕はぴしりと固まった。
――透視?
「魔力の消費は激しいんですけどねー、便利なんですよこれが。ていうか、こんな美味しいシチュエーション、魔力をどんなに消費したって見ないわけにはいかないと思うんです!」
「……ヘタレさん」
そうか。
透視か。
……瞬間移動ではなく、そっちを使いやがりましたか。
ぶちりとどこかで血管の切れたような音が。気のせいかな。
「半殺しでいいです。右半分と左半分、どっちを殺して欲しいですか?」
「えっ、コメットさん? あの、怒ってます?」
「当たり前じゃあないですか。せっかく、せっかく読者様の目から逃れて直接描写を省けたというのにー!」
「読者様の目は欺けても、この私の目は欺けませんよ?」
「ただののぞきじゃねーか!」
ぱしーんと思いっ切り叩いた。けれどヘタレさんは相変わらず楽しそうだ。……マゾ?
それだったらやだな。サドなのに。サドでマゾとかもう収拾がつかん。
「しっかり見ましたよー、コメットさんのセカンドキス!」
「死ね! ふざけんな! やっぱり右も左も殺す!」
「嫌ですねー、怒らないで下さいよ。そんな見えるところでキスしていた貴女が悪いというか」
「お、ま、え、が、さ、せ、た、ん、だ、ろ!」
半殺し実行。……でも結局右も左も殺したのでこれは半殺しといわないのかもしれない。どんまい。
「コメット、それよりも」
さて、リルちゃんも今さらヘタレさんがそこらでくたばってようがどうでもいいらしい。『それよりも』なんて明らかにヘタレさんを無下にして話を続けた。
「大丈夫だったのか?」
「え、あ、え? 私ですか?」
「うん」
こくりと頷くリルちゃん。……小動物か。
僕はやっぱり癒されるなーなんて馬鹿なことを考えながら、とりあえずはいと頷いた。
「一応――影は、大丈夫です」
影は。
その含みに、リルちゃんは気付いただろうか。――聡い彼が気付かないわけはないと思ったけれど。
「……そうか」
ふわりと微笑んで、リルちゃんは未だ部屋の隅っこで何もしゃべらないディーゼルとアリセルナを見た。
アリセルナの方は、些か、顔色が悪い。
……ごめんね。謝って何が変わるわけじゃあないけれど、それでも、申し訳なかった。
それならこんなこと、最初っからしなければよかったのに。
「……あの、魔王様」
「ん?」
「……私……、その、もう行かなきゃいけないんです」
さようならを告げなきゃ――と、僕はもう、そればっかり考えていた。背負いようのない罪悪感に塗れながら。
ディーゼルが、あんな切ない表情を見せた時に。
決めたんだ。僕は。
言わなきゃいけないんだ。
さようならを。
ここにはもういられないから。
「……、……どこに?」
あてはなかった。
僕は俯く。
キナとアレスの話を聞いて……、無事に解決して、それから、僕は。
あてがなくても。
「……先に、彼らの話を聞くんだろう」
リルちゃんはそう言って、キナとアレスの方を振り返った。
キナとアレスは、お世辞にも明るいとはいえない表情を浮かべている。
――当然といえば、当然だ。
『行かなきゃ』なんて。今の話は、二人だって聞いていたはずだ。
「キナ、アレス……」
「……あのね、レイ君」
僕が話を続ける前に、キナが言葉を遮った。
切なげな表情が、少しだけ揺れる。
大きな瞳は変わらず優しくて、だけど、悲しげに細められていた。
「私たちね、神さまに会って来たの」
――そして淡く微笑んだキナは、そう言った。
「か、み……?」
「うん。そしてね、神さまに、生きたいからってお願いしたの。もう一度チャンスをくださいって」
僕の手を握って、キナは続ける。
アレスも何も言わず、ただ、同意するように俯いていた。
神様に。――チャンスを下さい、って。
何でなんて、聞けるわけもなかったけれど。『生きたい』――それしか、理由になりえない。
「そしたら――十日やる、って言われたわ」
十日……? どういうことだろう。
話を遮って聞きたかったけれど、僕は言葉をぐっと呑み込んで、その先を促した。
「……レイ君が危なかったから、なんて言ったら、言い訳ね」
キナは睫毛を伏せて、呟く。
「本当は、私、生きたかったの。だから……、お願いしたんだけれど」
僕の手をぎゅっと一層強く握って続ける。
みんなに聞かれていては――言い辛いことなんだろう。
キナは迷ったように視線を上げて、それから、ふうっと息を吐いた。
「――十日の間にね、私たちを殺した人を殺しなさいって」
「――っ!」
僕は声にならないほどの小さな悲鳴を上げた。
――キナとアレスを、殺した人。
――殺しなさい。
それって、つまりは……。
僕はリルちゃんをちらりと見る。動かない表情。
「……ここでね、一つ、言わなきゃならないことがあるの。レイ君」
「え?」
キナはそう言うとやんわりと僕の手を離し、ヘタレさんのところへととことこ歩いて行った。
え、何? ……ヘタレさん、まだ倒れてるんだけど。
何となく罪悪感を覚えた。ごめん、ヘタレさん。そんなに強く殴ったつもりはなかったんだけどね。
「ヘルグさん、ヘルグさん?」
けれど案外、キナが声をかけるとヘタレさんはひょこりと起き上がった。……ちょっとだけ不機嫌そうだ。
そして殴られた頭を抑えて、彼はうーと唸る。
「う……変な後遺症が残ったらどうしてくれるんですか、コメットさん……」
「え、大丈夫じゃないですか? 元々猛烈な障害があるじゃないですか、脳に」
だけどやっぱり出てきたのは憎まれ口。
でも仕方ない。ヘタレさんの普段の行いが悪いせいだもんね。
けれどそんな僕の態度を戒めるように、キナが僕を見上げた。
「あのね、レイ君――実は、ね」
ヘルグさんの近くにしゃがみ込みながら、キナは呟く。
「……私たちを殺したのは、この人なの」
キナの視線の先には――当然だけれど、ヘタレさん。
その言葉は明らかに、ヘタレさんを指し示していた。
「……え?」
どういう。
どういう?
だって今の流れで――
だってキナとアレスは――
……ヘタレさん、が?
僕の記憶には、そんなこと。嘘。嘘だよね?
「はい。私が、殺しました」
ヘタレさんはそれでも、笑っていた。
――殺した本人を、目の前にして。
嘘だ。
そんなの――
――だけど、ね。
『リルちゃん』と『ヘタレさん』、どっちにしたって。
「じゃ……じゃあ、キナと、アレスは……」
僕は上手く言葉を紡げず、ただキナが頷くのを見た。
「うん。――何にせよ、私たちを殺した犯人を殺せば、私たちは、生きられるんだって」
セカンドキス(余談)の描写をわざと省いたりー! 期待していた方がいらっしゃったらごめんなさーい!
ようやく我が家の魔王さんがお目覚めです。遅いんだよとか寝坊野郎とでも罵ってやって下さい。
ていうかやっぱり予定は変わりました。42%に負けたぜ……。だって案外進まないんだもん。
ですから次回の予定は書きません。67%の可能性で変わりますから。
超余談ですがタイトルの『La Petite Sirène』はフランス語で人魚姫です。
自分が生きるために誰かを殺すってそうっぽいよなーというやはり直感での決定。それくらいなら予定を守れ自分。
そろそろハロウィンですね……やばい……ハロウィンネタに間に合わん! 考えてあるのに!