第81話 紅と黒
長い間、睨み合っていたんだと思う。
――いや、僕には目がないのだし、相手の目も見えないから、正しい表現ではないんだろうけど。
だけど確かに対峙して、強く、相手の目を見据えていた。
紅い瞳。
灼熱にも似た、鮮血にも似た瞳が意識の奥底から睨んでくる。
息衝く悪意。知った感覚。
それが『リルちゃん』であるというのは、根拠も証拠もない確信だった。
「貴方は……誰、なんですか」
それでも感覚的には睨み合ったまま、僕はもう一度同じ問いを繰り返す。
紅い瞳は動かない。灼熱の熱さを持ったまま、僕を見据える。
ふいに、空気が揺れた気がした。
『……今は、リルじゃない。魔王だ』
そう告げる、意識の中核に直接絡みついてくる声は、確かにリルちゃんのものだった。
けれど、本質は、彼の言葉にしては冷たすぎる。
そう考えれば、確かにそれは『魔王』と言うに相応しいかもしれない。
……だけどつまり、魔王というのはイコールリルちゃんではないのか。
そんな僕の疑問に気付いたかのように、また、空気が震える。
『個人的な感情は除去した。今この場で必要なのは魔王の血だけ』
淡々と語るリルちゃん……じゃなくて、魔王様。
心に直接響く声は、聞き慣れたリルちゃんのものなのだけれど。
彼の感情がないなら、この冷たい言葉も当然なのかもしれない。
今の彼は、魔王でしかない。……何だか、それがどういうことなのかはよく分からないけど。
だけど、それはきっと僕にとっては――よくないことだ。
「……リルちゃん自身が、そうしたんですか?」
僕はあえて丁寧な口調のまま聞く。答えは分かり切ったようなものだけど。
警戒は解かない。相手はあの、優しいリルちゃんじゃないから。
『――いや』
僕の態度にも変わらず、単調な口調で呟く魔王様。
いや? 予想外の答えに僕は戸惑う。じゃあ、彼以外に、誰がそうしたというのか。誰がそうできるというのだろうか?
誰かの魔法? サタンとか――?
許さない、と呟こうとした時。
『全ては、神の意。神の御心のままに』
やはり、淡々とした口調で告げられる言葉。
――瞬間、何とも形容しがたい、漠然とした怒りが込み上げてきた。
「……神、だって?」
ちりちりと心の奥で燻る炎。ふざけた言葉だと僕は思う。
神? 御心? 何を――言ってるのか。
リルちゃんの声で、そんなことを平然と言われることにすら、腹が立った。
神なんてそんなもの、どれだけの価値が、どれだけの意味が、どれだけの意義があるというのか。
悪いけれど僕は、そんなものを信じていたりはしない。いたとして、恨むべき相手にしかなりえないだろう。
「……神がそうしろと言ったから、そうしたんですか」
『抵抗はした。それだけだ』
僕はその言葉に、マグマが心の中に傾れ込むかのような熱さと、衝撃を感じた。
だって、その言葉が意味するのは、つまりこういうことだ。
抵抗はした。けれど神が無理矢理、そうしたのだ。
ふざけるな。もしここに神がいたなら、僕はたとえ身体がなくたって殴ってやりたいところだ。
リルちゃんの意思を無視して、ふざけた真似をしてみせた神とやらを。
――けれど。
『――だが、結局は人なんて神に抗える存在ではないだろう』
付け足すように、冷たい言葉が落とされる。リルちゃんの声で。
僕は、曖昧な悲しみと強い怒りが心の中で渦巻くを感じた。
人は、神に、抗えない?
――そんなの、勝手に卑屈になっているだけだ。
だから悪いけど、言わせてもらう。
僕は神が大嫌いなんだ。
ありえない。
……だけど。
「じゃあ……神が死ねと言ったら、みんな、死ぬんですか?」
『無論』
灼熱が、胸中を焦がした。即答された、その言葉に。
それがリルちゃんの言葉なのか、魔王という存在の言葉なのかは分からない。実際どっちでもいい、けれど。
とにかく、僕は。
「神が――神がっ、そんなに偉いのか!」
それだけは言わなければ気が済まなかった。
『――……』
いくら悪意のこもった視線で睨まれたって、親しかったはずの人から殺意を向けられたって。
僕は神なんか嫌いで、奴さえいなければなんて八つ当たりをするほどで、そしてそれは今八つ当たりじゃなく正当な防衛になろうとしているわけで、出来れば八つ当たりのままであって欲しかったわけで――。
とにかく、とにかく、熱かった。
何かが込み上げてきて止まらない。苦しくて痛い。
だって、神って何なんだよ?
僕は思う。
神はそんなに大したものなのか。この世界は、神が全てなのか。
「神なんかっ、所詮どれほどの存在だって言うんだよ!」
『…………』
「僕は、リルちゃんは――神なんかのために存在してるんじゃない!」
僕は何を叫んでいるんだろう、と小さな理性の声。
だけどそれ以上に大きく、叫ばなければ済まないと燻る闇の声。
戦うまでもなく、心の闇が理性などすぐに覆ってしまう。
神なんか。
神なんかの、ために。
『――随分、神を毛嫌いしているようだが』
僕の怒りを真正面から受け止めても、まだ冷静に囁く声が心に絡みつく。
『何故だ?』
何故、なんて。
僕は叫ぶのを止める。
そういえば理由があったかもしれなかったが、僕はそんなことはどうでもよかった。
「……嫌いだから、嫌いだって言ってるんだ」
我ながら不機嫌な声。……声にもなりえない言葉だけど。
触れられたら再び叫び出してしまいそうな心を抑えて、僕は吐き捨てる。
「リルちゃんなら知ってると思ったけど」
『……だから私は、あくまで魔王でしかないと言っただろう』
その通りだよ、と僕は胸中で呟く。
リルちゃんはこんなに辛辣な言葉を選んだりしない。
彼は魔王という、ただの抜け殻だ。
「お前に教える義理なんかない。――リルちゃんを、返せっ!」
闇の中に反響する声。
ぐわんぐわんと、心の中がかき乱されてるみたいだった。
自分で何を言っているのかさえ分からない。言葉はちゃんと届くのに、何かの記号みたく理解できない。
『――……お前が返して欲しいと叫ぶ、その前に、自分を影から取り戻してみてはどうだ』
数秒の間の後に、ため息のような、深い吐息とともにそんな言葉が降ってきた。
――確かにそうだとは思う。
だけど、冷静さを根こそぎ奪われた僕にはそれを認める言葉など残っていない。
「うるさいっ、返せ! 返せ、リルちゃんを返せっ――」
何でこんなに必死なのか、自分でも分からない。
分からなかったけれど、取り戻さなきゃと思った。
大切なもの。神なんかに囚われたままじゃ、駄目なんだって思った。
だって、僕が神を嫌いなのは――
『……レイ』
ふいに、聞き飽きたくらいの冷たい声が、優しくなった。
――いや、違う。
そうじゃない。これは魔王、じゃなくて。
「……リル、ちゃん?」
紅い瞳が、どこにもない。ただあったのは黒い瞳だけ。
僕はぴたりと叫ぶのをやめて、そう呟いた。
『…………』
答えは沈黙。だけど、明白だった。それが肯定の意を示すのだと、僕はそう理解する。
リルちゃんが、本物のリルちゃんがそこにいる。いる、んだ。
「リルちゃん――!」
『レイ。私なら、ここにいるから』
ふわりと、優しい微笑みが見えた気がした。
突然のことに理解が追いつかない、けれどどうしてなんて聞かない。
幻覚でも、何でもよかった。冷たいあの瞳じゃないのなら。
『だから、負けちゃ駄目。影に囚われてはいけない』
優しい、リルちゃんの声。
微かに揺れる空気と、闇の中で一筋差す光。先刻の冷たい棘はどこにもなかった。
ようやく聞けた、その言葉は、泣きそうなほどに優しい。
『大丈夫、だな?』
「う……、うん……」
大丈夫なんかじゃなかったはずなのに、リルちゃんの声を聞いただけで何だか全て忘れてしまった。
悪いことなら全部。安堵したというか、燻っていた闇を全部拭い去ってくれる。
『……よかった。それなら、また、帰ってきて』
どこに、とはリルちゃんは言わなかった。
だけど、そんなことは分かり切ったことだ。
――帰らなきゃ。
僕は思う。
今なら、帰れる気がした。
『――レイ』
「は、はい」
慌てて心持だけ頷く僕に、リルちゃんは優しく笑う。
『私は魔王で、本来ならば紅い瞳を持つ悪魔の一族の末裔なんだ』
黒い瞳が言った。黒いはずの瞳が。
その言葉に僕は、さっきの紅い瞳を思い出す。――あれが、リルちゃんの持つ魔王の血。
『――だけど、私は他とはちょっと違うから』
そう言って、僕はリルちゃんが微笑んだように感じた。
違う? ――確かにリルちゃんは、黒い目をしているけれど。
『大丈夫。もうレイのこと、傷付けたりしない』
「……リルちゃん」
遠回しに謝ってくれているのを感じ、僕は何となく申し訳なくなる。
ああ、どうか、気にしないで。
僕が弱いのが悪いのだ。だけど、もう、大丈夫だから。
「……リルちゃんこそ、サタンとか――神、とかに」
『心配しなくていい。……多分、戻れるはずだから』
はず?
戻れる、はず――。
不確かな言い方に不安を覚えたが、問い質す前に次の言葉に流されてしまう。
『だから――戻って、これるな?』
「う、……うん」
優しすぎるその言葉に、抗えるはずもない。
僕はただ感覚だけ頷いて、肯定の意を示した。
『ありがとう』
最後にそんな言葉を残して、闇の中光が弾ける。
ガラスの割れる音にもよく似た音を、僕の中に鋭く残して。
――リルちゃん……。
お礼を言うべきなのも、君を助けるべきなのも僕なのに。申し訳ない、と思う。
けれど、だからこそ僕は頑張らなきゃいけない。
彼が今この現在、無事なのかどうかは分からない。――というか、あの言い方からして、どっちかというと危ない状態だろう。
だけどもう、不貞腐れてるわけにはいかなかった。影がどうとか、自分の弱さを言い訳してる場合でもない。
戻らなきゃ。僕は、戻らなきゃ。
影に身体を乗っ取られて、拗ねてる場合じゃない。
一度負けたのなら、もう一度戦わなきゃ――。
リルちゃんのおかげだろうか。
僕の中にまた、希望が舞い戻ってきていた。
勇者よりも泣きそうだ。白邪です。
コメディーが本分でしてわたくし、シリアスもラブも書けません!
とボイコットしたいのですが、いつも更新を待って下さっている優しい読者様のため頑張ります*ほどほどに。
でも勇者が復活してくれたのでとりあえず山場終わり。あとは後片付けだけだー!(笑)
コメディーに戻れる日も近い、……はず。