第66話 JUDGMENT
空気を震わせる灼熱の咆哮が止まない内に、サタンは私の方へ向けて床を蹴り大きく跳躍した。
軽やかに、それ故に無機質な。
しなやかに伸びる手に収まっているのは、懐から抜いた闇によく似た色をしたナイフ。
その鋭い切っ先は視界の中央で煌き、段々とその面積をふくらませていく。
「死ね!」
一秒とも感じさせずに私の目の前まで迫ったサタンは、その手が紡ぐ凶器を突き出した。
視界いっぱいに迫り来る、死神の腕。
そのナイフは確かな殺意が具現化した形のようで、何となく、避けることすら躊躇われるような気がした。
「――鈍化領域」
それでもほぼ反射のように、魔法を唱える。
ほぼ同時に、詠唱者以外のものが全て鈍化される空間が作り上げられた。それほど大きなものではないが、魔力の消費が少ないのと、その空間を定められるのとで使い勝手がいい。
自身の周囲に張ったその結界は、私のすぐ手前まで詰めて来ていたサタンの動きを鈍らせた。
大した魔法ではないのでサタンならすぐに解いてしまうだろうが、殺し合いなら一瞬の隙が命取りになる。
そしてこれは、殺し合いだ。
「回復!」
「圧力」
サタンが鈍化空間を回復するのと同時に、その手に収まったナイフに圧力を掛ける。
一秒もかからず、ばきりと歪んだ音を立ててナイフはほぼ真っ二つに割れた。
サタンはどうやら、憤怒や憎悪で正常な判断力を失っていたらしい。彼はようやく瞳に冷たい色を取り戻すと、一度の跳躍で私から距離を取った。
「……魔法に武力は無意味、か」
ぽつりと呟くサタン。
その声に感情はこもっていない。
表情もまるで虚ろで、空虚以外には何もなく。
「魔法使いに対抗出来るのは力のみ……とは誰の戯言だったかな」
皮肉のつもりか、それともただの感想か。
「……魔法使いは確かに力でねじ伏せることが出来る」
「ほう?」
私が呟いた言葉を、サタンは興味深げに拾い上げる。
口元は三日月型に歪んでいるけれど、それが心からの笑みなのかどうなのか。
私は無視して、どうでもいい話を続けた。
「魔法使いは言葉で人を唆す。その言葉に耳を貸すのが一番怖いことだ」
「……ほう」
「それを聞かずにさっさと力技で拘束してしまうのが最もいい方法だと言えるだろう」
さも楽しそうな、おかしそうなひずんだ表情でサタンはその話を聞いている。
……実際、その話は本当のことだ。魔法使い、というのは厄介なものだから。
言葉を聞けば惑わされる。誘惑されて、堕とされるのだ。
「だから武力で対応するのはあながち間違いとは言えない。……ただ」
「ただ?」
余裕が出来たらしく、くつくつと笑うサタンに指を突き付けて告げる。
「私は魔王だ。魔法使いじゃない」
刹那、人差し指の先で閃光とともに爆発が起こった。
けれどサタンはさっと飛び退き、顔に傷一つない。
「……、油断も隙もない。たとえ魔法使いだったとしても、力でねじ伏せられそうにはないな」
そう言いながらも、サタンの余裕は消えなかった。
軽快で慣れた身のこなし。
今までのような戦い方では、サタンを殺すことは出来ない。
……そう、殺すことは。
……。……殺したいわけじゃないのに?
「――だが生憎、時間がない。さっさと片付けなければいけないんだ」
サタンは憎らしげに舌打ちする。
一体何のことかと訝しんで眉をひそめれば、サタンは問わずとも独り言ちた。
「捕らえていた魂が……抜けていく」
「!」
私は反射的に顔を上げた。
捕らえていた魂。抜けていく。
それは、つまり。
「……ヘルグ」
ぽつりと呟く。
嬉しくもあったが、何だか複雑な気持ちにもなった。
――ヘルグは。
「本当にやったというのか……ふざけている」
再び、舌打ちが響いた。
「折角いい媒体だったのにな……まあ、お前を片付けてから行けばいい話だ」
ゆらりと、暗い赤が私を見上げる。血のような紅。
深い殺意を隠す様子もなく、ただ、じっと気味の悪い暗い何かが潜むままに。
「だが――、どうするかな。お前を殺すのは少々難しそうだ」
一転、口許が歪み、薄気味の悪い笑みの形が作られる。
けれど――笑ってはいない。
決して、それは笑ってはいなかった。
ただ殺意。殺気。殺したいという、憎いというどす黒い感情が渦巻いているだけだ。
「……仕方ないな」
笑みの形をそのままで、サタンは続けた。
さらりと。普通に。
「――死神に抱かれる恍惚」
「っ!?」
その、こともなげに、サタンが呟いた言葉。
――それは『禁断魔法』の、詠昌だった。
「死神の腕に抱かれて逝くが良い」
「っ! サタン――」
「後のことなら、心配するな」
狂気混じりの微笑。今度こそサタンは、本当に笑っていた。心からの狂った微笑み。
多分本当に、正気じゃない。
禁断魔法。憎い相手を葬るには持って来いの即ち“一撃必殺”、とそう言えば聞こえはいいが、その代価は自身の『血』だ。
禁断とされた魔法の中でも程度が低いのでまだマシとはいえど……それはただ、血液を捧げればいいというものではない。
生温いものではないのだ。禁断の代価は。
「この期に及んでまだ弟を心配するつもりか? 兄上……」
私の表情を見て、呆れたように、或いはつまらなさそうに顔を歪めるサタン。
乏しい感情を隠すこともなく、ただ憐れむように瞬きを繰り返して。
「……優しい兄上だ、全く」
同情のように嫌な響き。
――そしてそれは、怒りへと色を変える。
「私はな――そんな優しい貴様が、誰よりも嫌いだ」
サタンの声とほぼ同時に。
死神の幻影が迫り来る。獲物を葬るための鎌を携えて。
そう、私は獲物で葬られる存在。
自身の『血』を捧げてまで、サタンにとって私は葬りたい相手。
けれど。
「神々の公正なる制裁」
私も黙って殺されるほど、優しくはなかった。
詠唱が終わるか終わらないか、微妙なタイミングで。
空から墜ちてくる十字架。地にぶつかる轟音と飛ぶつぶてに混じって、何かがつぶれるような音も微かに聞こえた。そして視界が晴れた時には、避けられる余裕も赦しもなく磔にされる死神の姿が浮かび上がる。
ぐにゃりと歪んで。薄暗い中で、天に向かって捧げられ。
魔力が具現化されて形成された死神は、神の目の許に晒された。
「――禁断魔法、か」
サタンの笑いを含んだ呟きが、小さく漏れる。
少し、ほんの少しだけ愉快そうに。
「自己犠牲とは美しいな。泣けそうだ」
「……別に、そんなつもりはない」
「そうか? それなら何故――禁断魔法相手にわざわざ禁断魔法をぶつけた?」
禁断魔法。
否定はしない。必要もない。その通りだから。
そう、サタンが使ったように、私が使ったのも禁断魔法だった。
「……止めるのには一番手っ取り早い方法だからだ」
「ほう?」
面白そうに、サタンは眉を上げる。
十字架に縛られた死神には、もう目を向けもしない。
まるで与えられた玩具に興味を失った子供のようだ。
代わりに今度は、もっと『面白いもの』に目を向ける。
「その魔法の代償を、まさか知らないで使ったわけではあるまい?」
「知っている」
ジャッジメント。
――神々の裁き。
それは、公平故無慈悲な神の下す決断であり、人智を越えた抵抗不可の強大な力。
それを行使しようとする故に、行使相手がその罪を裁かれ――そして、行使者も共にその罪を裁かれる。
「まさか……自分が何の罪を犯していないとでも思っているのか? 潔白なら、この魔法は何の害もないものだからな」
「……そんなわけはないだろう」
私はあっさりと否定した。
無罪である者以外、制裁は下される。
どれだけ軽い罪であろうと、罰はある。
潔白である者以外。――そして完全に白いものなど、この世には存在しない。
「裁かれる覚悟がないのなら、人を裁くなど出来ない」
そんな魔法を、使えるわけがない。
だから禁断なのだ。
「……神とやらの制裁を待つ間に、もう一つ聞かせてもらおうか」
サタンは笑っていた。
私の答えに、面白そうに、うっすらと笑っていた。
「何故私を裁かなかった?」
予想していた言葉と一字も違わない科白。
私は目を閉じ、唇を閉ざす。
多分それは、尤もな疑問だった。……何故、サタンを裁かないのか。
「いくら禁断とはいえ、所詮魔法で呼び出されたのだ。罪はそう重くないし……死神が裁かれようと、私は無傷だ。魔法などまだ使える」
そしてさらにかぶせられる、尤もな言葉。
私には多分、反論の言葉はない。
どうして。何故。口を固く閉ざすように、ゆっくりと顔を下向きに傾けた。
「……お前は血の重みを、知らない」
「ほう?」
死神を呼び出したことによる、代償。
その血がどれほど重いものか。それがどれほど、大切なものか。
サタンは知らないのだろう。
だから使えるのだ。儚い命を躊躇いなく握りつぶす、非情で無情な死神を。
「だからまだ……、裁く価値もない」
言い終わると同時に、天から光が降ってくる。
突き刺さるような――或いは突き刺すような鋭い光。光といえど、決して優しくはない。
制裁、だ。
一瞬の不自然な沈黙の後に、轟くような爆発音が響いた。
壁が吹き飛び、床が消え、廊下が原形を留めない『何か』に変わる。
「……、……ふん」
十字架が消え、死神も消えてまた沈黙が下りた空間に、サタンの舌打ちが小さく響く。
面白くなさそうな表情。
次は――多分私の番。
多分じゃない。
神の力を引きずりだしたが故に、私も裁かれる。
それは私の罪だから。仕方のないことなのだ。
「こんな死に方を望んでいたのか? 兄上」
「……さあ」
哀しみによく似たものを含んだサタンの声。気のせいだろうか。
神は無慈悲だ。いつだって、公平だから、理不尽なのだ。
「どうだろうな」
罪は軽かろうが重かろうが、きっと必ず私は死ぬ。
うわああ我が家の魔王さんが自殺願望者みたくなってる\(^o^)/←
あ、穴があったら入りたい……なくても掘って入りたい!
十日ぶりの更新なのにグッダグダですみません!