第64話 Grand-Guignol
恐怖劇は終わらない。
始めようか? 死の宴を。
君が望む結末は、無慈悲で公平な神様の許くだされる。
それが悲しい結末でも、君は笑って逝くのだろう。
恐怖劇はここから始まる。
禍々しいまでの静謐に、思わず顔を歪める。
迫ってくる殺意は、まるで穏やかじゃないけれど。
それでも澄み渡った水面のように、波紋の伝わらない奇妙さで、表面上は平和にも見えた。
「――私はな」
不意に、沈黙を破って、ひどく優しい声が薄闇に響いた。自分のものではない、けれどよく似たもう一つの声。
それでもそこに感情はない。上辺だけを装った、仮初めの優しさ。
柔和な微笑も、甘いテノールも。
少しも心のこもらない、あまりに虚ろなもので。
「お前が、憎い」
そしてその声とは裏腹に、気味が悪い程の殺意がこもった科白。
憎悪。憤怒。敵意。嫉妬。
まるで背中を這うように、伝い上がってくる。
中身を伴わない優しい声に含まれるのは、ただ純粋な殺意だった。
「誰にでも愛される、お前が憎い」
けれどそれでも、微笑みは崩れない。
自身に向けられた憎しみ。
血を分けた弟にそう言われるのはどんな気分だろうと――そんなことを、真剣に考えたことなら幾度もある。
けれど、予想以上に、この心には響かなかった。
私は冷たいのだろうか。冷たい奴だと言われても多分、否定は出来ない。
ぎゅっと、目を瞑った。――それと同時に。
「お前さえいなければ――お前さえいなければっ!」
責めるように叩きつけられた怒声。
優しさの欠片はもうどこにもない。……元から、そんなものはなかったけれど。
ゆっくりと開いた目で、無表情のまま見つめていても、ただその憎悪劇は続く。
「何故お前なんだ、何故私ではいけないんだ――!」
感情のままの叫びが、鼓膜を突いた。
――理不尽、不条理。そんな世界。
もし私と彼が逆だったのなら……私も、同じようになっていたのだろうか。
――同情、憐憫。そんな感情。
そんなものは目障りだと知っていて。
私は多分、彼にそんな目を向けていた。
「そんな目をするなっ!」
そして、予想通り。
怒りの制裁か、痛みの鉄槌か――それともただ、悔しいのか。ばちばち、と空気が目の前で破裂した。
一瞬置いて、痛覚への刺激。
それは左の頬に走った、ぴりっとした痛み。その上を、生温かいものがつうと伝う。
触れてみれば多分、それは鮮やかな赤なのだろうと思いながら。
威力の弱い魔法とはいえ、……この状況では、そのダメージは予想以上のものだった。
痛みはひどいものじゃない。これが状況を不利へ持っていく引き金になるわけでもないだろう。けれど。それでも。
「私が弟だからか? お前が兄だからなのか? そんなたった少しの違いで、この世界は私を拒絶するのか」
心なしか、震えている声。
たった少しの差。そのせいで自分は苦しんでいるのだと、決めつけ。自分の非には目もくれず。
――でもそれも、仕方のないことだと思う。光を知らない弟。何も知らないサタン。
子供のように残酷な無邪気さを抱えた、何もかもを奪われた子。
「だから私は、お前が憎い! お前から全てを――奪ってみせる!」
全てを切り裂かんばかりに轟く咆哮。可哀想にと、私は心から思った。
だけど、声は届かない。
血のように、或いは灼熱のように赤い瞳が――殺意を湛え。
今、全てを壊そうとする。
◇
――神さまは許して下さるかしら。
キナはそう呟いて、ちらりと憂うように空を見上げた。
それに合わせるように、俺も遠い空を仰ぐ。いつも通り、なんの変りもない腐った色を湛える。
そう。『この世界』の空は、くすんだ灰色だ。
時の止まった色。時の流れが淀み廃してしまった、そんな色。
「んー、まあ……許す云々の前に、会えるのかどうかが謎だけどな」
「あら……もしかしてアレス、信じてないの?」
それもある。
……とは、あえて言わなかった。
ただ他の理由を、つらつらと述べる。
「神なんて高尚なお方が、俺たちに会ってくれるのかね」
それは、ほとんど皮肉染みた言葉。
毒の混じった本音は、無作為に人を傷付ける。
けれどそんな捻くれた言葉でさえ、キナは拾い上げてくれた。
「当たり前よ。それでこそ神さまだわ」
くすりと笑う、キナの表情を眺めながら。
俺はぼんやりと、『あっち』の澄み渡る青い空を思い出していた。
もう長いこと見ていない。
時が流れ続ける、命の聖域。
黄昏時には赤く染まり始め、眠る窓には星を輝かせる優しい闇で。
この世界とはまるで違う、生きている者だけの領域――。
もう違えた、親友の居場所。
「……確実に違うんだよな。俺たちとは」
キナに聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で、俺は呟く。
ほぼ無意識に足を動かしながら、何となく悲しくなった。
だって、そうだ。
生きることは決めたけど。だけどやっぱり、俺は今死んでいて。
それどころか『今』なんてなくて、ただ無の空間が広がっていて。
せめてもの神の慈悲なのか、記憶の中で廻り続ける歪んだ螺旋。
こうして俺が思考していられるのも、多分、微弱な奇跡に過ぎない。
「……アレス?」
深い闇に沈んでいくようにひどく暗い思考を進めていたところに、キナの制止が入る。
はっとして顔を上げれば、キナは悲しそうな顔をして。
「アレスってば、泣きそうだわ」
そんな表情をしていただろうか。思わず取り繕おうとして、角張った手を自身の顔に添える。
「泣くのはまだ早いわ。私たちが泣いていいのは、生きている時よ」
その手の上に、華奢で白いキナの手が重なる。
俺のそれより一回りも二回りも小さいその掌は、冷たく、やはり死人のものを思わせた。
それが何故か辛くて、振り払ってしまいたい衝動にすら駆られる。
「……もう二度と、泣けなかったとしたら?」
俺は代わりに言葉を落とす。残酷な問いだとは分かっていた。
――何だろう。そんなことを考えるなんて、生きている時には思いもしなかったことだ。死は思考すら、闇に回帰させるというのか。
震える声は、柄にもなく、怯えを強く示していた。
「アレス、そんなこと言わないで……」
「――だけど」
「言わないで。神さまは弱気な人、嫌いよ?」
眉を下げて、困ったような顔で諭すキナ。
キナを困らせているようで一瞬言葉を失ったけれど、それでも反論は止まらなかった。
嫌い? そんなこと。嫌われたって、構わない。俺だって神なんか好きじゃない。
今度こそ手を振り解き、怒鳴るように。
「神なんかいるのか。こんな無慈悲で理不尽な世界に、神なんか――」
「アレスっ」
ヒートアップした俺の極論に、キナが泣きそうな声を上げる。
――しまった。
そう気付いた途端に熱が冷め、急速に苦しさと自己嫌悪が胸に込み上げてきた。
俺は、今、何て――。
「……私、弱い人……きらい」
幼さを残す弱々しい声で、キナは俺を見上げる。透き通った瞳が揺れた。
ああ、俺は……キナに、何てことを。馬鹿――大馬鹿だ。何て浅薄な奴なんだ、俺は。
込み上げる自己嫌悪を理性で抑え、どうするべきかと考える。
「……ごめん」
そしてとりあえず、素直に謝った。
我ながら気の利いたことが全く出来ていないと呆れたくもなるが、それでも、それが一番だろう。
そう思ってちらりと、キナの顔を盗み見る。
キナは心なしか潤んだ瞳をこちらに向け、何度か瞬きをした後に口を開いた。
「アレス、あのね…………私、アレスは強いと思うよ」
「……は?」
「だけど、だからね、大切な人を護れないと、弱くなっちゃうの」
唐突な話題。
ついていけずに、俺はぽかんと口を開けたまま固まった。
……自分のことながら、かなり間抜けな格好だったとは思う。
「恐怖は拭えない。傍から見れば滑稽。一生懸命なんて綺麗事。だけどね……」
キナは一度払われた手を、もう一度俺の頬に添える。
言っていることが、よく分からずとも。今度は振り払ったりしないと俺は決めた。彼女の気が済むまで、どうか。
拭えない恐怖。滑稽な喜劇。綺麗事が溢れてる。
ゆっくりとその意味を噛みしめるように、キナは緩やかな動作で次の言葉を紡いだ。
「私、強いアレスが好きだよ」
微笑んで、キナは言う。
俺はその綺麗さに、思わず見惚れた。
言葉の意味は、上手く理解できなくても。
ただそれだけが、今、世界だった。
「だから、強くいてね? アレス」
「……キナ」
俺は小さく苦笑する。彼女が言いたいのは、そういうことなのだ。
ああ、俺はいつも、キナに助けられてばかりだなと――。
自嘲にも近かったが、それは、確かに彼女への感謝だった。
「恐怖劇は終わらない。それでも私たちは、ここにいるの」
覆せない闇をも乗り越えていくような、キナの口調。
ゆっくりと頷く俺は、滑稽でも。
「そうだな――神様に、会いに行こうか。生きるって決めたんだ」
それでも、俺は生きるから。
そう決めたから――どこまでも、二人ならば歩んでいく。