第63話 帰るひとと帰れないひと
『――好きですよ』
ほんとは誰も傷付けたくないくせに。
ほんとは全部好きなくせに。
ほんとはみんな、嘘なくせに……。
不器用すぎる人だから。
何もかも抱き締められたらいいのにね――?
ねえ、一番優しいのは……だあれ?
◇
それは刹那、けれど永遠とも思えるような一瞬。
迷うような表情から一転、少女の顔は決意に満ちた表情と変わり。驚くのも束の間。
――唇に何か、柔らかいものが触れた。
それは、ずっと待っていたような、懐かしいような、それでも知らない感覚で、ある意味何よりも危惧していたこと。
何よりあまりにも予想外の出来事で、理解するまでにたっぷり3秒はかかった。
そしてそれがキスだったのだと気付く頃には、彼女の意識はもうなくて。
「勇者さん!?」
叫ぶ自分の声は、多分、凄く虚ろだったのだろうと思う。
そういえば自分自身もこれがファーストだったっけとか、そんなどうでもいいことばかり。
倒れた彼女の身体を支えた自分の反射神経は、我ながら凄いとは思う。
でもそれだけ。
……多分、こんなに後悔したのは、今まで生きてきた中で初めてだった。
どうして。
彼女が優しいことは、知っていたのに。
自分の愚かさが、ひどく嫌になる。
ぎゅっと強く目を閉じて、腕に触れる温もり以外何も感じないように。
「――っ、どうして……」
なんて、彼女に尋ねることじゃない。
自分自身への戒め。
腕に寄り掛かる体温。
自分の鼓動ばかりが、大きくなっていく。
ああ、これは。
――制裁なのだろうか?
◇
ふわり、ふわり。
そんな効果音が聞こえてきそうな微睡に揺られ、僕は、目を閉じていた。
――ここは、どこなんだろう?
意識ははっきりとしているけれど、身体は思うように動かない。
……というよりも、何だか、自分の身体がなくなってしまったように感じた。
だから目を閉じていた、というより、何も見えなかった、といった方が正しいんだと思う。
無音の世界なのも、きっと、そのせい。
ただ、どこか自分という存在の奥深くで、ひどい眠気が燻っている。
まるで永遠の眠りにつくように――深い昏い、薄闇の中。
このまま、この眠気に身を任せてもいいだろうか? ……いや、身体はないけど。
意識は絶えずそこにあるのに、何だろう。もう、眠くて、すごく眠くて、これでいいやって思う。
出来るなら、もう、このまま朽ちてしまいたい――。
『――レイ君』
ふと、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
いや、聞こえたって言うより、自分の内から響くような。
聞き覚えのある声。何だか、ひどく、懐かしい気がした。
『そっちは、駄目よ。……もう帰れなくなってしまうから』
コメットの声だ、と僕はようやく思い当たる。
高くて柔らかな響き。いつも自分が聞いているのとは、ちょっと違うけれど。
それは確かに、コメットの声。
『ねえ、ここで終わってしまっては、意味がないのよ。みんな、貴方のことを待っているのに』
どこか悲しそうな声。
どういうことだろう? 脳髄を侵す眠気に邪魔されて、考えることすら儘ならない。
ここで終わる。意味。待っている……。
『よく、思い出して? 貴方は、今までどうして、生きてきたの』
――だから、それはどういう意味?
聞きたくとも、声は出ない。言葉にすらならない。
『だって……貴方は、何かを犠牲にして、それでも何かを愛する為に、ここまで来たんでしょう――?』
走る衝撃。散漫する眠気。
――ああ、そうだ。
僕は。
身体の感覚が、ぼんやりと、戻ってくる。
思うもの。思うひと。思う世界が、あって。
『戻れるの。貴方は戻れるの、みんなのところへ』
手が、目が、口が、身体が。
『貴方は愛せるのよ――全てを、世界を』
全て。
「――僕は――」
――そう、僕は。
そこにいた。
コメットの微笑を前に、震える声で。
燻る眠気は溶けて、僕は。
『ねえ……そうでしょう? レイ君』
にこりと、コメットは笑った。
僕の名前。ひどく懐かしい声で、呼ぶ。
『貴方は、帰りたいと強く願っているんだもの』
何度かの瞬き。
そうだ。そうだ、僕は……。
『貴方は優しいから……でも、サタンの思惑なんかに乗っては駄目。あんな魔法に、動かされてはいけないわ』
小さい子供に言い聞かせるような口調。
僕の頬に手を添えて、コメットは続ける。
『だって、貴方はみんなに愛されているんだもの。そして、貴方もみんなを愛してる。だから、消えるわけにはいかないでしょう』
その言葉が心にじんと沁みた。
……そうだよ、僕は。
消えたくないって、勝手な思いでも。
『だから負けちゃ駄目なの。傲慢でも、勝手でも、私は貴方に生きて欲しい』
「……コメット」
『私はもう戻れないから。魔王様にも、もう会えない』
不意に、コメットの表情に影が落ちた。
好きだったひと。今でも一番好きなひと。
……もう会えないなんて告げるのは、さぞかし辛いだろう。
どうしようも出来ない運命でも、誰も、諦めたくなんか、認めたくなんかない。
『私の魂は、もうね、多分消えてしまうわ……サタンに食べられてしまうの』
「……そんな……ひど、い」
『そうね。とってもひどい、でもあの人も、救われない人だわ』
悲しそうな、それ故に綺麗な微笑。
そうだね、サタンは、とっても可哀想だと――僕も思う。
あの人の光を奪ったのは誰なんだろう。自身か、それとも、他の傲慢か。
どちらにしろ――それは、悲しいことだ。
『だから……貴方は、戻って。私の代わりなんて、我儘だけど』
僕は小さく頷いた。
コメットの華奢な肩が震える。
――本当は帰りたい。そんな印象が、どうしても拭えなかった。
だけど僕は、帰ろう、なんて言えない……。
「ありがとう――出来れば、君も、安らかに眠って欲しい」
『優しいのね、最後まで……帰る魂と、還る魂。交わることなんて出来ないのに』
あるべき世界へと帰る魂、そして、あるべき場所へと還る魂。
僕らはそう、多分、交わることは許されない。
『私は、愛することが出来なかった。愛されることも許されないから、魂喚びには応えられなかったの』
泣き笑いにも見える、コメットの困ったような笑み。
それは、些細なことで、でもとても悲しい運命だったと、僕は思う。
『でも最期に、貴方に会えてよかった……』
それは本音か、それとも自分を取り繕っているだけか。
僕にはよく分からなかった。
でもとても、悲しそうだった。
『ねえ……私、神様がもし、いたならね』
ぽつりと独り言のような一言。
『お願いしたいことが、あるの……』
「お願い……?」
そう、とコメットは消えそうな輪郭を縦に振る。
そろそろ終わりなのか。コメットという存在の、全て。――サタンのせいで。
『私の愛する人が、みんな、幸せでいられますように――貴方の愛する人が、全て、笑ってくれますように』
――最期の、微笑。
あまりにも綺麗で、儚くて、優しい笑み。
それは確かに、最期だった。
『さよなら!』
そして、反響する声の下。
光が満ちて、世界は消えた。
あ、あれ? こんな予定じゃなかったのに←
タイトルの『帰るひとと帰れないひと』は、勇者とコメットのことですが……
実は、勇者とアレスのことでもあります。
大切な人に帰ろうと言える人と、言えない人。
キナとコメットもおんなじですね。
そんな意味も含めて、『帰る人』と『帰れない人』です。
け、決して適当じゃないんだからね!←
――僕は確かに、コメットと一つだった。