第55話 背中合わせの心
更新がひどく遅くってすみません……!
それにまた、シリアスに戻ってしまいました;
しかもそれに加え今回、視点が勇者じゃないです。
それでも行くぜという方、どうぞ!
優しい微睡の中で、懐かしい世界を視た。
どれほど前の日常かも、忘れるほど昔の。
強い光を秘める、蒼い瞳をした少年と。
何も知らずに無邪気に遊んでいた日々。
自分の“名”も“使命”も知らず、ただ自身の幸福だけを追い求めて。
あの頃はきっと、幸せだった。
自分が手にした幸福にすら気付かず、手の中で躍る青い鳥を捜して。
ヒトとは、不思議な生き物だ。
幸せになりたいと願いながらも、自分が既に幸せであることに気付くのを拒絶する。
不幸でいたいのか、或いはそれ以上の幸せを求めるのか――。
それとも、自分は不幸だと永遠にも思い込んでいたいのか……。
◇
――何処かで、微かな声が弾けた。
どんなに小さくても分かる、綺麗な歌声――聞き覚えのある、優しいソプラノが。
その歌にも、何となく聞き覚えがあった。
誰だったか、いつも隣で、歌ってくれた優しい歌だ。
「――魔王様。いらっしゃったんですね」
背後で突然、歌っていたソプラノがやんだ。
と同時に、私を呼ぶ声がする。聞き慣れた、明るい声が。
思わず目を見開く。優しく、甘い声色に。
「――コ、メット……?」
「あっ、魔王様、待って。ここでは絶対に振り向かないで下さいね。私は――私は、もういませんから」
振り向こうとして、それをそっと制する優しい声。
その声音から、それが誰の声なのかは容易に想像できた。
かつて、――誰よりも、好きだった声。
「私、変わったでしょう? もう……死んじゃってるのにね」
どきりとするほど、か細い声は、私の背中にそっと寄り掛かる。
そこにあることを確かに感じるのに、不思議と軽いそれは、まるで幻のようだった。
「……そんなに、哀しまないで下さいね? 私は、魔王様を恨むつもりなんてありません……死んだのは、きっと、誰のせいでもない。レイ君のせいでも、勿論、サタンなんかのせいでも」
――それは。
どういう意味かなんて、聞く気はなかった。聞けるはずもなかった。
ただ静寂の中で、そっと息を潜める。苦しくて。
「誰のせいでもない。……ただ少しね、早かったなって気もしますけど……私、これでよかったんだなあって、最近は思うようになって」
「……コメット」
「何も、――魔王様は何も言わないで下さい。魔王様の声を聞いていると、私、戻りたくなっちゃうから」
哀しそうな響きに、私は思わず振り向きたくなった。
でも振り返れない。
振り返れば、全ては、無に帰してしまうだろう。
もどかしい。何もできない無力なこの腕が、存在がひどくもどかしい。
「ごめんなさい、私、本当は魔王様の声を、言葉を聞きたいんです。でもそんなことしたら、本当に、帰りたくなっちゃう……」
小さくなっていく声に、私は無言で頷いた。
伝わっているかもどうかも、分からないけれど。それでも。
「あのね……、死んだ今となってはね、全部、知ってるんです。分かっちゃったんです、こんなことをした人も、憎しみ合いの原因も。でも、私は、それを生きている貴方に、伝えることはできない」
震える声は、それでもまだ話を続ける。
生と死の境界線が、深く、深く、そこに刻まれていること。
分かっていても、優しい言葉をかけることすら赦されない。
それは罪。そして罰。私に課せられた、最大で、最悪の。
「それでも、みんな幸せそうでよかった……私、ずっと見てました。魔王様のことも、レイ君のこともね、アリセルナやディーゼルのこととか、……みんな相変わらずで」
声が、今にも泣き出しそうなほどに震えた。
「けど、みんなそれぞれの道を歩んでいって……進化し続けていく、私を、置いて」
声が詰まった。
でも私は、何か言う言葉も思い付かなかった。
下手な言葉では、全て壊してしまうから。何て――弱くて、不器用な存在なんだろう。
「でもそれが嬉しくて……私、何も、恨んでないんです……私が手に入れられなかった幸せ。みんなが、背負って、生きてくれるって」
震えながらも、詰まっても、声は明るく続ける。
居た堪れなくて、どうしようもなくもどかしい。
心臓が暴れているようで、苦しかった。出来るならばこの心臓を取り出して、今にも鎮めてやりたい。
「みんなの幸せが、私の幸せ。そう思えたから、今は私、幸せです」
それでも、彼女はそう言い切る。
……彼女はやはり、私なんかより強くて、優しい。
思って目を瞑れば、後ろで声が、くすりと笑う。まだ、震えた声だけれど。
「だから魔王様も――ね、生きて下さい。独りじゃないって、知ってる、でしょう?」
後ろで背中を預けていた少女が、振り向いた。
私は緩慢な動作で、頷く。
――私は、独りじゃない。
もう知っていると、安心させるように。
「貴方が思い出すのは私でも、貴方を支えるのは、消え逝く私じゃない。もっともっと、近いもの……もう、気付いているはず、だから」
誰より好きだった、綺麗なソプラノ。
段々消えていくのが感じられてもなお、私は振り向かなかった。
「……どうか、生きて下さい……私の愛した人」
そしてそれは、ぷつりと途切れた。
◇
優しい微睡の果てに、哀しい世界を視た。
だけどきっと、それ故に、幸せなんだろう。
きっと、そう。
私は幸せだった。
今もずっと、これからもきっと――。
だから私は、この世界でまだ生きよう。
誰かの涙を、この手でそっと拭いたいから。