第35話 新しい物語
重い瞼を持ち上げれば、そこはいつもの光景だった。
青や水色といった爽やかな色に囲まれた、その部屋。
差し込む陽射しは眩しくなく、かといって暗過ぎるわけでもなく。
勿論、以前の記憶より、物の位置が変わったりしているわけはない。減ったり増えたりせず、多くも少なくもない家具たち。
まるでいつもと同じように、一人で使うには少し広い部屋。
いつの間にか当たり前と思っていた光景が、そこに広がっていた。
「……あ……」
当たり前、ただ、当たり前のことなのに。
何故だろう、目頭が熱くなる。
一筋の雫が頬を伝う頃には、その理由も理解した。
……ねえ、僕はまだ、ここに存在していたんだね。
―――存在して、いいんだね……。
思い込みでも、ここでまた目覚められたこと。
幸せなんだと、そう知る。
きっと、当たり前だと思えることが幸せなんだ。
涙を拭けば、幸せの形がよりよく見えるようで。
「――あ、勇者さん? お早うございます、もう9時ですよ」
またまたノックなしにっていうか人の寝込みに不法侵入してたこの人も、いつもと同じで、当たり前の一部で……。
……だからって、勿論許せはしないけど。
不法侵入なんか平気でかましやがる人を許せるわけないけど、さ、それでも……。
「――ヘルグ、さん」
え、と彼は小さく零す。
そりゃあ、そうだろうけど。
だって、僕がその名前を呼んだことなんて、ほとんど、下手したら一回もないはずだ。
なのに、そう……普段呼び慣れない名前なのに、今は何故かとても馴染みあるものに聞こえた。
「……あの……? えと、勇者、さん?」
「ヘルグさん、……ヘルグさんヘルグさんっ」
涙がどんどん零れていって、止まらない。
どうして……なんて聞かないで。僕はきっと困ってしまうから。
その名前が呪文のように、僕の涙を誘う。
その響きに何かの魔力でもあると思わせるかのように。
「あの、熱でも……?」
「熱、は、な……いです……けどっ……ぅ……うっ」
「あ、あの!? な、泣かないで下さいっ」
悲しいわけじゃない。悲しい涙じゃないんだ。
理由も分からない涙を止める気すら、もう起こらなかった。
ただ流れるままに、涙を流すことにする。
彼は、困るかもしれないけど。勝手に困ってしまえ、それはいつもと同じ僕の思い。
――そうだよ、この人は、勝手で無茶苦茶で変でヘタレで黒くて。最低と罵ってもいいほど、嫌な人だって思うこともある。
無茶苦茶な運命に僕を誘ったのも実際彼だけど、でも……。
でも……孤独を感じる時は、いつもそばにいてくれた。手を差し伸べてくれた。
彼がいなければ……きっと僕は今、ここにはいられなかっただろう。
いつも、いつも……知らないうちに、僕は彼に助けられていた。
「あ、りがとう……ござい、ます」
ぽつりと、口から零れる震えた言葉。
僕が何故お礼を言ったのか――彼には伝わっただろうか。
伝わらなくてもいい。
ただ、その言葉と思いが届けば。
「……勇者、さん」
ため息が混じった声で、彼は呟く。
それは安堵? それとも呆れか。
「――貴女は、自分が要らないものだと……考えたことがありますか?」
「……え……?」
唐突な話題に、僕は涙が零れるのも気にせず顔を上げる。
そこにあったとても優しい微笑みに、僕は何だか恥ずかしくてまた俯いた。
「私は、いつもそう思っていました。“混血”として生まれた自分が悪いのだと、自分を責めることしか知らなくて」
優しい、それでいてどこか悲愴な声。
――そうだな、僕も何度か、そう思ったことがある。自分は要らないのだと、きっと誰もが一度は抱くような感情。
でも――彼は、それを絶えず抱いてきたのだろう。
“混血”という、その生まれのせいで。
「でも、そんな私でも、……その闇から、救われる言葉があるんです」
「こと、ば?」
「はい。……貴女が言ってくれた言葉ですよ。そう、魔王様も言ってくれました……『生きていてくれて、ありがとう』と」
そうっと顔を上げれば、いつも通りの微笑みを浮かべた人がいる。
きっとその言葉に救われて、彼は今生きているのだろう。
そう思うと、何だか、悲しくて、嬉しくて。
僕の視線に目を合わせ、彼は笑った。
「だから……私も、貴女に伝えたい言葉があるんです」
そこで一呼吸置いて、もう一度口を開く。
「――ここにいてくれて、ありがとうございます」
――また、涙が溢れた。
ここにいていいと、それは思い込みなんかじゃなくて。
過去は忘れられなくても――ここで、生きていいと。
彼はそう言ってくれたのだから。
――嬉しくて、熱いものがじわりと広がって。
生きている実感とは、こういうものなのだろうか。
ここにきてよかったと……そう、思わせるような。
ここで、生きたい。
僕は、二人のいた過去に戻るより、何を望むよりも、強く、そう願った。
「……ヘタレ、さんっ」
「え、ちょっと……あの、呼び方戻ってます」
「知りませんっ! ヘタレさんなんてヘタレで十分ですっ」
最低で、最悪で、ヘタレで。
――ひとりで悲しまさせてくれない、残酷なほど優しい人。
だから、……そんなひと、そんなひと。
「――そうですね、その方があなたらしいですよ」
そうやって微笑うから、……また、涙は止まらない。
何で――みんな、そうやって僕に優しいの。
ずるい、ずるいよ――だって、そんなの。
僕はまた、ここから離れられなくなる。
『おいで、おいでよレイ君。君の居場所は、こっちだよ』
――ごめんね、キナ。
僕は、まだ君たちのところへは行けない。
いや……もう、行けないんだ。
僕は、新しい幸せを見つけてしまったみたいだから。
『――そう? 怖くない? 怖い、でしょう?』
怖くても、……大丈夫だよ。
キナは心配症なんだよね。
『そんなこと、ないけど……。レイ君……傷付いたり、しない?』
ううん、傷付いたって――大丈夫だよ。
転んだって、手を差し伸べてくれる人がいるんだ。
キナ、君はやっぱり心配性だ。
でも、心配しないで。大丈夫、大丈夫だよ。
『そっか、レイ君、そんなに優しい笑顔で……。本当に信頼できる人ができたんだね』
みんな、みんな信じてる。
キナやアレスのことも勿論信じてるけど、同じくらい信じられる人たちなんだ。
優しくて、楽しくて、大好きな人たちだから。
『そう……そう、だよね。私がいつまでも君を、縛るわけにはいかないもんね……』
ごめんね。
ごめんね、キナ。
『ううん。いいの……。じゃあ、レイ君――』
キナは笑う。
その大きな灰色の瞳に、涙を溜めて。
ごめんね、ごめんね。
僕も笑う。
空のような蒼じゃなくて。宝石のような赤の瞳に、涙をのせて。
『たくさん、その幸せを抱きしめて生きてね……』
絶対だよ、そう言って。
約束、しよう。
『ゆーびきーりげーんまーん、嘘ついたら針千本飲ーますっ』
昔何度もやった、約束の証。
幼くない今は、今度こそ絶対に破らないと誓う。
涙を流しながら誓う約束は、きっと僕とキナとの最後の会話になるだろう。
そして――僕らは、別れた。
『バイバイ、レイ君……』
大きな瞳から零れた透明な雫が、僕の手の平に落ちる。
二度と会えないかもしれない。
二度と想うこともないかもしれない。
それでも、もう後悔はしないんだ。
世界に、さあっと水色の風が吹いた。
優しく煌めく強い流れで、新しい物語を始めるため。
勇者は、仲間の夢を見ると途端に弱くなってしまいます。
自分が彼等を裏切ったようで、自分の存在が不安定になってしまう気がして。
それが彼の弱点なのです。
でも、それを乗り越えて、生きていけたらいいなぁ……なんて。
そう思って書いていました^^