第26話 魔物の王と悲しき命運
虎次を腕に抱えて、仄暗い森の中を歩いていく。
――庭の奥は、相変わらず静かだ。
太陽の光が降り注ぐ、誰かが時を止めてしまった世界で。
「紫雲、やっほー」
“守られた”空間の中で、ただ安らかに眠る魔獣に声を掛ける。
紫雲は僕の声に反応したのか、ピクリと動いて顔をこっちに向けた。
が、特に何をするわけでもなく、それだけ。
「ねえ、紫雲。元気? ここは、退屈じゃない?」
尋ねても、答えは返ってこないけれど。
僕は虎次を抱えたまま、紫雲の隣にひょいと座った。
「……寂しくない?」
僕の言葉に、紫雲はまたピクリと動く。
きっとこの魔獣は、人語を理解することはできるんだろう。
それに答える術を持たないだけで。
だって……紫雲は、きっと、解ってる。僕が言いたいことなんて、全部。
――僕はそっと紫雲の頭を撫でた。
すると、紫雲は気持ちよさそうに小さく、身じろぎをした。
その動作は、のんびりしたもので、けれど伸びやかで。
ふと、腕の中で虎次が暴れる。
虎次も撫でてほしいのかと思い、紫雲と同じように撫でてやれば虎次は満足そうに丸まった。
「――いつも……魔王様は、来てくれるのかな」
その呟きに、紫雲が頷いてくれた……ように見えた。
そうだよね。魔王様って、自室かここにしかいないはずだし。紫雲を長く独りにするなんて、そんなこともないだろうし。
たまにそこら辺にいるけど、他の人来たら逃げていくもんなあ。
騒ぐのとかも苦手なみたいだから。
でも、コメットって騒ぐの好きみたいだよね。友達だって、いっぱいいたし。
魔王様とコメットって、仲がよかったのかな……?
「――コメット」
「うぁっ!? ま、魔王様……!?」
突然呼ばれた名前に顔を上げると、そこには魔王様が立っていた。
考えごとをしていて、全然気付かなかった……。
例によって、魔王様の格好は青いパーカーとジーンズ。何か、……妙に似合ってるし。
「な、何故ここに……」
「……いたら悪いか」
「い、いえ、そんなことはっ」
心なしか不機嫌そうな魔王様。
僕は焦って首を振る。
「お前の気配を感じたから、来た」
ぼ、僕の気配って。
そんなに分かりやすいかなあと首を傾げる。
でも魔王様はそういう気配を読むのとかは得意なのかも。
魔王様だからね。魔王様だから。
「でも魔王様、前は……」
昼間は、と続けようとして、僕の言葉は魔王様に遮られた。
「太陽の光は確かに、眩しすぎる。どこかでその光を嫌っているけれど、……それでも、私はそれに憧れているから」
魔王様は眩しそうに太陽を見上げる。
僕も同じように太陽を見上げた。
勿論、あんな眩しいものをずっと、目を開けて見ていられるわけはないけれど。
それでもその光を、じっと見上げて。焦がれるように。
「――そうだ、コメット。ヘルグから、サタンの話は聞いたか?」
「え? え、あ……き、聞きました……」
突然何の話だろうと思いつつも、僕は頷く。
すると、魔王様は少しだけ――本当にごく僅かな変化だけれど――悲しそうな顔をした。
「……そうか……。……サタンは、地底国の王だ。地上を支配しようとしている」
「はい、……そう聞きました」
「魔王と勇者という駒を使っているんだ。私たちは、踊らされているに過ぎない」
そう、僕たちは踊らされた駒。
それを知らずに、僕は魔王に挑んで。そして、――事実上は、死んだ。
――もし相打ちになっていたら、今地上は支配されていたのかと思う。ぞっとする。
「希望を失った人々は、混乱に陥る。そこを狙い、地底国の魔物たちにこの城や人間たちを襲わせる気だろう」
「そんな……」
「地底に閉じ込められた王は、地上に生きる私たちに嫉妬や羨望を抱いていたからな……その感情は、いつしか殺意に変わっていた」
何て、……何て悲しいこと。
地上に光に憧れ、奪おうと必死になる哀れな地底の王。
じゃあ、魔王と勇者は何のために戦っているの?
僕が信じた“正しいこと”は、人々を破滅に導こうとしていたのか。
それなら一体、本当に哀れなのは誰だろう?
「人間たちを襲っている魔物も、地底国の魔物たちだ。魔王城の魔物じゃない。――だからといって、責任逃れをする気はないが。それを制御できなかったのは私だ」
「え、あの、そんな……」
「そもそも、人間たちはそれを知らないだろう。だから、罰を受けるのは私で間違っていない」
「そ、そんなことないです……っ!」
「勇者と魔王の戦う意味は、それで十分だ。罪のない勇者を殺すのは辛いけれど、それも私の責任だから」
もう、何も言えなかった。
魔王様が、あまりにも悲しげな表情をするから。悲しい表情で、そんなことを、そんな平淡な声で言うから。
呼吸することでさえ、もう辛くて。
僕は泣きそう、だったのかもしれない。涙は零れなかったけれど、そう錯覚してしまうほどに。
それを感じ取ったのか。魔王様は、小さく微笑んだ。
「――別に……私は、お前にそんな顔をさせたかったわけじゃない。お前にはそれを知っていて欲しかった。それだけだ」
「……え……?」
意味深な言葉に、僕ははっと顔を上げる。
そういえば、さっきからそうだ。
魔王様は、僕が“コメットじゃない”のを知っているような口調で。
僕が勇者であると、知ったような口調で……。
――いや……、そんなの、気のせいだよね?
思いながら、魔王様を見上げれば。
魔王様は淡い微笑を浮かべたまま、言葉を続ける。
「それに……、私が少し力を入れれば、サタンを潰すことだってできるんだ」
「え? じゃあ、何故……」
「サタンを潰せば、王を失った地底国の魔物は暴走するだろう。私の力だけではそれを制御することはできない。……それに、サタンは――」
そう言った瞬間だけ、魔王様はふっと無表情に戻った。
「――サタンは、私の弟なんだ」
紫雲は高らかに吠えた。否、鳴いた。
悲しげに、そう――きっと、意味もなく。
悲しみを祝福する言葉。
そう、錯覚してしまうほどに悲しい音色で。
「……おとう、と……?」
それは、魔王様の苦しみを裏付けるような言葉。
彼は、一人でずっと悩んでいたのかもしれない。
世界を命運を握る選択に、たった独りで。