第145話 決別
話の都合上、前話と重複している部分があります。悪しからず。
困ったな、とひとり呟いたのは、我が主だった。
視線の先は窓。……いや、正確に言うならば窓ガラスの向こう側――叩きつけるように降り注ぐ大粒の雨だ。
「今夜は荒れるかもしれないな」
「本当ですね。全く、今朝まではあんなに晴れていたというのに」
おそらく独り言。それでも無理やりに会話をつなげ、その背中に覆いかぶさった。
執務中だからだろう、少し嫌な顔をされてしまったが、まあ気にすることもない。
「ヘルグ、重い」
……実際に口に出されたとしても、まあめげるようなことでもないのだ。
「ひどいですね。せっかく様子を見に来て差し上げたというのに」
あまりにもむすりとした声だったので笑いながら言うと、ますます嫌そうな顔をされる。さらには肩まで竦められた。
「いらない。別にもう倒れたりしない……」
「さて、本当にそうでしょうかねえ? 魔王様は無意識のうちに我慢をしてしまうところがありますからね。ほら、コメットさんからも差し入れが来てます、にんじんスティック」
「……それ、なおさらいらない……」
魔王様は本気で嫌そうな顔をする。本当に嫌いなんですねえ……。食べさせてあげたいくらいだ、もちろん余計嫌がられるだろうけれど。
「魔王様、ひどいですね。コメットさんの愛がたっぷりこもってるんですよ? 羨ましいです。かなり羨ましいです。ほんっとうに羨ましいです」
「ならヘルグがもらえばいい」
「魔王様、最近切り返し方が上手くなってきましたね」
ちょっぴりおかしくて、私は率直な感想を口にする。ちょっとからかっただけで困り果てていた昔とは大違いだ。それも彼女のおかげだろうか――思うと、笑みが込み上げてきた。
彼女が来てから。あれからというもの、魔王様は人とふれあう機会が多くなった。接することを拒まなくなった。本当だ。たしかに元来優しく民思いな性格ではあるが、それでも人と進んで関わろうとはしなかったのだ。関わりを持ったのは私や他の重臣たち、それに婚約者であるコメットだけ。――それだというのに。
そんなことを考えていると、何を思ったのか、魔王様は盛大なため息をこぼした。……どうにもわざとらしい。自然と笑みが深くなる。
「まあまあ、復帰したばかりですし、息抜きをしながらゆっくり行きましょうよ? 何だかディーゼル君も最近は私の仕事を手伝ってくれますし、雇用も無事決定しそうです」
「……ディーゼルが?」
「ええ。彼はなかなかの才能があると思いますよ、意欲もありますし」
それを聞いた魔王様は素直に目を丸くする。私としても意外なことだった。……まさかあのディーゼル君が。まあ、有難いことには違いないのだけれど。
これで――少しは、動きやすくなるだろう。
「それに、あの案が採用された以上、早く事を進めなければいけませんからね」
「……なら、早く私を解放して欲しいんだが。仕事が遅れる」
「それとこれとは別です。魔王様には十分な休養を取っていただきたいですから」
あっさり否定すると、魔王様は半眼で睨んできた。……何ですかそれ、可愛いだけなんですが。
「……それにしても」
まるで私の視線を避けるようにして書類を捲り、魔王様はまたため息をついた。おそらく意味はないのだろう、ため息が癖のようになっている。
「私を討伐したことにする……、か」
「随分思い切った案ですよねえ。勿論、そんなことに腹を立てるような我が主ではないと思いましたが?」
「当たり前だ。私情を挟まず、良案に耳を傾けるのが私の仕事だろう」
「真面目ですね。私は魔王様のそんなところが好きですよ」
割と真面目に言っているのに、魔王様はただため息ひとつで流した。
……いや、まあ、それでこそ魔王様ですけどね? 不満なんてないですが。大体、彼はもう心に決めた人がいるのだから。
「……早く、決着を着けるべきだな」
彼も、同じことを思ったのか。
目を上げてそんなことを言う。――それは。
思わず小さな笑みを浮かべて、私はその言葉を口にした。
「……無理は、なさらないでくださいね。こうなった以上、止めることはできませんが」
「分かってる。……私にだって、譲れないものくらいある」
「その譲れないもののために、命を投げ出したりしないでください」
私の言葉に、魔王様はびくりと肩を跳ねさせた。
――やはり、図星だった。
分かっている。……彼は元来、そういう性格なのだ。多のために己を捨てる。捨てることができる、と言うべきか。
しかし……分かっているからといって許容できるかといえば、それはまた別の話だ。
私にとっては、彼も大切な人なのだ。
失うなんて考えられない。耐えられるはずが、ない。
「……巻き込みたく、ないんだ」
雨に呑まれるほどの小さな声で、彼は呟いた。
巻き込みたくない。
……それは誰を、か。分かり切った話だ。
「私情を挟むべきじゃない。王としての決断を下すべきだと思う。だけど……」
分かっている。
分かっていますが、我が主。だからといって――
だからといって。
「貴方は、何も分かっていない」
一人歯軋りして呟いた。……そのせいか、それとも雨音があまりにうるさいせいか。
魔王様が最後に呟いた言葉が何だったのか、私には、聞こえなかった。
◇
「分かんねえなあ。そんなに好きなら、何でこんなことするんだよ?」
激しくなった雷雨の声を背中に、せせら笑うように青年は唇の端を吊り上げる。
「うるさいですね。貴方は私のことに口出ししない、そういう条件でしょう?」
「おっと、悪かったな。別にてめえのやることを邪魔しようってんじゃねーよ、側近さん。ただな……そんなに魔王サマのことを好きなあんたが、何でこんなことをしようと思ったのかが少し納得いかなくてな」
「…………」
彼から視線を逸らし、辺りをぐるりと見回す。他の部屋と間取りの変わらない、城の一室。
何のことはない。ここは『彼に与えられた』部屋だった。魔王様が手配したものではない。私が勝手に用意し、与えたものだ。最近復帰したばかりで忙しい魔王様は気付いていないだろう。
内装はごく質素なもので、いまいち生活感には欠けている。目に付く家具といえば寝台と簡易テーブル、背もたれのない小さな椅子だけ。寝られればそれでいい――彼にこの部屋を与えた時、たしかそんなことを言っていた。そのせいか部屋の広さばかりが目立って、その風景を余計に寂しいものにさせている。
大きなため息を落とせば、ひとつ。またひとつ、解消されることのない黒い感情が胸を食い破る。
「……大切だからこそ、です。彼はあまりに自己犠牲に傾斜しすぎている。自分か他人かで問われたならば、必ず他人を取ってしまうでしょう……たとえその結果、多くの災を招くことになったとしても」
「ま、そういう性格だからな。自分がどれだけの命を背負ってるか知らねーんだろ。弟が弟なら兄も兄だ、兄弟そろって未来が見えてねえんだよ」
「……サタンなんかと一緒にしないでください」
じろりと睨めば、青年は小さく肩を竦めた。……違う。あんな奴とは違う、ただ、やさしすぎるだけなのだ。彼は。
でも、だからこそ、危うい。
「なあ、側近さん、もう一度聞くぜ。いいのか?」
「……しつこいですね」
「後でこんなつもりじゃなかったなんて言われても困るからな。――あいつは、てめえのことを信頼してる。その信頼を、側近であるてめえが裏切っていいのか? それこそあいつがどうなっても知らねえぞ?」
「……それは」
それは。
目を閉じて、息を吐き出す。
一番迷ったことだった。長い間、ずっと迷っていた。
この鎖を解けば、私と彼をつなぐ絆ごと切れてしまうかもしれない――それどころか、彼を奈落へ落としてしまうことになるかも分からない。彼は、それほどまでに脆く危うい人だ。守ろうとした手で、壊してしまうことになるのかも――。
それでも。
「……貴方は、余計なことは言わなくていいんです。貴方を解放したのはそんな戯れ言を聞きたかったからじゃありません――その力が、必要なんです」
「俺の力が必要、ねえ。……まあ、仲良くしようぜ? 側近さんよ」
「貴方のような低俗な輩と馴れ合うつもりはありませんが、この際致し方ありません。これは『契約』です」
――そうだ。彼を救うためなら何だってする。あるかどうかも分からないか細い絆など、いっそこの手で断ち切ってもいい。
欲しいのは己の身の安泰などではない。この身を突き動かすのはただ一つ、ずっと抱いてきた彼への恩義だけだ。彼に拾ってもらったあの日から、この命は彼のために使うと決めているのだから。
そのためならば、悪魔との契約であろうと喜んで受け入れよう。彼の意に沿えなくてもかまわない。大切なのは彼の命を聞くことではなく、彼を生かすことだ。
「……やれやれ。あんたもよっぽど死にたがりだな」
「何とでも言ってください。私の望みはただ一つだけです」
「どうやら未来が見えてないのは、王さまだけじゃないみてーだ」
何とでも言えばいい。彼が何を言おうと、今さらこの意志は変わらない。
国など、世界など。そんなものはどうでもよかった。どんな高い地位に上り詰めようと、その価値は塵に等しいままだ。
この世で意味のあるものなど、たったひとつだけ。
「いいですか、デュレイ=ミース。これは『契約』ですから、私は貴方の力を借りるし、同様に貴方の目的には私が力を貸しましょう。――ですが」
「…………」
「ですが、貴方がもし『契約』を破って私のことを邪魔すると言うならば、その時は容赦しません。貴方とは友だちごっこなどするつもりもない。大切なのは、目的を達成することです」
言い終えて、ゆっくりと目を開けた。
雷雲が立ち込める窓を背に、うす暗い部屋の中、ひとりの男が腕を組んで立っている。
燃え盛る炎のように真っ赤な髪と、挑発的に光る鳶色の瞳。彼は異常に尖った犬歯を見せつけるかのごとく唇を吊り上げると、
「たりめーだろ。何のために『契約』したと思ってるんだよ? 仲良くしようぜ、同志さんよ」
――そう言って、笑った。
「……貴方に同志などとは呼ばれたくないですね」
「そう言うなよ。同じだろ? 俺もあんたも」
かすかに眉をひそめる。――知っている。知っているのだ、それがどういう意味で使われているのかは。それは軽々しく放たれた科白ではない。
しかし。
「俺もあんたも、二つの種族の血を分けた《嫌われ者》だろうが」
茶褐色に近かった瞳が一瞬、雷のせいかきらりと赤くきらめいた気がした。
《嫌われ者》。彼は、そんなふうに表現するが。
「……ですから、貴方と一緒にしないでください」
「たしかに、俺のは大分薄いけどな。……それでも変わんねえよ、どうせこの身体には同じ血が流れてる。どうせ分別は同じだ」
おどけてみせる彼は、腹の底で一体何を考えていたのか。――同志。
同じ呪いのもとに生まれて、育ち、出会って……皮肉なものだ。交わらないようにと足掻いてきたつもりが、まさかみずから進んで運命をともにすることになるとは。
見据えた相手に覚えるのは、ある種の同属嫌悪。同情なんて生温い感情ではない、そんなものはうざったいだけだと知っているから。
――だからこそ、お互い虚勢を張り合うのだ。睨み合えば、自然に上がる口角。狂気の沙汰だとは分かっているが。
「うるさいと言っているんです。あまり喚くと殺しますよ」
「はっ、やってみろよ。前は俺に歯も立たなかったくせによ」
同属にしか理解できない苦痛を、わざわざ言葉にする必要はなかった。
いっそ殺し合おうか、とすら思う。その刹那、ここに生きていることを感じられるなら。
言い知れぬ悲しみ。胸の中で渦巻く感情は、理性を巻き込んで、溶けていく。
「今の私は違います。……負けられない理由がありますから」
「それは俺も同じだ。譲れねーんだよ」
それは理由か、口実か。……今となっては分からない。おそらくお互いにとってそうなのだろう。
ただ、戦う理由が欲しかった。牙が欲しかった。昔つけられたこの傷を、誰かを傷付けることによって何か別のものに昇華したかったのだ。
――混血。
それを神の名のもとに罰するというならば、語られる神など所詮偶像でしかない。
この世界には生きている者しかいないのに。死んだ者に口などありはしないのに。二度と、戻ることはないというのに。
「××××××××××」
――ああ、申し訳ありません、魔王様。
私は貴方と決別してでも、守りたい物があるんです。
『ヘタレさん!』
……気のせいだろうか。
世界が歪んでいく刹那、どこからか愛しい少女の声が聞こえた気がした。