第137話 王子様は厭わない
(――もう、いいよ)
冷たい細腕が、後ろから巻き付く。
(もういいよ。もういいの)
ソプラノトーンの声が震えている。
いつもやさしい声音が初めて、計り知れないほどの怯えを湛えていた。
(もう、いいんだよ)
水面に波紋を投げ込むように。
汚れを知らない綺麗な白い腕が、必死にしがみついてくる。
(どうか、傷付かないで)
囁いて。
(――どうか、傷付けないで)
囁いては、震える。
(大丈夫。誰も、貴方を傷付けたりしない)
――ああ。
今さら気付いた。その声に混じっているのは、怯えなんかじゃないと。
(怖くなんかない。大丈夫。前を見ることを恐れないで)
怯えていたのは私の方か。……彼女が湛えていたのは、深い悲しみ。
(振り返らなくていい。失ったものはもう、十分に弔ったでしょう。――私を思い出すことも、しなくていい)
ふいに、振り返りたい衝動に駆られる。
――それさえ許されないのか。壊れそうなこの世界は。
(どうか、恐れないで。貴方はこれ以上何も失わなくていい)
ならば、せめてその細腕を振り切らせて。しがみついてくるその腕から逃げるように、振り払わせて欲しい。
(もう……、いいの。いいんだよ、――魔王様)
――どちらもままならないことを知って、私は、目を閉じる。
「コメット……私のしていることは、間違っているだろうか?」
微かにこすれる音。
(ううん。違うの、違うんだよ)
首を振ったのだ、と、言われて気付いた。
(間違いかどうかなんて、私には分からないけど。だけど、貴方は貴方の行こうとする道を疑うことはない。……貴方はいつも正しい答えを知っている、それだけが真実)
次いで、抱きしめたい衝動。
……分かってる。振り返れば消えてしまう。世界も、虚像も、何もかもが。
(――だから、私のことは、忘れて)
無理だと知っていて、彼女も多分言っている。
そんなことができるなら、私はとうに忘れているだろう。
お前のことを忘れる時は、この世界が壊れる時だと思うよ――コメット。
(振り返らないで。もう。神なんかに負けないで、もう……貴方は、答えを知っているはず)
最後に、ぎゅっと、抱きしめて。
(もういいよ。――愛してた。だから、今度は、貴方が解放される番――)
この無力な両手が、救われないことを知って、彼女の魂は光の世界へ回帰する。
◇
何が起きているのか、俄かには信じ難かった。
俺だって、年一度開催される闘技大会では、屈指の実力を誇っていた。
自慢になるけど、どんな歴戦の戦士にだって力じゃ一度も負けたことがない。
――代わりに妹のような魔法の才覚は一度たりとも目覚めたことがないけれど、力だけなら国一番と言っても過言ではないはずだ。
そんな俺の自信と自惚れをまるごと引っ繰り返すような、そんな世界。
《魔王》は噂に聞いていたより、遥かに恐ろしかった。
「――っ」
「……お、い……お前、まだ、そんなところで腰抜かしてんのかよ……ちょっとは離れたらどうだ。今なら上手くいくかもしれんぞ」
宙に吊られた魔族の男――魔族のくせに、魔王に逆らって吊るされている――が、苦しそうに笑う。
あの状態でまだ笑えるなんて、……化け物か。
たしかに額に玉のような汗は浮かんでいるけれど、それでもまだしゃべれるらしい。俺もさっき吊るされたけれど、頭の中身がどんどん抜けていくようだった。それを考えると、十分余裕がある方だ。
「ま、そっちは行き止まりだからな……逃げるとなったら魔王サマの横をすり抜けなきゃなんねーが」
そんな軽口を叩いていて、大丈夫なのか。
ふと一瞬でも気を抜けば、頚椎さえ折られそうな状況なのに。
「……あ……な、んで」
「あん……?」
「……なんで、今度は、……魔王の、婚約者が」
視線を遠くへ飛ばす。魔王と対峙している、まだ若い女の子。――俺に、魔王の婚約者だと名乗っていた。
あの子も、あんたと同じような反逆者だったわけ……?
聞くと、男は、小さく笑った。
「あいつを、俺と一緒に、するんじゃねえよ。……俺は根っからの悪人だが、コメットは、根っからの、偽善者だぜ」
……この男、あの子に惚れてたって、言ってなかったっけ。
俺は思わずぽかんと口を開けて固まる。
偽善者、って。
俺の覚え間違いじゃなきゃ、偽善者っていうのは褒め言葉じゃなくなかったか。
悪人も褒め言葉ではないが、この男はそれを誇りのように思っている気がする。
対して偽善者という言葉には、聞き間違いようもない悪意が込められていた。
「……どういうこと」
「さあ、な。……コメットの考えることなんて、俺が知るかよ」
……惚れたっていうのは、聞き間違いだったか。それこそ。
けれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。
あの子が反逆者じゃないって言うなら、何で、魔王を倒すとか言い出すわけ……?
意味が分からない。魔族の考えることっていうのは、こんなことばっかりなのか。
彼女と対峙している魔王も、どうやら応戦する態勢みたいだし。……ていうか、もう既に何発か魔法を放っている。
「ミーシャ……ミーシャ」
ああ、俺の可愛い妹は、無事だろうか。
それだけが気がかりだ。
この際、もう俺の身はどうなったって構わない。どうせ王城ごもりなんて楽しい暮らしではない。魔王の首を獲れずに国へのこのこ帰ったら、一体どんな冷遇を受けることか。外出禁止という命で部屋に監禁されたっておかしくはない。そんな暮らしは、絶対にごめんだ。
……だけど。
ミーシャ、ミーシャ、可愛いミーシャ。ただ一人の妹。
王の座に就くことばかり考える兄たちとは違う。天真爛漫で明るい笑顔を俺に向けてくれる、愛おしい妹。
彼女だけは、どうか、無事でいて。
その笑顔を永遠に失わないように、お願い、魔王の首を獲ろうだなんて唆したのは俺の方なんだから――。
「――おい、勇者さんよ」
ふいに、男の声が調子を取り戻す。
さっきまでの、喉から空気が漏れてくるような音はない。俺の手をつかんで逃げていた時と同じ声音。
「……なに?」
「その、てめえの、……妹だったか。助けたいか?」
――助けたいか。
そりゃあそうだ。当たり前。男は信用できる相手じゃないけれど、俺は反射的に大きく頷いていた。
「助けて、くれるの?」
「俺が助けるわけじゃねえぞ。むしろ人間なんて殺したいくらいだ」
冗談には聞こえなかったけれど、何故だか。
彼の声音には、自嘲と苦笑を織り交ぜたような色が混ざっていた。
「もう遅いかもしれねえけどよ、頼んでみろよ。もしかしたら届くかもしれないぜ」
「……魔王に?」
「まっさか」
吊り上げられたまま、男は笑う。
「お前の言うその俺と同類の反逆者に、――だよ。偽善者だからな」
皮肉られた言葉。俺は言い返しもせず、少女の方を見る。
魔王の魔法を二人がかりで防ぎながら、時折何かを叫んでいる。呪詛の言葉か、それとも。
「……言ったら、助けてくれるわけ?」
「さあな」
言って男は鼻を鳴らした。
「それは俺の知ったことじゃない。ただ、お前がどうしても妹を助けたいのなら、手段を選んでる場合じゃねえんじゃねえのって話だ」
――手段を、選んでる場合じゃ。
それもそうだ。俺は視線を床に落とす。
そんなのを彼に聞いて、何になるんだろうか。……俺は馬鹿だ。
「……ミーシャ」
呪文のように呟いて、俺はふらふらと立ち上がる。
お願い。
俺はどうなったっていい。
だから、どうか、純粋で優しい、ただ一人の俺の妹だけは――
「あのっ――」
「兄上っ!」
魔王の婚約者の少女に向け、俺は嘆願の言葉を口にしようとした。瞬間。
「……ミーシャ?」
廊下の角の向こうから、聞き慣れた愛しい声が聞こえた。
――ああ、こればかりは、聞き間違いようもない。聞き間違いであればいいとは願おうとも。
ミーシャ。ミーシャだ。心臓が激しく高鳴り始める。のたうち回る、といった方がきっと正しいだろう。
何で、何で、何で!
誰を責めたって仕方がない。むしろ俺は俺自身を責めるべきだ。――どうにもならないけれど。
無事に再会できることを喜ぶべきなのか、それとも。……どちらにしろ。
「――」
今までピンク色の頭の男と婚約者の女の子に対して猛攻を行っていた魔王が、奇妙にぴたりと静止する。そして。
奴が向いたのは、勿論、声が聞こえた方。
「駄目だミーシャ! 来るなっ!」
俺が吠えた時には、もう遅かった。
曲がり角から懸念の色を浮かべた愛らしい少女が飛び出してきて、そのまま他の奴など構わず俺の方へと向かってこようとする。
と同時に魔王が左手をミーシャの方へ掲げ、何事かを口の中で呟いた。――詠唱だ。
「やめっ――」
そうして俺は、飛び出した。
俺の身は、どうなったっていい。
たとえ八つ裂きにされたって、それは単に自分の力を過信した結果だ。文句は言えないだろう。
だけど――だけど、せめてあの子だけは!
俺は、どうなったって、いいから!
「兄上っ!?」
「おいっ、馬鹿っ――」
「オリオンさんっ!」
ああ、一体誰が叫んでいるんだか。馬鹿と罵られもした。悲鳴も聞こえた。でも遠い。
ただ――それは、王族に生まれたせいなのか。
オリオンさん。
名前なんて呼ばれたのはいつ以来だろう、とか、そんな全然関係のないことを考えながら。
俺は、魔王が唱えた魔法とミーシャの間に割り込んでいた。
デュレイさん元気そうですね。←
お久しぶりです、ようやく今の生活にも慣れ始めてきました。
しかし思った以上に更新の間が空いてしまいました、長らくお待たせいたしましたm(__)m
パソ吉が復活しない限りはやっぱり更新が遅いです。
細々とでも何とか更新は続けていきたいとは思いますが……うーん。
気長に付き合ってくだされば私としても幸いです、よろしくお願いしますね´`