第136話 悪魔降ろし
「ねーえ、サタン様」
蝋燭の火の向こうにちらちらと揺れる炎が、ふと、二度瞬いた。
惜しげもなくさらした白い脚をソファーに引っ掛け、ルナが沈黙を破る。
「……。……何だ」
執務机からは決して視線を上げることなく御主人様が答える。たしか、彼は数時間その格好のまま動いていないはずだった。さながら置物のように――なんて言ったら、怒られるのは私なのだが。誰よりもこの静寂を好むような人だ。自分の些細な動作でさえ、沈黙を壊したくはなかったのだろう。
「ふと思ったんだけど。何でサタン様の目って紅いの?」
しかしそんなことを分かってか――分かっていたとしたら相当性質が悪いと言わざるを得ない――ルナが朗らかに続ける。
何で? 私は思わず眉をひそめた。多分御主人様も似たような心境だろう。
もう数えるのも億劫になるほどの時間を一緒に過ごしてきて、今さらそんなことを聞くだろうか。大体、ルナの目だって全く同じ色をしているのに。質問の意図が分からない。彼女はさも当たり前という顔で聞いてくるけれど。
「……お前の目も同じ色だろう」
「あは。そうだった」
やはり御主人様も私と同じように考えたらしい。彼が質問とは少しずれた答えを返すと、しかしルナは怯むことなく悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、質問を変えるね。何で魔王様の目はサタン様と同じ紅い色をしていないの?」
――瞬間、御主人様の横顔に緊張が走る。
それから、抑えようもない嫌悪も。
私も思わず肩を震わせていた。
《魔王》――御主人様にとっては、その単語が最も簡単な引き金だ。
その言葉を軽々しく口にできたのは、その億劫になるほどの時間をともにしてきたルナだからに違いない。無謀、というのとは少し違うが。
「……奴は、我が一族の、恥だ」
少しずつ言葉を切り、その一片ずつに嫌悪と軽蔑、憤怒を込めながら御主人様が言う。その拳にも震えが走るほど力が入っていた。
執務に使われていたはずの羽根ペンは無事だが、もし文字をしたためていた途中だったりしたならひとたまりもなかったろう。あるいは、その話題に不穏な空気を感じたから、早々に手放したのか。
「奴は魔王の器ではない。だから生まれつき紅い目を持ってはいない。あるいは、奴が魔王を真に継承した時、紅い目をしていることはあるが……あんなものはまがいものだ」
「――悪魔を降ろしてる時、ってことね」
震える低い声で吐き出す御主人様とは対照的に、ルナは淡々と返す。
悪魔を降ろす。
彼女はそれを、そう呼んだ。《悪魔降ろし》。我々とは、まるで反対に。
我々はそれを、皮肉を込めて《神降ろし》と呼ぶ。
紅い目のあれを、神とするか、悪魔とするか。そんな些細な違いだ。
――しかし、神も悪魔も多分、彼女にしてみれば同義なのだろう。
あるいは、神そのものを悪魔と呼んでいるような節さえある。
「でもねえ、サタン様。悪魔を降ろしてる時は、彼、少し……少しね、サタン様に似てるんだよ」
魔王が。――いや、魔王と呼ぶべきではない、神だか悪魔だか……そんなものが。
それを聞いて御主人様はようやくルナの方へと顔を向けた。苦い顔。それが一番しっくりくるだろう。
「……似ている、か」
「うん。サタン様は嫌かもしれないけど」
ね、とルナは鈴の音のように笑う。
「でも、最近はあんまりしなくなっちゃったね。うーん、側近さんが来てからかなあ? 何となく落ち着いてきたの。お姉様が死んでからは――ううん。あの勇者さんが来てからは、さらに、なくなった」
「――ルナ。お前は何故、そんなことが分かる?」
……なくなった?
御主人様が口に出したのと同じ疑問を、私も同時に抱いていた。
当人は世間話でもするような口調だが、しかし不可解だ。あの側近が来る頃には、ルナは既に地底に来ていたはず。コメットとあの勇者とやらが入れ替わった時には――言わずもがな。遠く離れた地底にいるルナには分かるはずもない。私が神降ろしの回数を含めた偵察の結果を報告したのは、言うまでもなくサタン様のみだ。
「何でって、……あ、そうか、サタン様は感じないのか。悪魔降ろしの時」
「感じる? ――何を」
「あの存在。感じるの。サタン様が分からないなら……、あたしが混血だからかなあ。それだったらあっちの側近さんも感じてるはずだよね。悪魔を降ろしてる時は、いつも、瞼が熱くなるんだ」
言って、ルナは両瞼を閉じてみせた。
なるほど、そういうことか。
混血特有の感覚。瞼が熱くなる。それは、一体どういう感覚なのだろう。
比喩、というわけではあるまい。閉ざされた瞼の上には火傷の痕なんかが残されているわけではないが、それでもルナに嘘をつく理由はないし、混血の娘ならそんな風に感じていてもおかしくはない。
それに、たしか、……何だったか。瞼が熱くなると言うのを、違う場面でも彼女の口から聞いたことがあった。
「どろっとした熱が……瞼の上を、這っていく。そんな感じ。物心ついた時からずっとだから、もうそんなに気にならないけどね。もっとひどい熱を感じる時もあるし」
彼女は微笑んで、瞼の上にそっと人差し指を重ねる。
もっとひどい熱。神降ろしの時よりも、ということだろう。
「あんまりいい感覚じゃないけど、悪魔降ろしの熱はそんなんでもないの。だから今もこうやってしゃべれてるし――」
「今も?」
どこか楽しげにさえ続けられていた言葉が、御主人様によって遮られる。
――今も。
心臓が跳ね上がったような感覚がした。
それは、その熱に耐えながら、ということだろうか。熱に耐えながらしゃべれるくらい。
それなら……それは、つまり。
「今も……奴は神降ろしをしている、ということか?」
私の考えの続きを御主人様が引き取った。
神降ろし。
普段から瞼に熱を感じているらしいルナにとっては、それは、何でもないことなのかもしれない。
しかし、まさかと言いたいほどの純粋な驚きを含んで、御主人様と私は、ルナの紅い双眸を凝視せずにはいられなかった。
奴が、神降ろしをしていると、いうのか。
「うん。来てるよ。勇者を殺すためにね」
けれど驚愕を隠せない私たちをよそに、ルナはどこか楽しげに――街娼のように妖艶に、くすくすと笑った。
◇
これはある意味では僕の運命なのだと言い聞かせたら、納得できそうな気がした。
僕は勇者だ。
僕は勇者だった。
今はたとえコメットでも、――彼女の身体を借り受けていたとしても、それでも僕は完全に彼女になり切ることなんてできない。
分かっていた。分かり切っていたことだ。
僕は今紛れもなくコメット=ルージュという一人の少女で、魔王様の婚約者で、純血の魔族でもあるけれど、だからといって完全にレイ=ラピスという人格を捨て去ることなどできやしないのだ。
――だとしたら、昔の僕すらひっくるめて全部抱えて、生きていくしかないだろう。
それが僕の覚悟に相応しいものなのだとしたら。
「あっ……!」
目まぐるしく過ぎ去っていく景色が、突然引っくり返る。
足が縺れたんだ、と理解した時には、僕は既に冷たい床の上にうつ伏せていた。
「……いた……」
膝に焼き切れるような痛みを覚えた。多分、転んだ拍子に擦りいたんだろう。
泣き言のように漏れる吐息。ぎゅっと唇を噛んで堪える。
そうして僕は震える腕を引き寄せて上半身を起こし、まだまだ長い先の道を見据えた。
勇者だった時とは比べ物にならないくらい体力が落ちているのは、とうに分かっていたつもりだった。
小さい頃からの鍛え方がまず違うだろうし、そもそもこんな華奢な身体に体力を求める方が無駄だというものだろう。それに加え最近の運動不足――、それは明らかに自業自得なのだけれど。
だけど、いざという時になって、ここまで非力だとは考えもしなかった。
……どうやら僕は、ひどく平和ボケしていたらしい。
「……行かなきゃ」
それでも、と、僕はよろめきながらも立ち上がる。
広い魔王城を駆け回り、魔王様とデュレイ、それにオリオンと名乗った勇者の行き先を探す。
談笑を交わす住人がいない城内。こんな静まった中だったらどこにいるかもすぐ分かりそうなものだったが、生憎僕の乱れた呼吸と足音以外に静寂を破るものはなかった。
もしかしたら、もう、決着は着いているのかもしれない。だから何一つ僕の耳には届かないのかもしれない。……考えたくはないけれど。
だけど、それでもあきらめるわけにはいかなかった。
デュレイが僕を頼ってくれたという事実がある限り――それがただ単に厄介払いだったとしても――僕は彼を見捨てるわけにはいかない。
そして、勿論リルちゃんも。……あんなものに奪われて堪るものか。考えてぎゅっと拳を握り込む。爪が手の平に食い込むほど。
無駄な足掻きだとしても、こんな風に終わってしまうのは一番嫌だ。――人違い、で済ませてなるものか。お前がリルちゃんじゃないのなら、今すぐ彼を返せ。たとえリルちゃんが望んで受け入れたのだとしても……それでも。
そんなの、許さない。
ぐ、と唇を噛んだ途端。
「――貴方はまたっ――」
ふいに、廊下の突き当たりで聞き覚えのある声が響いた。――ヘタレさん、だ。
僕は握っていた拳を解き、一瞬速度を緩める。
それは、どこか叱るような、罵るような声音だった。
まさか――魔王様か、誰かが一緒なのかもしれない。一人頷いて、期待を孕み僕は再び地を蹴る。息は切れていたけれど、止まるわけにはいかなかった。
せめて、廊下の向こう側まで。ヘタレさんのところまで……どうか、もっともっと、速く。
「……加速」
痛みに焼けつく喉からは掠れた声が漏れた。けれど、確実に景色の過ぎ去るスピードは増している。
効果時間はたった20秒だけれど、それで十分。
廊下の突き当たりには姿が見えないけれど、多分左右に別れた道のどっちかにいるんだろう。
ぐんぐんと壁が近付き、ヘタレさんの声が聞こえたあたりに手が届きそうになる。
「――貴方の中身は魔王様じゃ――」
再びヘタレさんの声。魔王様!
鼓動が一気にふくれ上がる。魔王様が、いる。ということは、多分デュレイも勇者も。
聞こえてきたのは突き当たりの右。4階の南端の右、ということは行き止まりだ。
デュレイと勇者は、もしかしたら行き止まりに行き着いてしまったのかもしれない。まだ間に合うだろうか。ヘタレさんがいるということは無事だろうと、僕は半ば祈るように信じながら突き当たりに飛び込む。
「ヘタレさんっ!」
「絶対零っ――こ、コメットさんっ!?」
水属性の最上級魔法の詠唱、を途中で半ば悲鳴のように遮り、振り返るヘタレさん。
その向こう側には、相変わらず紅い目をしたリルちゃんの抜け殻が見えた。
――魔王様に、最上級魔法を!?
刺すような痛みと驚きが心臓のすぐ真横を突き抜けていく。が、それもそうだ、魔王様のさらに向こうでデュレイが宙に吊られていた。――魔王様がやったんだ。
デュレイと目が合う。うまく焦点が合っていないが、口元に微かな笑みを浮かべたところを見ると、何とか生きているらしい。……よかった。あんな状況で笑えるところが彼らしいといえば彼らしいのかもしれない。
「コメットさんっ、どうしてこんなところまでっ――」
「ヘタレさん!」
危ない、と叫ぼうとして声が掠れた。
豹変した魔王様は容赦ない。僕を問い質そうとしたのだろうヘタレさんに向けて、何の遠慮もなく炎を放つ。勿論無詠唱で。
「結界っ」
僕はヘタレさんの肩をぐいと引っ張り前に出て、右手を翳す。
いくら魔王様の魔法と言えど、無詠唱なら止められるはず――そう祈るしかなかった。本当はもっと上級の魔法を唱えればよかったんだろうけど、そんな暇はとてもない。炎は既にまっすぐヘタレさんを向いている。
ぎりぎりで薄い光の障壁が展開され、無詠唱で唱えられた火炎とぶつかった。
派手に火花が散り、僕は思わず目をつむる。と、頬に叩きつけるような熱風を感じた。
「――つっ……!」
防ぎ、切れなかった。
障壁と相打てなかった残り火が全身に降る。――まさか、こんな下級魔法さえも防げないなんて。たしかに結界もそんなに高等な術ではないし、ろくに魔力を通わせなかったけれど……それでも相手は無詠唱なのだ。相打ちくらい期待してもいいだろう。
「魔王様ってば……っ! 全く、本当に容赦ないですね……大丈夫ですか、コメットさん」
腕で顔をかばいながら熱を受けていると、ふいに、肩をつかまれ後ろへと引き戻された。
ヘタレさんだ。
驚く暇さえない。確かに、僕は今彼を庇おうと結界を展開したんだけど。
熱風から逃れてその見慣れた横顔を目にした途端、何故か胸にどっと安堵が押し寄せてきた。……まだ、全然、全てが解決したわけじゃないのに。
泣きそうだなんて、――嫌だ、そんな場合じゃない。体力面だけではなく、僕は精神面すらも弱くなってしまったのか。
ただ一人、僕の中の面影と変わらない人に出会っただけで。
「へ、ヘタレさんー……」
「泣きそうな顔をしないで下さい……そういうのは後で。全てが片付いた後に私の部屋のベッドの上でお願いします」
「死ねばかっ」
罵りながらもその声音が弱々しいことは自分で分かっていた。
そうだ、安堵なんてしてる場合じゃない。
潤みそうになった目をごしごしと擦る。まだ、まだだ。リルちゃんが戻ってきていない。彼がいない限り、僕は本当に安堵なんてできないんだから。
「それはそれとして、気を付けて下さいね。あの人、今は無敵と思ってまず間違いないですから」
結界より強い魔法障壁を展開しながら、ヘタレさんが言う。……魔王様のことか。そんなに? 思って魔王様の方を振り返った途端、魔法障壁の側面で電撃が弾けた。ぐにゃりと歪む魔力の壁。
……たしかに、今のあれはとても下級魔法とは思えない。僕は素直に頷く。
「それで、何故貴女までこんなところに。……あの馬鹿に追い返されたものだと思ってたんですが」
「馬鹿って……デュレイさんですか。安心して下さい、もうそれくらいじゃめげません」
むしろ元気づけられたくらいだし、と胸中で付け足す。
いや、たしかに厄介払いはされたのかもしれないけど……。
だけどもうそれくらいじゃめげない。リルちゃんの婚約者は僕だ。僕が来なくて誰が来る?
「私は、“リルちゃん”を取り戻しに来たんです」
僕は少しだけ挑発的にヘタレさんを見上げる。
丸くなる、ヘタレさんの薄色の瞳。
――何に驚いたか、なんて、言うまでもないだろう。
「……リルちゃん、ですか」
口元が弧を描く。ふてぶてしい、と言うのがぴったりだ。
「羨ましいですよね。その呼び方」
「幼き日の過ちもとい弱みです。……あ、ヘタレさんは呼んだら駄目ですよ」
「善処します」
そこで善処しますっておかしいだろ。僕は笑ってヘタレさんの肩を叩く。
けれどそんなコントをやっている場合ではない、障壁の向こう側の魔王様の目は相変わらず真っ赤。早くしなければデュレイも危ない。
手を打たなければ――また覚悟が鈍ってしまえば、どうなるかは分かっている。
「……める、方法……付いたの、かよ」
宙に吊り上げられたままのデュレイの唇が微かに動く。音自体はうまく聞き取れなかったが、それでも言おうとしたことは分かった。
――“止める方法、思い付いたのかよ”。
死にそうな自分の心配などそっちのけなのか、それともさっさと下ろして欲しい一心で聞いたのか。
真意はよく分からない。けれど僕は微笑んで頷いた。
覚悟が鈍る前に、僕はやらなきゃいけないから。
「私が、魔王様を倒します」
明日って一昨日言ったのに明後日になってすみません((((゜д゜;))))
……何だかよく分からないですね←
なかなか予定が詰まっていて(´Д`)
次回更新もいつになるか分かりません。すみません><