鐘の音
「誰に話しても信じてはくれませんが、私にはいつも鐘の音が聞こえるのです。重い、重い、鐘の音です。悲しそうで寂しそうな、鐘の音です。でも、私にしかその音は聞こえません。だから誰もが幻聴だとか、気のせいだとか言うのですね。時には脳を診てもらえとか、耳を診てもらった方が良いとか。でも私は断言できるのです。鐘の音は聞こえます。今でも、そうあなたとこうやって話している今も、ゴーン……ゴーン……と、どこか遠くから聞こえてくるのですよ。
一体どこから聞こえてくるのでしょうね。それが判らないのです。地平線の彼方から聞こえてくるのか、蒼穹から聞こえてくるのか。耳を澄ませても判らない。もしかすると地面から聞こえているのかもしれないし、私の内側に鐘があり、何らかが鳴らしているのかもしれない。いずれにしても判らないことです。ただ、どこからともなく、いつも絶えずに聞こえてくるのです」
青年はカーテンの閉め切られた薄暗い部屋に置かれた、木製の丸椅子に腰かけて、床の染みを見つめながら淡々と話していた。きっと私がここからいなくなっても、彼は独りで話し続ける、そんな気がした。
「ただね、不愉快ではないのです。不思議なことにね。むしろ落ち着くくらいで、人として生まれてくる前の、母胎の中にいる頃。最も安心感に満ちた時間に似ている。当然私には母胎にいた頃の記憶はありませんが、直感的にそう理解できたのです。
それから私はとても落ち着いた心で毎日を過ごせるようになったのです。時の流れは穏やかで、緩やかになりました。忌憚していたものまでも愛しいものに思えるようになった。虫も草木も動物も、生き物でない無機物のあらゆるものすべてに対して、私は愛を持てるようになった。
つまりね、鐘の音は境界を崩してくれたきっかけなのです。壁が何のためにあると思いますか? ただ雨風を凌いだり、身を守ったりするためだけのものではないのです。境界なのですよ。個々を区別し、分裂し、アイデンティティを守るためのものです。壁を超えることは難しい。壁を踏み越えれば、それはもう他者の個であり、自分の領地ではないからです」
興奮気味に、やはり変わらず床の染みに向かって彼は話し続けている。閉め切られたカーテンからは、微かに陽の光洩れている。既に夕刻であり、壁にはカーテンの隙間よって、朱い線が映されている。
「君には、その鐘の音が君にとっての境界を取り除くだけの作用だと感じるのかね」
青年はゆっくり、にこやかな表情で首を横に振った。
「それは違います。鐘の音は確かに私にとっての境界線を取り除いてくれた。ですが、それは副次的なものに過ぎないのです。鐘の音はね、教えてくれているのですよ。もうすぐ、時が来ると、知らせてくれているのです」
「知らせる?」
「そう。きっと聞こえているのは世界中に何人か、もしくは何十人かはいるでしょう。彼らもまた、鐘の音が聞こえているに違いありません。私を含め、彼らは同志であり、同胞だ。普通の人間とは、いくつか内部構造が異なっている。肉体的にも、精神的にも、鐘の音を聞き届け、時が来るのを伝えるべくして選ばれたのです」
「何を知らせると言うんだ?」
「いずれ私たちではない『彼ら』が伝えてくれます。時が来たのだと。逃れられない時代が来たのだと。私たちはかつて迫害されてきた預言者の同類に過ぎません。選択することはできないのです。ただこれから起こりうる事実を遠巻きに伝えることしかできない、そういう契約なのです。ああ、鐘の音が聞こえます。ずっと、ずっと。同胞たちと私の頭の中で。もしくは世界中に轟いて。『彼ら』からの知らせを受け取り続けるのです。これからもしばらく、私たちの耳には鐘の音が聞こえるでしょう」
青年はその言葉を最後に黙り、手を組んで、壁に掛けられた聖人の肖像画に祈りを捧げ始めた。