4.学校
「【点火】、【水雫】、【微風】、【石礫】……。火水風土の基本四魔術をついにマスターしました!」
エリアスは一ヶ月の間、ほとんど部屋にこもりっきりで魔術の練習をしていた。さすがに食事はルーシアと共に摂ったが、それ以外の時間は部屋にこもりっきりで魔術の修行をしていた。その成果がようやく実ったのだ。
【点火】は相変わらずの短時間しか持続できないが、それでも5秒間は安定して炎を出せるようになったし、他の三魔術については完璧に再現できるようになっていた。
ナーニャに、四大元素の基本四魔術だからこれも学びなさい、といわれて試したものの、石つぶてが前方に飛んでいくだけで、何の役に立つかわからなかったが、【石礫】の魔術もちゃんと習得した。
全く未知の技術体系である魔術を学ぶのである。基礎は大事だ。そう思ったエリアスは、一ヶ月間懸命に修行に取り組んだのであった。
「基礎はできるようになりましたが、まだです。まだ検証が足りません。ファンタジーに文句を言うのはデータが整ってからです」
いまや、魔術に対する知識欲の餓鬼と成り果てたエリアスは、すぐにでもナーニャに次のステップの魔術を教えてもらい、次なる修行に入るつもりであった。一刻も早く、魔術の仕組みを理解し、分解し、物理法則として体系づけなければならない。それこそが自分の天命であると、このときのエリアスは本気で信じていた。
「ナーニャ! 基本四魔術をマスターしました!」
「あらエリアス様。ちょうどいい頃合いに出ていらっしゃいましたね。そろそろじゃないかと思っていたのですよ」
「ナーニャ、次の魔術を……」
「このひと月でちょうど準備が整いました。明日から学校に通っていただきます」
「え?」
「ですから、明日から学校に通っていただきます。良かったですね。お友達ができるかもしれませんよ」
「……え?」
◆◇◆◇
翌日、エリアスはナーニャに連れられて街を歩いていた。街に来るのは初めてである。というより、屋敷から出ること自体初めてであった。
屋敷は街から外れた小さな丘の中腹にあり、街まで徒歩で三十分ほどかかった。中心部に続く中央通りは石畳で舗装され時折馬車が行き交っていた。
(ほんとうにRPGみたいだ)
通り沿いの石造りの建物を見上げ、ぼんやり考えながらエリアスは歩く。ナーニャが手を引いてくれていなかったら、今ごろは転ぶか、何かにぶつかるかしていただろう。それ程までに、中世風の町並みに心奪われていた。
(外にこんな街が広がっていたなんて)
今まで屋敷の外に出ようなんて考えたこともなかった。それも仕方ない。エリアスはまだ子供で、外に出るには危なかった。屋敷の中は十分に広かったし、安全だったし、三食昼寝付きだ。それに、魔術という暇つぶしの種も見つけてしまった。居心地が良かった。そして、まだ外に目を向ける余裕もなかった。
(思えば、僕はこの世界のことを何も知らないな)
屋敷から街まで30分といったが、この世界の時間の単位は何だろう。そもそも一日は24時間なのだろうか。一週間、一ヶ月という概念はあるのだろうか。そういえば、こちらの文字も読めない。わからないことだらけだった。
◆◇◆◇
今から向かう『学校』では、主に6歳から9歳の子供が通っている。しかしそれはあくまで目安で、上は12歳くらいの子も在籍している。
両親が仕事や炊事で忙しい昼の間、子供を預かってくれて、ついでに基本的な読み書き算術や、社会常識を教えるという仕組みである。保育園と小学校と一緒にしたようなイメージだろうか。設立当初は互助組合の託児所のような感じだったらしい。それが徐々に初等教育も担うようになって今の形になったのだ。
農家や商家などでは10歳を超えた子供は立派な労働力である。遊ばせておく余裕などない。そのような境遇の子供たちは、遊んでいられるこの時期に読み書き算術を覚えられるかどうかが、一生を左右しかねないのである。
逆に富も暇もある貴族の子弟らも、『学校』に通っている。『学校』の開設当初は、貴族たちは平民の子と一緒に子弟を預けることを、あまりよく思っていなかった。しかし、この制度が始まって数年経ったとき、驚きの事実がわかってきた。学校を卒業する頃、つまり10歳すぎの少年期に入った子供たちの識字率や計算能力が、明らかに『学校』に通った平民の子の方が高いと言うことが判明してきたのだ。貴族は自前で高い金を出して、自分の子に家庭教師を付けていたにも関わらずだ。
この結果に、貴族も面倒になってしまった。貴族といえど、どうせ子供なんて悪ガキだ。貴族としての作法を覚えさせるのは卒業した後で良い。それならいっそ、平民と一緒に放り込んで社会性を学ばせた方がいい。しかも、読み書き計算も勝手に学んでくれるではないか。
このような経緯で、農民から貴族まで、身分に関係なく子供たちが一緒くたに放り込まれる、現在の形の『学校』ができあがったのだ。
ナーニャは、そんな『学校』の概要をエリアスに教えながら歩いていたが、
「だからエリアス様も頑張って読み書きを覚えてくださいね。お友達も作りましょう」
と話を締めくくり、一件の建物の前で立ち止まった。目的地に到着したのだ。
◆◇◆◇
「ではエリアス様、夕方にまた迎えに参ります。先生、坊ちゃんをよろしくお願いします」
ナーニャはエリアスを中年男性の教員に預けると、屋敷に帰っていった。彼女は屋敷の全ての雑務を取り仕切っている。夕方までここで待つ暇はないのだ。
(わかっているけど、ちょっと寂しいかな)
エリアスも、中身は6歳児ではないので、離れたくないと駄々をこねるようなことはないが、6年間ほとんど一緒に暮らしてきたナーニャと離れることに一抹の寂しさを感じていた。
「おや、見知った使用人と別れて寂しいですか?」
「ええ少しだけ」
なので、教員の問いに正直に答えた。
「なに、すぐにここで友達ができますよ。まずは兄と仲良くなるといいでしょう。ええと次の兄は誰でしたっけ」
(ん、何か今不穏な単語が聞こえたような)
「困りましたね。今の年長者はみんな兄弟になってしまっています。弟を二人付けるのは負担が大きすぎる……」
教員は名簿をめくりながら何やら思案している様子だ。
(あ、兄? 兄者? 兄貴? アッー!?)
「この際です。今回は姉を付けることにしましょう。なに、エリアス君は男の子ですがこんなに可愛らしいお子さんです。まだ小さいですし。何とかなるでしょう」
(兄貴回避。よかったー!)
兄という語感だけで忌避感を募らせていたエリアスは、ほっと息をつく。しかし事態はまだ終わっていない。またしても不穏な単語が耳に入ってきた。
(え、今度はスール? ご機嫌よう? とか言ってる場合じゃないな。ていうか何その適当なノリ。ちゃんと考えてよ先生!)
エリアスは必死に目線でアピールしたが、その心の声は教員に届かなかった。名簿をめくる手が止まる。
「エリアス君の姉はアイアリスさんにしましょう。彼女はまだ姉の経験がありませんし、ちょうど良いでしょう」
(イレギュラーな事態に新人投入とか、なんて勇気だよ先生! 感動したよ! できれば僕以外の時にやって欲しかったな!)
なんだかよくわからないうちに姉とやらが決定してしまったようである。
◆◇◆◇
「アイアリスさんならきっと六番教室ですね。エリアス君、いきましょう」
エリアスは、なんだか不穏な事態が進行していそうな雰囲気を感じたが、先ほどのやりとりから察するに、他に選択肢もなく、あれも嫌、これも嫌と言っていても話は進まないのは理解できたので、内心思うところはあれど、特に何も言わずに先生に従った。
「ここは一応教室がわかれていますけど、どこで勉強していても自由なんですよ。アイアリスさんは六番教室がお気に入りのようですけれどね」
歩きながら先生が説明をしてくれる。兄、あるいは姉というのは年長者が年少者の面倒を見る制度であること。近年『学校』の生徒数に対して、教員の数がまったく足りておらず、学業の面から『学校』での生活のサポートまで、教員の代わりに行うのが兄や姉であることを教えてくれた。
(なんだ……。要するにチューターみたいなものかな。いやもっと子弟的な感じを受けるな。どちらにせよ、思ったより大丈夫そうだ)
説明を受けて落ち着きを取り戻したエリアスは、最初から説明してくれたら良かったのに、と聞こえないように文句を言った。取り乱した自分が恥ずかしかった。
「ここが六番教室です。いましたね。アイアリスさん!」
六番教室は中庭に面していて、中庭との間の窓は開け放たれていた。教室内に人はいなかった。あまり人気のある教室ではないようだ。
中庭は約15メートル四方で、中央には大人が5人手を広げても一周できないような立派な幹の広葉樹が、青々とした葉を覆い茂らせていた。
教員は、その大樹の根元に腰掛け、本を読んでいる少女に声をかけたのだった。
少女が顔を上げる。教員の方を一瞬見た後、エリアスの方に顔を向ける。エリアスと少女の視線が交錯する。
天使がそこにいた。
◇◆◇◆