2.魔術
「ナーニャ! 待って! 今の何? 教えて!」
動揺から立ち直ったエリアスは、仕事に戻ろうとしたナーニャを捕まえて頼み込んだ。内面の葛藤はともかく、まずは目の前の不可思議な現象の再現と理解が先だと考えたのだ。
驚いたのはナーニャである。今まで大声で泣くこともなく、ナーニャやルーシアに無理を言って困らせることもなかったエリアスが、意味のわからないことを泣き叫んだと思ったら、初めて我が儘を言ったのだ。今日は仕事は後回しにしてエリアスの相手をしよう。そう思わせるのに十分な異常事態であった。
「エリアス様、先ほどのは魔術です。【魔素】を通じて世界の理に働きかける技術です」
部屋の中央に戻ってきたナーニャが、椅子に腰掛けて説明する。エリアスは「世界の理」とか言われても普通の6歳児はわからないぞと思いつつ、普通の6歳児ではないので要点をさらに質問する。
「【魔素】って何? 僕にもできる?」
とりあえず、ファンタジーの不思議物理法則の検証は後にする。いま大事なのは自分にもできるかどうか。最大の要点はここである。
「【魔素】とは世界に満ちている力です。空気の中、土の中、森の中、どこにでも漂っています。また、生き物なら体の中に誰もが持っています。この力を通じて、世界に働きかけるのが魔術です。誰にでも持っている力を使い、何処にでもある力に働きかけるので、正しい手順を踏めば、誰にでも魔術は使えますよ」
どうもこのメイドは相手が6歳児ということをすっかり忘れているようである。だがそれがいい、その調子でどんどん頼むと、エリアスは知識欲を満たすため質問を続ける。あくまで6歳児らしく無邪気に。
「さっきのやりたい! 教えてください」
「そうですねえ。六歳で魔術というのは早い気がしますが、先ほど使ったのは初歩の初歩、誰でも使える、むしろ使えないと生活に支障が出るレベルの魔術ですから、教えても良いでしょう。むしろこれだけエリアス様がやる気になっているのですから教えないとかないですね、ふふ」
「やった! ナーニャ大好き!」
「エ、エリアス様……!なんて愛らしいのかしら!」
感極まったナーニャの胸に抱きしめられたエリアスは
(むぐ……、苦し……、でもあんまり胸ないな)
と失礼なことを考えていた。
◆◇◆◇
「さて、エリアス様、先ほど私が使った魔術ですが、火種をともす【点火】、少量の水を呼び寄せる【水雫】、そよ風を起こす【微風】の三つです
魔術の一番最初、最も初歩は【点火】から始めることになっています。一番簡単ですからね。本当は火事の危険があるので【水雫】を先に教えた方が良いと思うのですが、【水雫】は最初にやるにはちょっと難しいのです。
いいですか、いまから【点火】を教えますが、覚えても大人のいないところでむやみに使わないこと。【水雫】を覚えるまでは、使うときには消火用の水を用意すること。これを守ると約束してください」
「はい。わかりました」
「良い返事です。では体内の【魔素】を感じるところから始めましょう」
◆◇◆◇
ナーニャはエリアスの前に跪き、身長を合わせると、右手でエリアスの左手、左手でエリアスの右手を握る両手をとる体勢を作った。
「エリアス様、今からこの両の手の輪の中を、体の中の【魔素】を循環……ぐるぐる回します。【魔素】を感じ取って、どちら向きに回っているか当ててください」
ナーニャは目を閉じ、なにやら集中する様子を見せる。
(僕も……目を閉じた方が良いのかな。えーとこうかな……)
目を閉じて意識を両腕に集中すると、何か力をもった粒子のようなものが、ナーニャと手をつないでいる右腕から入ってきて、左手から抜けていくのがわかった。得体の知れないものが体内を流れていることに理性が警戒感を発するが、不思議と嫌悪感や恐怖はなかった。そこにあって当然のものが当然のように振る舞っている感覚があった。ともあれ、問題の力の流れる方向はわかったので、正直にそれを告げる。
「えっと、何かが右手から入ってきて左手から出ていくのがわかるよ。だから、右回り?」
「え?」
「だから右回り。間違ってた?」
「い、いえ。ではこれはどうでしょう」
また体内の流れに集中すると、どうしたことか流れが止まってしまった。ゆうに5秒ほど経ってから、再び力はこれまでと同じ右回りで回り始めた。
(右回りか左回りかの二択で、これはどうでしょうといったら逆に決まってる。でも嘘ぴょーん、というひっかけか)
「いったん力が止まって、5つ数えた後にまた右回りに回り始めたね」
「……正解です。どうやらエリアス様は【魔素】を感じる才能がおありのようですね。普通は始めて初日に【魔素】感じるところまでは行かないのですよ」
ナーニャは首をひねっているが、エリアスとしてもよくわからない。エリアスは具体的な記憶はないにしても、現代日本に住んでいた元日本人である。今日のこの日まで【魔素】なんていう怪しげな力を感じたことも、意識したことすらなかったのだ。しかし、集中したら見えちゃった以上仕方がない。
「それでは次に進みましょう。私の体の中の【魔素】を感じてください。わかりますか?」
自分の体から集中を広げて行くと、ナーニャの中を流れる【魔素】が視える。体外の【魔素】を視ることがきっかけになったのか、自分とナーニャの体内のみならず、周辺に漂っている【魔素】が知覚できるようになった。周囲に漂う【魔素】は、体内の【魔素】に比べるとかなり希薄で消えてしまいそうな濃度だ。
「ではよく見ていてください。【点火】」
エリアスが周囲の【魔素】に戸惑っているうちに、ナーニャは右手をエリアスの左手から離して【点火】を使った。ナーニャの右手人差し指にライターのような火がともった。
「何かわかりますか?」
おお、炎だ。燃焼反応って酸化反応だよな。可燃物がないと炎は上がらないよな。何が燃えているんだろう。炭素? 可燃性ガス? どこから湧いてるのそれ? と、目の前の現象を理系脳で理解しようとしていたエリアスは、ナーニャの問いに慌てて【魔素】を感じ取ることに集中する。
「ええと、ナーニャの指から【魔素】の流れが外に出て、周りに浮かんでる【魔素】を……ゆがめてる? なんで火が出てるのかはよくわからない……です」
ナーニャははっと驚いて【点火】を消すと、すごい勢いでエリアスの両手を取った。そして、そのポーズのまま固まってしまった。十秒ほど待っても動かなかったのでそろそろ不安になってきて、何か不味いことを言ったかなと内心冷や汗を書き始めた頃になってやっと、ナーニャは口を開いた。
「……すごいです」
「え?」
「すごいです!エリアス様!私でもそこまで細かくは見えません!」
「そ、そうなの?」
「ええ!これなら【点火】くらいすぐにできるようになるでしょう。先ほどの【魔素】の流れと同じようにやればいいんです!」
食い気味で勢いづくナーニャに若干引きつつ、【点火】のやり方を詳しく教えてもらう。要約すると、体内の【魔素】を放出し、空間に満ちている【魔素】に働きかけることで炎を呼び出す。そんな感じらしい。アバウトで感覚的な説明に、理系脳が拒絶反応を起こしそうになるが、そこはそういうものとしてとりあえず納得することにする。納得のいかないことは、自分で自由に使えるようになったら検証すれば良いのである。
「【魔素】を指から放出して……大気に満ちている【魔素】を歪める! えーとあとは、炎! 炎来て! 【点火】」
エリアスの指先に、ポッと小さな炎が宿る。
「おーっ!?」
しかしそれは一瞬光った後、すぐに消えてしまった。
「あれ? もう一度! 【点火】! 【点火】!」
エリアスが【点火】を何度か繰り返すも、いずれも先ほどと同じように一瞬炎が灯ってすぐに消えてしまう。
「エリアス様、今日はここまでにしましょう。初めてにしては上出来です。奇跡的です。普通はここまでに何ヶ月もかかります。持続時間に問題がありますが、練習次第で上手くなるでしょう」
何度も【点火】を唱える続けているのを見かねて、ナーニャがやんわりとエリアスを止めた。エリアスは、【魔素】というよくわからない怪しげな粒子、力場?のよくわからない作用による発火現象という、普段ならツッコミだらけの状況も忘れて、【点火】を使うことに熱中していたのだ。
「それにこれなら火事の心配もなさそうなので安心しました」
◆◇◆◇
その日の夕食。ナーニャがルーシアに報告する。
「奥様、本日はエリアス様が魔術を覚えられたのです」
「まあほんとう、エリアス?」
「はい、ナーニャに【点火】を教えてもらいました。まだ、うまくいかなくて、ちょっと光ってすぐ消えてしまうのですが」
「エリアスはまだ6歳じゃない。【魔素】を扱えるだけでもすごいわ! ちゃんと効果をあらわす魔術が使えるなんて天才よ! さすが私の子ね!」
ルーシアは自分のことのように喜んでくれるが、天才はさすがに親馬鹿だろう、とエリアスが考えていると、ナーニャが口を挟んだ。
「奥様は【治癒】の一つ覚えじゃないですか」
「いいじゃないの。私は【治癒】が得意なの! エリアスが熱を出したときも私の【治癒】で治してあげたのよ。そのおかげでこんなに元気に育ってくれたわ」
ルーシアは自慢げに胸をはった。なるほど、高熱を出して看病されたとき、胸に当てられたルーシアの手から暖かい力が流れ込んできて、体が楽になった事が何度もあった。あれは母の愛という奴だと思っていたが、魔術だったのか。エリアスは今更ながら納得し、ルーシアに感謝した。
「奥様! 乳幼児の病気に【治癒】は厳禁とあれほど申し上げたではありませんか! 【治癒】は確かに体を健康な状態に戻そうとします。しかし、それは本人の治癒能力を高めているにすぎません。体力のない乳幼児や老人に使えば、身体を治すことに体力を使い果たして死んでしまうかもしれないんですよ!」
(え?)
「だ、だって苦しそうだったんだもの……」
「だってじゃありません! 万が一のことがあったらどうするんですか!」
「だって、【治癒】したら穏やかな表情になったわよ?」
「体力を使い果たして動けなくなっただけです!」
(な、なんだってー!!)
エリアスは驚愕の事実に動揺したのを隠しつつ、ルーシアに話しかける。
「お母さま?」
「な、なにかしら?」
「いえ。あのときは看病してくださってありがとうございます。お母さまのおかげで楽になりました」
「そ、そうかしら」
ルーシアの美しい青い瞳は斜め上方向を向いて泳いでいた。
◇◆◇◆