9.移りゆく日々
「エリアス様、武術をやりましょう」
休日、屋敷で過ごしていると、唐突にナーニャが言った。
「エリアス様はもっと運動をするべきです。屋内に引きこもりすぎです。たまには庭に出て遊んだらどうですか。子供は外で遊ぶ物です。そんなことだから、ケンカにも簡単に負けてしまうのです」
そう言うとナーニャは、有無を言わさずエリアスを裏庭に連れ出した。
綺麗に整えられた前庭は毎日通り過ぎているのだが、裏庭に来るのは初めてだった。裏庭は、雑草がまばらに生えた平坦な部分だけで小さな運動場ほどの広さがあり、向こうの方はなだらかな上り坂になっており、裏山の森に続いていた。庭と言うよりただの草地だった。
「今からちゃんと運動をして鍛えれば、同年代の男の子に負けない体ができあがります。がんばりましょう」
ナーニャはやる気だったが、エリアスのテンションはあまり高くはなかった。確かに言っていることは正しいと思うのだが、エリアスの本質は研究室に引きこもっていた理系大学生である。アウトドアは苦手だった。
「剣と槍、弓があります。どれがいいですか?」
そんなエリアスの内心に構うことなく、ナーニャは倉庫から持ってきた練習用の武器を並べて問う。
「弓」
エリアスは即答した。現代戦は遠距離戦である。相手の範囲外から攻撃できるに越したことはない。射程が長い方が偉いのである。そのエリアスの価値基準からすると、弓、槍、剣の順で良いと言えた。
「なるほど弓ですか。男の子は普通は剣を選ぶと思ったのですが」
ナーニャは弓を取って言った。弓と言ってエリアスが思い浮かべるのは、大人の身長ほどもある日本の和弓であるが、用意されたのは70cmくらいの短弓である。
「体格的に弓はまだちょっと難しいかもしれませんが、練習してみましょう。また、弓だけでは体作りにはなりません。体術を覚えるという意味でも、剣術もやっていただきます。剣術は基本です」
なんだよ結局剣もやるのかよと思わなくもなかったが、選択権はないので頷いておく。
ナーニャが弓の使い方を実演してくれる。ナーニャは弓もできるようだ。弓を構え、矢をつがえる。そして、庭の向こうに狙いを付けると矢を放った。矢は思った以上の勢いでまっすぐ飛んでいくと、30m程離れた樹にタンッと突き刺さった。
「エリアス様、やってみてください」
ナーニャは後ろから手を添えて、エリアスの構えを整えると、「そう、弓手はまっすぐに」とか、「弦を引くのは、右腕だけでなく上半身全体で」と、要点を教えてくれる。
思ったよりも弓はかたく、弦を3割ほど引いたところで手を離してしまう。矢はへろへろとあさっての方向に飛んでいった。
「まずは弓を引く練習をしましょう」
その後エリアスは、しばらくかけて何度も弓を引く動作を試したが、なかなか半分までも引くことができなかった。
「エリアス様、焦らずにおいおい練習していきましょう。まあ、弓を引くにはある程度の筋力が必要なので、いまのエリアス様には、まだいっぱいまで引くのは無理かもしれません。でも、コツさえ掴めばまっすぐ飛ばせるようになるでしょう。まずは半分まで引くことを目標にしましょう」
そういって、弓の練習を切り上げた。次は剣である。
エリアスはショートソードを持って、ロングソードを構えたナーニャと対峙した。どちらも真剣である。ナーニャ曰く、本物を使わないと上達しないとのことだ。
「エリアス様、好きなように打ち込んで来てください」
エリアスが、真剣で斬りかかることを躊躇しているとナーニャは言った。
「大丈夫です。私はシグルズ剣術師範代の資格を持っています。素人の打ち込みぐらいでは、どうにもなりません」
一体ナーニャは何者なのだろうか。メイドの台詞とは思えない。いろいろ思うところはあったが、エリアスは深く考えるのをやめた。大丈夫だというのだから思いっきりやろう。
剣はずっしり重かったのと、例によって、元の世界の学校の授業でやらされた剣道の知識があったので、エリアスは、自然と剣を両手で正眼に構えた。
(小手面……は届かないか。小手胴で行こう)
「こて! どうー! ……え?」
一足飛びに踏み込んたエリアスの剣は、確かにナーニャの手首をとらえたかと思ったが、避けられたのか手応えはなかった。エリアスは、しかしそのまま小手胴の動作の流れで、ナーニャの胴を薙ぎ払った。が、確かに薙ぎ払ったはずなのに、そこにはナーニャの姿はなかった。
気が付くと、いつの間にか後ろに立ったナーニャが、エリアスの肩に剣を当てて言った。
「残像です」
「え、なに今の!? 明らかに人間の動きじゃなかったよ! 『やったか!?』シュンッ! 『……残像だ』って奴を実際に見られるとは思わなかったよ!」
エリアスは混乱した。目の前にナーニャがいたと思ったら、いつのまにか後ろにいた。何を言っているかわからないと思うがエリアスも何をされたのかわからなかった。体術とかフェイントとか、そんなチャチなもんじゃ断じてなかった。明らかに物理法則がおかしい。ここだけ宇宙の法則が乱れているとしか思えない。そんな動きだった。
「【身体強化】の魔術を使いました」
ナーニャが説明する。【身体強化】は、体内の【魔素】を利用し、一時的に筋力を爆発的に増強する魔術である。【治癒】と同系統の魔術だ。ナーニャは【身体強化】で全身の筋肉を強化すると、目に見えない速度で動いたのだった。言うは易し、だが、無茶苦茶である。どこのメイドが残像を残して瞬間移動するというのだろうか。
説明を聞きながらエリアスは思い出していた。
(ああ、そういえば、【治癒】だけ物理法則で説明できなくて、現象が意味不明だったの気になってたんだった。あれも、体内の【魔素】をどうにかしてるのか)
ナーニャから【身体強化】の手ほどきを受け、いくつかの型を教えてもらい、この日はお開きとなった。
「エリアス様、これからも、続けて練習してくださいね」
こうして、武術の訓練がエリアスの新しい日課となった。
◆◇◆◇
基本四魔術を覚えてから、進展のなかった魔術についても何とかしたいと思い、エリアスはナーニャに頼んだ。
「ナーニャ、そろそろ他の魔術も教えてよ」
「エリアス様は、魔術をやりはじめると引きこもるからダメです。もう少し大きくなったら教えて差し上げます」
すげなく却下されてしまった。
それでも、エリアスがしょんぼりしてしまったのを見かねたのか、助言をくれた。
「基本四魔術は全ての基本です。四魔術から、ほとんど全ての魔術に発展させることができます。ご自分で色々試してみると良いかもしれません」
これ以上ナーニャからは引き出せそうにないので、ルーシアに頼むことにした。
「お母さま、【治癒】を教えてください」
「だ、だめよ! 私の役目がなくなっちゃうじゃない!」
ルーシアは子供のように嫌がった。
「ですがお母さま、もしものとき、たとえば、一人の時に大けがをしたときなどのために、覚えておきたいのです」
「エリアス様、【治癒】では大けがは治せません」
そばに控えていたナーニャが口を挟んだ。
「【治癒】はあくまで身体の自然に治す力を高めるものです。放っておいて自然に治る程度の怪我や病気にしか効きません」
なんとも微妙な魔法であった。
ナーニャとルーシアに断られたエリアスは、仕方なく、基本魔術から発展させるべく、自己研究を始めるのだった。
◆◇◆◇
学校生活でも少しの変化があった。
ゲイルは、アイアリスにちょっかいをかけてこなくなった。たまに食堂や廊下で出会っても、目線を外して立ち去るようになった。アイアリスを殴ってしまったことがショックだったのだろう。エリアスは、すこしかわいそうに思った。
アイアリスとの仲が親密になる一方、イリーナがエリアスのことをしきりに気にしてくるようになった。
その日、いつものようにエリアスはアイアリスと食事をとっていた。ドノヴァンとイリーナ、あともう一人の男友達も同席していた。
「エル、はいサラダ」
「ありがとうイリス」
今までにもましてかいがいしく世話をするアイアリスと、親しげに愛称で呼び合う二人をみてイリーナが慌てた。
「にゃ……!? 呼び方が変わってる! 何? 何かあったの?」
「うんちょっと、ね」
エリアスとアイアリスは顔を見合わせて微笑み合う。
「何だよイリーナ、羨ましいのか?」
イリーナが、羨望の視線で見ていたことに気づいたドノヴァンが茶々を入れた。
「にゃー!? べ、別に! 羨ましくなんかにゃいんだからっ!」
実に見事なツンデレ発言である。
「お前もエルって呼べばいいじゃねえか。別にいいだろ、エリアス」
「はい、そう呼んでもらっても構いませんよ」
簡単に承諾したエリアスに、隣でアイアリスが少し不満そうな顔をしていたのだが、エリアスは気づかなかった。
「え? その、いいの……? エ、エル……にゃあー! あああ!」
イリーナは真っ赤になった顔に手を当ててうつむいた。しばらく、ふるふると震えていたかと思うと、突然立ち上がった。
「エリアス! 今の忘れて!」
そう叫ぶと、自分の食器をひっつかんで走って逃げていった。
「なんだあれ」
ドノヴァンが一同の気持ちを代弁して言った。
そんな風に、平和な、日々移ろいゆく日常をすごしているうちに、エリアスは2年生になっていた。
◆◇◆◇
初年生プチエピローグというか。2年生編に続く。
このペースであと3年も続けるのもアレなので、何とかしようと構成を悩んでいます。




