1.プロローグ
◇プロローグ
(まぶしい……。いま何時だろう?)
まどろみのような眠りから目覚めて、最初に考えたことはそんなことだった。窓から差し込む陽光で室内は光に満ちていて、時刻は昼頃だろうと想像できた。
(あー、もう昼か。早く大学に行かなきゃ……。そろそろ単位がヤバい)
最近大学をサボり気味だったため、講義はともかく実験の単位が危険域に入っているはずだ。このまま睡眠に身を任せたい気持ちを振り切って、ベッドから起き上がる。
(あれ? ベッド? うちの下宿は狭いから、ベッドおけなくて布団派じゃなかったっけ?)
少々の違和感を抱きつつ、とにかく起き上がろうとするのだが、体が思うように動かない。
(うわ、なんだこれ!)
体に力を入れても、手足がじたばたするだけで、体が全然動かない。まさか大怪我でもして病院のベッドの上なのだろうか。それにしては体に痛みはない。起き上がることはできないが、ベッドの上で身じろぎはできるようである。
焦りつつ、そうだ、病院なら人がいるはずということに思い至り声をあげる。
(誰か、誰かいないの!)
「あう……あー」
まるで赤ん坊のような声が出た。うまく発声できず、うーあー言っていると、声を聞きつけたのか、ベッドの向こうから人影がやってきた。
「あらあら、どうしたのかしら、エリアス? お腹がすいたの? それともおしめかしら?」
やってきたのは歳は二十前後だろうか。くすんだ金髪に美しい碧眼、豊満な胸を持つ美しい女性である。
何やら話しかけてくるが、意味が全く分からない。どうも日本語ではない言語のようだ。女性はベッド脇の椅子に腰かけ、片乳ををさらけだすと、赤ん坊を優しく抱きかかえ、口元に乳首を咥えさせる。
(おおう……。おっぱい。パイ乙! とかそんなこと言ってる場合じゃないだろ! んぐ、苦しい! そんな押し付けたら苦しい!)
その様子を見て、女性は怪訝な顔をする。
「おかしいわねえ、もっと強く押し付けた方がいいのかしら。初めてだからよくわからないわ。ねえ、ナーニャ?」
「奥様、エリアス坊ちゃまが苦しんでおられます。もっと優しく……」
「あらいけない! 【治癒】! 【治癒】! ……効いたかしら? 」
「奥様……、とりあえず【治癒】しとけばいいやみたいなのはいい加減やめてください」
そばに控えていた黒髪の使用人の女が、女性をそっとたしなめ、ようやく拷問に近い苦しみから解放される。
なんとか余裕ができたので、周りを見渡し観察しつつ、ここであらためて、起きてからのことを整理してみる。
(ふむ、自分の手足がまるで赤ん坊のようだ。声を出しても赤ちゃんのような声しか出ない。そして、抱きかかえられて授乳されててまるで赤ん坊のようだ)
状況を冷静に分析してみる。
(まったくまるで赤ちゃんだな。はっはっは。……いや、やめよう現実逃避は。もしかしなくても、赤ちゃんになっちゃったのか)
現状を把握すればするほど、現実を認めざるを得なかった。工学系大学生だったはずの彼は、ある日目が覚めたら、エリアスという名の赤ん坊になっていた。
◆◇◆◇
「おぎゃー!」(ていうか本当に自分の体、赤ちゃんじゃないかー!)
いまさらであるが、自らが赤ん坊になってしまったということを、ようやく受け入れたエリアスは絶叫した。
(これは転生という奴か? いや、精神だけ赤ちゃんと入れ替わったという可能性もあるな。ここで目覚める前、何やってたっけ? 死んだのか? うーん、思い出せない)
東京の大学で工学部の大学生だった記憶はあり、工学系の専門知識や、21世紀に生きていた日本人としての一般常識はあった。しかし、自分がどこの誰で、今までどのように生きてきたかは思い出せなかった。
目覚めた当初は、単位がヤバいという脅迫感があったが、それも急速に薄れ、何の単位がヤバかったのかはもう思い出すことができなくなっていた。
(これは……、記憶喪失って奴なのかなあ? エピソード記憶って
奴がなくなってるんだな)
たとえば、(おそらく大学で学んだ)自動車のエンジンの構造は思い出せるし、製図道具があれば設計図を描くこともできそうなのだが、先週どこへ行ったかとか、大学生活でどんなことがあったかということは、全くわからないのである。両親や友人のことも全く思い出せなかった。
(しかたない。元に戻る方法もわからないし、そもそも今となっては何に戻るかも覚えていない。覚悟を決めてこの体で生きていくしかないな……)
キリっと虚空を睨みつけ決意をあらたにしたが、0歳児の決意の表情は誰にも気づかれることはなかった。
◆◇◆◇
エリアスはすぐにでも現状把握に動こうとしたが、赤ん坊の身体ではなかなか事は進まなかった。
まず、言語の習得に二年ほどかかった。全く未知の言語なうえに、日本語と対応する辞書なんて親切なものはなかったため、母親とメイドとの会話からなんとか意味をくみ取って、簡単な文章を理解できるようになるまでにそれだけかかったのである。
自分の世話を見てくれている、くすんだ金髪の女性が母であり、十五、六歳くらいの黒髪の少女がメイドであることは、割と早い段階で把握していたが、メイドは母親のことを「奥様」としか呼ばないし、「お母さん」「ママ」に相当する単語もわからなかったため、初めて発した言葉はメイドの名前となった。
「ナーニャ! ナーニャ!」
初めての言葉で、エリアスがナーニャを呼んだとき、ナーニャはそれはもう嬉しそうな顔をしたが、母はとても微妙な顔をした。その後すぐに言葉を覚え、「お母さま」と呼びかけた時、ようやく嬉しそうな表情を浮かべたが、やはり一番に呼ばれたのがナーニャの名だったことが後々まで不満のようであった。
なお、母親の名前は、もう少し言葉が操れるようになってから、いまさらだなあと思いつつも
「お母さまのお名前は、なんというのですか?」
と訊いたところ、はっとした顔で教えてくれた。
「ルーシアよ。あなたのお母さまの名前はルーシア」
その美しい青い目が泳いでいたので、訊かれるまで教えるのを忘れていたのだろう。
◆◇◆◇
また、乳幼児というものはか弱いものである。エリアスが一、二歳の頃は、しょっちゅう高熱を出し、死線をさまよったことも何度かあった。そのたびにルーシアは、エリアスの体に手を当てて
「大丈夫よエリアス、すぐ良くなるからね。【治癒】!」
と唱えるのであった。
(何だろうあのお呪い。何かの宗教的なものかな。でもあれをやってくれると、なんだか体が楽になる……)
◆◇◆◇
そういったことを何度か経験しつつ、三歳になった頃には体力も付いてきて、家屋内を普通に歩き回れるようになったため、エリアスは、現状を把握するため情報収集を始めた。
とはいえいまだ三歳児である。一人で外に出ることはできなかったので、家屋内の探索であった。
(これは家というよりお屋敷だなあ)
家屋内を歩き回って、間取りを把握したエリアスは、心の中で嘆息した。
エリアスが住んでいるのは7LDK程の屋敷であった。調度品は多くはないが、品が良い高級そうなものが揃えられている。家具についても、ベッドは天蓋付だし、椅子やコンソールは猫足のヨーロッパアンティーク調、書斎のデスクはケヤキだろうか、重厚な広葉樹素材である。
倉庫のようなところには、弓矢と剣、槍等かいくつか置いてあった。美術的なコレクションなのかと思ったが、どれも過度な装飾はなく、実用的なもので、使い込まれていた。なにやら魔法の杖のようなものまで飾ってあった。
(まるで剣と魔法の世界のRPGゲームの装備品みたいだ。でも、装飾品とは思えないほど実用的な感じがする。いや、剣はともかく魔法の杖の実用品ってなんだよ。魔法とかないわー。あれだろ、呪文唱えただけでモンスターが爆発するとか。何もないところから火が起きるとかどこからエネルギー沸いてくるんだよっていう話だよ。エネルギー保存則なめんな。あれはただのステッキだろう)
何日か探索して、屋敷にはエリアスとルーシア、ナーニャの3人しか住んでいないと言うことがわかった。
(ナーニャという使用人がいるし、結構いい家なのかなあ。お父さまは何をやっている人なんだろう?)
ここに至ってエリアスはいまだに父親を見たことがなかった。ナーニャにせよルーシアにせよ、父親のことを尋ねるとはぐらかすばかりで、名前すら教えてくれないのだ。何か事情があるとしか思えない。
(お父さまのことは今はいいか。時期が来れば教えてくれるだろう)
◆◇◆◇
エリアスは六歳になっていた。三年間の屋敷内の探索でわかったことは、ここには電気やガスは来ていないということであった。電灯はなく、ろうそくやランプで明かりをとり、煮炊きはかまどでおこなっていた。
(まるで中世ヨーロッパ……いや、どこかの発展途上国なんだろうきっと)
中世にタイムスリップしたのかと少し思ったが、そんな非科学的なことは否定するエリアスだった。赤ん坊に転生している時点で非科学的なのだが、それは考えないことにした。
食事は一日三食、基本的にはパンとシチューであるが、チーズや肉がたまに付く。海は近くないのか、魚介類はあまり見ることはなかった。シチューの具材は野菜がメインだが、量は多く、味は素朴だがさほど悪くはなかった。
(文化的には欧米……というか完全にヨーロッパ風だなあ。結構裕福そうなのに、電気が来ていないというのは、ヨーロッパのどこかの奥地なのかもしれない。ナーニャにもうちょっといろいろ聞いてみよう)
初めて名前を呼んで以来、ナーニャはエリアスに対して溺愛と言っていいほどであり、父親関連以外の質問については、問いかければ大抵のことは答えてくれた。
18歳ほどに成長したナーニャは、黒髪を肩で揃えたショートカットでスレンダーな美少女である。そんな娘がかいがいしく世話をしてくれるだけでなく、心底愛情を注いでくれるのはちょっと、いやかなり嬉しかった。
大学生レベルの知識を持つエリアスには、屋敷内の物品で用途がわからないものはあまりなかったが、それでもいくつか謎のアイテムがあったし、現在地の手がかりになるような質問をしてみることにした。
「ナーニャ、あの棒はなにに使うの?」
「エリアスさま、あれは魔導杖です。魔術を使うときの補助に使います」
「……。ナーニャ、あの絵にかかれているのはどこ?」
「エリアスさま、あれはシグルズ帝国伝来の飾り皿です。描かれているのは帝国の港町のどこかでしょうか? 帝国の北には海があるのですよ」
「…………」
(まてまてまてまて! 魔術はまだいい。土着信仰か何かだろうきっと。シグルズ帝国ってどこだよ……いまどき帝国って)
「シグルズ帝国って?」
「エリアス様、私たちがいるこの国はホルン王国といいます。シグルズ帝国はホルン王国の北に広がる大国です」
「…………」
(いや、ヨーロッパ広いもんね。僕の知らない国だってあるよね? うん、きっとそうだ。ここはヨーロッパのマイナーな奥地、そういうことにしよう)
エリアスの内心の葛藤を知ってか知らずか、日が暮れて室内が暗くなってきた。ナーニャは燭台に歩み寄りろうそくに手をかざした。
「少し暗くなってきましたね。灯りを付けましょう。【点火】」
ナーニャの指から小さな炎が上がり、ろうそくに火がついた。
(前からナーニャが灯りを付けるとき、薄々そんな気はしていたけどあれは魔ほ……。いや、そうだ。ライターで火を付けただけ。あれはライターで火を付けただけ)
「あ、水差しの水がなくなっていますね。【水雫】」
どこからともなく現れた水が水差しに注がれていく。
(あれはイリュージョンだ。どこかに隠しておいた水を手品で水差しに移したんだ……ううう……苦しい。言い訳がそろそろ苦しい)
「では、私は仕事に戻りますね。あ、天窓が開いてますね。あそこ手が届かないんですよね。【微風】」
どこからともなく吹いたそよ風が、天窓を閉めた。
「ふふ、魔術で横着したことは奥様には内緒ですよ。あれエリアス様、どうかなさいましたか?」
「うわーん。なんだよそれ! どこから火とか水とか沸いたんだよ! エネルギー保存と質量保存の法則無視すんな! 物理の先生に謝れ! ファンタジーなんて嫌いだ! うわーん!」
エリアスはついにここが元の世界とは異なる法則が支配する異世界であることを認めた。理系人間が剣と魔法の世界に屈した瞬間である。
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