或いは最初から、望んでいたのかもしれない。
あの時の俺たちは、どうかしていた。
姉が家に戻って来なくて、ほっとしていた自分もいる。判っていた。恐怖心を抱く理由。惹かれているから、だけでなく。
比較的空いた屋台でラムネを一本買い、その場で蓋を押し開けた。硝子製のラムネ瓶。狭い口から、液体が溢れる。
姉の元に戻りつつ、拭うふりをしてほおずきを混ぜた。見た目にも判ってしまう大きさの粒が、ラムネの中を泳ぎ始める。ふわふわと、漂うように。
不審がられるかもしれない。効果はないのかもしれない。しかし、それでも良いだろう。俺は、この感情から逃れたいだけなのだから。
「智樹。たこ焼きも買えたよぉ」
笑顔の姉。今だけは、俺のものだと信じている。
「ああ、良かった。こっちも冷えてるから」
一度たりとも自分のものに、なったことはないのだけれど。
「うん、ありがとぉ」
いや、一度だけ。あの時だけは。俺のものだったのかもしれない。
春休み。姉が家を出る前日。共働きの両親は、昼間は家を空けていた。いつもの日常。落ち着かない、隠しごとの出来ない時間。
「……ねえ、智樹?」
俺はもう限界だった。ただ、それだけのことなのに。
「先に飲んでよ、ラムネ」
ぞくり。背中を、冷たいものが這う。見透かされている。全部。
恐怖心に逆らい、菜摘の目を見た。射すような瞳に、映る狼狽した俺の顔。あからさまな俺の感情。姉はいつも、気付いていた。
「……ああ」
俺は、姉に逆らう術を持たない。嘘を吐くことが出来ない。いつもそう。あの時だけでなく、ずっと。
ラムネ瓶に口を付け、液体を喉に流し込む。震える指先。柔らかな声で笑う姉。恐怖心が、肥大していく。
「あはは。やっぱり智樹、喉乾いてたんだぁ」
四分の一ほど残し、ラムネから口を離した。あの日と同じ、柔らかく乾いた笑い声が、頭の中をこだまする。
「あたしの分、残ってないねぇ?」
あの日。姉は俺を拒まなかった。俺の気持ちを知りながら。俺の気持ちを知っていて。
「欲張りだなぁ、智樹は」
ラムネのビンに手を伸ばし、菜摘が意味ありげな言葉を吐く。
「そんなんじゃ、この子も不安だと思うよ?」
陽光を透かすガラス瓶。きらきらと、姉の手元を輝かせている。乱反射。それはまるで。
あの日の記憶。
菜摘は、俺を拒まなかった。優しく受け入れ、たしなめるように手を絡ませ。熱く、静かに。まるでそれが、当り前であるかのように。
「ね、智樹?」
熱っぽくよがる菜摘の中で、俺は果てた。何も考えていなかったと思う。俺はただ、菜摘が欲しくて堪らなかった。離れることが、怖かったのだ。
あの日から俺は、姉を恐れるようになった。忘れられない、俺の過ち。薄れない記憶。悪夢のように。
「……え?」
はっとし、姉を見た。ほおずきの入ったラムネ瓶で腹を撫で、いつもと変わらぬ様子のまま。
顔を上げた。目が合った。逸らせない、強い眼差し。全てを透かし見るそれが、俺の身体を縛り付ける。
「でもねぇ、安心したよ」
祭りの喧騒が遠退いた。聞こえるはずの言葉だけが、俺の耳には届かないまま。
「智樹が判っててくれて」
ほっとしたような菜摘の表情が、物語るものは何だろう。俺の嫉妬の矛先は、誰に向かっていたのだろう。
屋台のほおずきが、提灯のように光っている。陽光を浴び、反射する煌き。死人を迎える盆提灯。俺の手を握る菜摘の指先。空のラムネ瓶。中身は。
「きちんと話せてなかったから、本当はちょっと心配だったんだぁ」
菜摘の足元を、濡らしていた。
「……けど、大丈夫なんだね」
鬼の灯。菜摘の紅い唇が、楽しげに言葉を紡ぐ。
「もうすぐパパだよぉ、智樹は」
ほおずきの毒が、俺を蝕む。たった一度の過ちのはずだ。忘れたような態度の姉に、俺は自分の感情を恐れ。けれど。
揺れるほおずきの姉。菜摘は俺を、どうしたい。
「……菜摘」
菜摘は俺を、どうして受け容れた。
「俺は……」
苦しめたいのか。懲らしめたいのか。弄びたいのか。からかいたいのか。それとも。
「大丈夫だよ、智樹」
愛しているのか。
「言ったでしょ? 智樹に迷惑はかけないって」
幻想を抱く。叶わぬ夢。叶うはずのない幻。紅い唇が、微かに歪み。
「秘密だよ。あたしと智樹と、……この子の」
俺は、飲み込まれた。




