あとは必要なものを取り出すだけだ。
近所の神社で小さなほおずき市が開かれるのは、毎年七月の、初旬のことだった。
まだ幼かった頃、俺は姉と手を繋ぎ、毎年ほおずき市へと足を運んでいた。僅かばかりの出店もあり、姉と二人で少ないお小遣いを遣り繰りした覚えがある。ほおずきに興味のない俺でも、楽しかった記憶がある。
俺にとってほおずき市は、夏の到来を知らせる祭りだったのだ。いつの頃からか、俺たちが市に行くことはなくなってしまったけれど。
今年の市は、次の週末に開催されるらしい。学校帰りに見かけた掲示板に、そう、張り出されていた。去年の祭りの、写真と共に。
行ってみたいような気もしたが、止めた。姉は今春、大学生になったと同時に家を出てしまった。俺には連れ立って行く相手がいないのだ。友達と行くような派手な祭りではないし、独りで行っても虚しいだけなのは判っている。
それに何より、ほおずきを眺めるだけなら、家でも充分なのだから。
いつだったか、姉が買ってきたほおずき。今も姉の部屋で揺れている。独り暮らしの部屋には持っていけないからと、姉が残していったのだ。
今では、俺が毎日手入れを行っている。誰に言われたわけでなく、自発的に。
いつものように水をやり、日当たりの良い場所に鉢を移す。まだ出来たての青い実が、水に濡れ輝いている。不意に、姉を思い出す。
この実が赤く染まる頃には、姉が帰って来るだろう。期待と不安が入り混じる。
青いほおずきの実に手を伸ばし、触れてみた。いつまでも染まらず、このままでいれば良いと願う。そうすれば、不安はなくなる。たとえそれが、現実逃避だとしても。
数日前に電話で聞いた姉の言葉を、俺は未だ信じられずにいる。心配するなと言われても、不安ばかりが募っていく。
俺は、怖い。姉が。姉の存在が。
ほおずきから手を離し、額に添えた。訳もなく、大きな溜息を吐き出す。うっすらと湿った空気が、部屋の中に充満している。
この部屋は、姉がいた頃と然して変わっていない。日々使われているかのようなベッドに、沢山の本が並んだ書棚。白いカーテンに、陽光を反射するフローリング床。積もっているはずの埃も、母の掃除のおかげか、あまり目立ってはいなかった。
唯一変わった点と言えば、ほおずきだろう。昔よりも逞しく、強く大きく成長している。鉢植えでは窮屈そうなほどに。そろそろきちんと土に植え替えた方が良いのかもしれない。
姉が戻って来たら、そう提案してみようか。幸い、家には庭がある。けれど植え替えてしまったら、俺がこの部屋に入る理由が、失われることになる。
いや、入らない方が良いのだ。姉の部屋に入らなければ、俺は自分に嘘が吐ける。今よりもっと、上手な嘘を。
俺は昔から、嘘が下手だった。自分では判らなかったが、姉曰く、嘘を吐くと口元が引き攣る、らしい。しかし嘘が下手だから正直者だったのかと言うとそうでもなく、姉以外の人間には嘘を吐き通すことも出来ていた。
だから、俺は姉に対してだけは嘘が下手だった、と言うのが正しいだろう。姉は俺を見透かしていたのだ。いつも、どのようなことでも。全てを。
「……智樹?」
俺の名を呼ぶ声がしたので、部屋の入口を振り返る。聞き覚えのある声に、些か戦慄しながらも。
「菜摘……姉、さん」
帰省の予定はまだ先のはずだ。大学のテストもあるだろう。それなのに、何故。
「ただいまぁ、智樹。この間、電話で言ったでしょ? だから早く帰って来たんだぁ」
姉は俺の内に渦巻く疑問を全て理解した上で、それらについて何も触れない。当り前の表情、当り前の様子で、当り前に部屋の中に踏み行ってくる。
「あ、まだほおずき赤くないんだぁ。良かったぁあたし、青いの好きなんだよねぇ」
当り前か。ここは、姉の部屋なのだから。
「今週末でしょ? ほおずき市。智樹と一緒に行きたいなぁって思ってさぁ」
長い髪を耳に掛け、ほおずきの前にしゃがみ込む。当り前の、あるべき姿。姉の部屋に姉がいる。ただ、それだけのはずなのに。
「ほら。小さい頃は毎年行ってたでしょ? だからさぁ、智樹と行きたいなぁって」
怖い。
「最後にね、なると思うし」
怖い、怖い。
「……ふたりで行けるのも」
飲み込まれる。捕り込まれる。俺は嘘が吐けなくなる。
「もしかして智樹、予定ある?」
紅色の唇が、俺の名を紡ぐ。琥珀色の瞳が、俺の姿を映し出す。
「いや。ない、けど」
栗色の髪が、微かに揺れる。白色の指が、しなやかに伸びる。触れる指先。捕えられた手は。
「なら一緒に行こ? 智樹と一緒に回るの、楽しみなんだぁ」
ひどく、熱い。逆らいようのない存在。逆らいようのない感情。俺が姉を恐れる理由。それはひどく簡単で、だからこそひどく難しく。
「……判ったよ」
姉を姉と見做していないから。姉をひとりの女性として見ているから。ひとりの女性として。
惹かれているから。
ただそれだけの、ことなのだ。




