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Right Rail was Right Rail?

作者: 族長

※過度に残酷な描写はありませんが、作中で人の生死を扱うのでご注意ください。

 荒野に線路が走っていた。


 その途中、寂れた駅の残骸が置き去りにされている。

 プラットホームには男の影が二つ。一方の名を、ジギルと言う。


「出せそうか、ハイド?」


 ジギルが訊ねると、ハイドと呼ばれたもう一方の男が頷いた。


「走る分には、問題なさそうだけど……」

「なら、なにが問題だ?」

「ブレーキが利かないんだよ、ちっとも」

「まぁ、いいんじゃねぇの? トロッコは走るのが役目だろうしよ」


 言って、ジギルはトロッコへと乗り込む。点検に勤しんでいたハイドは、うんともすんとも言わないブレーキにいよいよ愛想を尽かし、ボキリとレバーを折ってしまった。

 ジギルは肩を竦め、

「管理人にどやされても、俺は知らねぇぞ」

 などと軽口を利くと、対するハイドは、

「自分の役目を全うできないものに、存在価値はないよ」

 飄々と答え、レバーを彼方へと放ったのだった。


 アクセルレバーが押され、悲鳴のような軋みとともにトロッコが動き出す。ジギルが「さぁて、出発だ」と景気よく言った折り、

「すみません! すみません!」

 と、声を掛ける者がいた。

 見れば、一人の少女がプラットホームを駆け、二人の乗るトロッコを追いかけている。

「のっ、乗れますかっ?」

 走っているせいか、少女はうわずった声で訊いた。


 ジギルとハイドが顔を見合わせたのも一瞬で、その後は、

「乗れるぜ」

「乗れるのなら、ね」

「ほぉら、頑張れ。あと少しだ」

「飛び乗るんだよ、ジャンプしてね」

 などと口々に囃し立てている。


 顔を真っ赤にして走っていた少女は、程なくして「えいやっ」と掛け声までつけて、トロッコへと飛び乗った。




「いやぁ、お嬢ちゃん、なかなかの走りっぷりだったぜ」

「そっ、それは、どう、どういたしまして……はぁ……」

 息を切らす少女は、いかにも生娘らしい風貌だった。

 さりとて、旅の者には事情を聞かぬというのが、ジギルとハイドに共通する、数少ない美学である。

 なので、ハイドは

「聞きたいことが、二つ」

 と訊ねるだけに留めた。

 少女は息を整えつつ、コクリとひとつ頷く。


「お名前は?」

「ナナセ、と申します」

 異邦人か、とジギルは思った。

 ファーストネームかファミリーネームか、とハイドは思った。


 思っただけで、二人は口に出さなかった。


「良い名前だね、ナナセさん。僕はハイド。そっちのは旅仲間のジギルだ。それじゃあ、二つ目の質問。どこまで行くの?」

「三つ先の駅まで、行きたいと思っております」

「やぁ、それは都合がいいね」

「俺たちの用事は四つ先だ。ナナセ嬢は俺たちに運転を任せて、トロッコに揺られてりゃいい」

 そうして、三人を乗せたトロッコは荒野の中を滑っていった。


 速度は軽快に上がり、砂を含んだ風を瞬く間に置き去りにしていく。




 事が起きたのは、トロッコが小高い丘を登りきった時だった。


 丘の麓には森林が広がり始めるのだが、その様を双眼鏡で眺めていたジギルが、

「なんだなんだ、線路の上に人がいるぞ! 四人……いや、五人だ。五人もいやがらぁ」

 と声を上げた。


 対するハイドは、怪訝な表情でもってそれに応えた。

 見れば、たしかに五人の人間が群れて、線路に向かって何事か勤しんでいる。

 誰も彼もが顔を守るように、頭巾をすっぽり被っているものだから、ハイドはすぐにピンときた。

「ふーむ、あれは点検だね。線路の点検をしているんだよ」


「そりゃあ結構。ご苦労なこった。けどよ、このままだと、轢き殺しちまうぜ?」

「キミが大声で呼べばいいじゃないか」

「馬鹿言え。奴ら、頭巾を被ってんだぜ? 聞こえやしねぇよ。だいたい、俺たちのトロッコが近づいてるってのに、誰も振り向きやしねぇ。働きすぎで、耳がイカレちまってることにさえ、気付いてねぇのさ」


「あの、もしもし……」


 それまで黙って聞いていたナナセが、おっかなびっくりといった風に手を挙げる。

 ジギルとハイドが揃って視線を向けたせいで、彼女はなお一層、身を固くしたようだった。


「その……トロッコを停めれば、万事解決ではありませんか?」


「流石はナナセ嬢、名案だぜ」

「惜しむらくは、このトロッコにブレーキがないことだね」


 ナナセはあんぐりと口を開けた。

 当然だと思っていたことが覆されれば、誰だって呆然とするだろう。

 なので、彼女の反応はまさしく自然と言える。


「それでは……あぁ、線路が右に分岐しているのが見えます! トロッコをあちらに向けることはできないのでしょうか?」

「分岐点にあるレバーを……ほら、見えるかな? あれをちょいと動かせば、道を替えられるはずだよ」

「では、是非そうしましょう」


「じゃあ、誰かが降りないといけないね」


 ハイドの言葉に、ナナセの表情が固まった。

 トロッコは停まれないどころか、勢いよく走っているのだ。

 今も車輪の下を、土埃を上げる大地が濁流のように過ぎている。

 降りれば、足の肉は八つ裂きになり、骨は粉々に砕けてしまうだろう。


「心配には及ばねぇぜ。こいつでレバーを撃ち抜いてやろう」

 そう言ってジギルが懐から取り出したのは、一丁のピストルだった。

 これでも彼は、そこそこに腕の立つガンマンなのである。


 ナナセはパッと表情を明るくして、

「では、是非そうしてください」

 と懇願したが、少女の無垢な期待に、ハイドがまたしても水を差した。


「それはいいけど、見てごらん。右の線路にも、人がいるみたいだよ」


 ナナセが双眼鏡を覗き込むと、たしかに右の線路の上にも、人間の姿を確認できた。

 やはり頭巾をすっぽり被って、線路の点検に精を出している。ただし、


「あっちは一人しかいねぇみてぇだな」




 ジギルが言うように、右の線路で作業している人間は、どういうわけか、一人しか見当たらなかった。

 なにか理由があるのかも知れないが、それはジギルにもハイドにも、ましてやナナセにさえ見当がつかない。

 だが、ここに至って、理由など些末なことでしかない。



 重要なのは、トロッコがこのまま進めば五人の命が犠牲になり、進路を替えても一人の命は確実に失われる、という事実だ。



「どうすんだ? 分岐点まであと少しだぜ? 一応言っとくが、俺はどっちでも構わねぇぞ」

 ピストルの弾倉を確かめながら、ジギルは淡々と告げた。



 ……これは後日談になるが、ひょっとすると、彼の判断こそ最も聡明で、最も狡猾だったのかもしれない。

 ジギルはあっという間に『決めることをしないことに決めた』。

 決断を下すことを放棄し、二人の同伴者に委ねたのである。

 トロッコがそうであるように、指示に従うだけの道具と化したのだ。

 道具に責任はない。責任を負うことになるのは、いつだって、それを使用した人間か、あるいはそれを作った人間だ。


 もっとも、後者であるとするなら、ピストルを構えるジギルにもそれなりの責任があるのかも知れないが……。



 閑話休題、ナナセの決断は早かった。


「私は右に行くべきだと思います。どうあっても命が犠牲になってしまうのなら、被害の小さい方を選ぶべきです」


 少女らしからぬ、毅然とした口調だった。

 己の意見に確固たる自信を持っていなければ、こうは口が回らない。

 だが、やはり異を唱える者がいる。もちろん、ハイドだ。


「そうかな? 僕はこのまま行くべきだと思うよ。たしかに、ナナセさんの言うことは一理ある。けど、進路を替えるってことは、つまり、『意図的に一人を轢き殺す』ってことだよね?」




 ハイドのその言い分は、ナナセに、暗闇で背後から一撃を喰らったような衝撃を与えた。

 まったく、予想さえしていなかったのである。

 彼女にとって、命とはなにものにも代え難いものであり、誰しもが平等に尊ぶものだと教えられていたし、彼女自身、そう思って生きてきた。

 それが彼女にとっての『常識』なのだから。

 だからこそ、ナナセは五つの命よりも、一つの命が犠牲になる道を選んだ。

 今の今まで、それが人として当然の、歴然とした、自然な判断、すなわち『常識』だとして疑わなかった。

 それなのに、殺人だなんて……そんな発想があるなんて!




「このまま進めば、人を轢き殺してしまったとしても、それは不幸な『事故』だろうね。けど、レバーを動かして進路を替えるってのは、明らかに意図が介在してるんだよ。それは作為的な『殺人』なんじゃないかな。違う?」


 ナナセには、ハイドのその認識は間違っているように思われた。

 大きな犠牲を回避できる機会があるのに、その機会を看過することだって、同じように作為的な『殺人』とは言えないだろうかと、そう考えたのだ。

 だが、それでも「違います」と、あの毅然とした声で言えなかったのは、やはりどちらにせよ、同じことだったからである。


 つまり、看過することを『殺人』だと主張しても、進路を替えて一人を轢き殺す行為が、まっとうに正当化されるわけではない。

 それもやはり、依然として『殺人』に変わりないのだから。



 無慈悲な物言いになるが、ナナセという少女の自信は、所詮そんなものだった。

 不意の一撃を喰らい、己の中の『常識』を疑ってしまった瞬間から、完全な自信など、どこにもなくなってしまったのだ。



 狼狽するナナセを救ったのは、成り行きをぼんやりと眺めていたジギルだった。

「あのよぉ、『殺人』だかなんだか知らねぇけどさ、結局のところ、レバーを動かすとしたら、それは俺の役目なんだぜ?」


 まさしく、彼の言う通りだった。

『事故』を看過するにしても、作為的な『殺人』をするにしても、それらは全て、ジギルの行動に集約されるのである。

 言い換えれば、ハイドとナナセは、「ジギルが五人殺す」か「ジギルが一人殺す」かを選ぶだけ。

 そしてなにより、ジギルは「どちらでも構わない」と明言していた。



 余談になるが、ジギルはそのピストルによって、これまでにも幾人かの命を奪っている。

 だからこそ、彼の言う「どちらでも」というのは、本当の、偽らざる本心なのだ。

 ここに至って、殺める人数の多少などは、彼にとってまったく些末な問題でしかなかった。あるいは、問題の体すら成していない。

 業の深いことだが、生憎、ジギルは無神論者である。



 さておき、そういう事情であるから、ハイドとナナセに委ねられていた選択は、思いの外、簡単だったのである。

 ジギルが同伴者二人に真っ先に委ねた責任とは、「直進か否か」という、ただ一点についてのみだったのだ。

 その如何によって、トロッコが遠回りすることになるかもしれないのだから、当然、それ相応の責任は発生するし、責任の発生は必然である。

 しかし、ジギルという男は、そんな些細とも取れる責任さえ放棄したのである。それも、真っ先に。



「さぁて、ぼちぼち決めてくれねぇかな。撃つのか? 撃たねぇのか?」

 分岐点は、もうすぐそこまで迫っていた。


 どうせ殺人を犯させるのならば、犠牲は少ない方が良いはずだ、とナナセは信じていたし、これからもそう信じて生きていくだろう。

 もっとも、彼女はあと半日も経たぬ間に生涯を終えることになるのだが。

 ナナセは今度こそ、完全な自信をもって、決断を下した。


「撃って! レバーを動かしてください!」

「オーケー、了解だ」


 そして、ジギルはレバーに狙いを定め、ピストルの引き金を引いた。

 道具としての役割を、完全な自信をもって、忠実に実行せんとしたのである。


 だが、



「あっ」



 けたたましい発砲音とともに放たれた弾丸は、あろうことか、明後日の方向へと飛んでいった。



 トロッコとしては、与えられた指示に従っただけである。

 例えそれが、使用した人間にとって不本意なものであったとしても、道具にとっては等しく指示である。

 だからやはり、トロッコに責任はない。同じ理由で、ピストルにも責任はない。


 程なくして、トロッコは五人の人間を轢き殺した。

 その間、三人は呆けたように口を開けて、ピストルの先をただただ見つめていた。




 森林を裂くようにして、線路は先へと延びている。

 まるで生い茂る木々たちが、トロッコに道を譲っているかのようだ。


 初めに硬直が解けたのは、ジギルだった。

 ピストルを構えていた腕を降ろし、緩慢な動作で膝を抱いて、露骨に不貞腐れてしまった。


 そんな姿を見て、ハイドは、

「えええぇぇっ!? 外したのぉ!? ジギルともあろう御方が、的を外したのかい!?」

 と白々しく驚き、ついには哄笑し始めた。

「あはははは! いやぁ、見事な外しっぷりだったね! 傑作、傑作! 見たかい? 的と弾丸が、こんなにも離れてたよ! 街での早撃ちだったら、野次馬が撃ち抜かれてるところだったね! 恐れ入った! あっははははは!」


 ハイドが笑い声を上げるたび、ナナセはどんどんいたたまれない気分になってきた。

 なによりも、たった今しがた五人の命が失われたというのに、呵々大笑するハイドのことを不謹慎だと思わずにはいられなかった。


 だからつい、

「笑うことではないでしょう。ジギルさんはちゃんと、レバーを動かそうとしてくれたのですから」

 と、ジギルのことを擁護した。 しかし、ハイドの顔から嘲笑は消えず、それどころか、

「けど、レバーは動かなかったね」

 などと揚げ足を取ってくるから始末に負えない。


 ナナセは頭に血が上るのを感じた。

 それと同時に、このハイドという男には、なにを言っても無駄であることを悟った。

 より精確に言うならば、なにを言っても無駄であることを悟った「ことにした」。

 このまま押し問答を続ければ、口を利きたくもないほどの憤りに身を焦がされることになる……。

 そんな姿に思い至り、口を利くことを止めたのだ。


 結果として、居心地の悪い空気が三人の間を満たすことになった。

 もっとも、ハイドだけは違う空気を吸っていたかもしれないが……。


 そんな目に見えない不確かな雰囲気さえ、トロッコはやはり、文句の一つも言わずに運ぶのである。




 やがて陽が落ちて、さらに夜が降りてきた。


 ハイドはアクセルレバーを押すのをやめ、動力を失ったトロッコは徐々に速度を落としていく。

 そしてようやく停まる頃には、三人を取り巻く宵闇は、カンテラを灯さねば手元も満足に見られないほどに濃くなっていた。



 三人は野宿することに決めた。

 もともとそのつもりだったので、火をおこすことから、ささやかな食事に至るまで、作業はつつがなく終わった。


 食事の場において、ハイドが口にする話題がもっぱら、ジギルの失態についてだった。

 とは言え、ジギルも言われっぱなしではなく、

「次だ、次! 見てろよ? 必ず当ててやる」

 とか

「二人とも、運がいいぜ。俺ほどのガンマンが的を外すところを見られたんだからな!」

 とか、軽口を利くほどには立ち直っていた。


 憂鬱を感じていたのは、ナナセである。

 目の前で燃える焚き火を眺めていると、昼間の憤りが蘇ってくるように感じられた。

 せっかくの食事も、ほとんど喉を通ってくれない。



「あの、ハイドさん。もう、それくらいでよしてください」



 その声には、拒絶の色が滲んでいた。

 ハイドも、それを感じ取れぬほど鈍感なわけではない。

 けれども、理由を察せるほど鋭いわけでもなかった。


 彼はわずかに眉をひそめた。

「どうしたんだい、ナナセさん」


「先ほどから聞いていましたが、ハイドさんは口が過ぎるのではないでしょうか? ジギルさんは、犠牲を減らそうと行動してくださったのですよ? 結果だけ見れば、たしかに失敗です。犠牲を減らすことはできませんでした。けれども、ジギルさんだって、犠牲を増やしたくてそうしたわけではないはずです。それなのに、執拗に非難するのは、どうかと思います」



 一息に言い切ったナナセ。

 その横顔に注がれている、珍妙な動物を見るようなジギルの視線に、果たして彼女は気付かなかった。

 盲信して猛進する者は、視野が狭くなりがちである。


 ハイドはそんな旅仲間の様子に気付いているのかいないのか、似たり寄ったりな視線を少女に対して向けていた。


「うぅん……。僕から言わせてもらえば、ナナセさん、あなたの態度の方が、どうかと思うよ?」


 ナナセは一瞬、反駁したことを咎められたのかと思った。

 だが、ハイドの意図しているところは違っていた。


「レバーを動かしてくれと頼んだのは、あなただろう? それで、ジギルは失敗した。だったら、ナナセさんこそ、彼を非難するべきなんじゃないかな?」


「そんなことは、しませんし、できません。失敗で、より多くの犠牲を出してしまったのは事実です。けれど、その失敗を一番悔いているのは、私ではなくジギルさんでしょう。だったら、どうしてこれ以上、私が彼を責められるでしょうか」


「ああ、そうか!」

 ナナセの意見に耳を傾けていたハイドは、唐突に、我が意を得たりといった様子で膝を打った。


「そうか、そうか。ナナセさんは知らないんだね。この男はね、百発百中ならぬ、『千発千中のジギル』として名が通ってるガンマンなんだ。千発の真偽はともかくとして、狙った的は絶対に外さないのがジギルなんだ。いや、今となっては、絶対に外さなかったのが、かな?」

「おいおい、その訂正はやめてくれよ。地味に傷つくぜ」

「でも、事実だろ? 証人が二人もいるよ」

「チッ! 『千一発千中のジギル』に通り名を変えるかねぇ……」

「語呂が悪いし、センスも最悪だよ、ジギル」

「ちげぇねぇ」



 ジョークとも取れるやりとりを始めた二人に、ナナセは一抹の違和感を覚えた。

 服を着る時に、どこかでボタンを掛け違えた感覚に似ている。

 些細だけれど確かな、そして見過ごせない違和感。



 ナナセが齟齬という名のボタンを見つけるより先に、ハイドが話を戻した。


「ごめんごめん、勝手に盛り上がっちゃって。だからさ、ジギルは『外さないはずなのに外した』から、やっぱり非難されるべきだよ。僕は彼が『千発千中のジギル』だから、旅仲間に連れ立ったっていうのにさ。これじゃあ、看板に偽りあり、だ。しかも今回の場合、それによって四人だか五人だかの尊い命が失われたんだから。まったく、救いようがないよね」




 ハイドのその言葉に、ナナセが受けた衝撃の大きさといったらなかった。




「四人だか五人だかの尊い命」! これほど矛盾した言葉が他にあるだろうか。




 ハイドは「尊い」と言っておきながら、その命の数さえもう覚えていなかったのだ。

 今この瞬間、いや、ジギルが的を外した瞬間から、ハイドの興味はただ一点、「外さないはずなのに外した」ことにしかなかったのである。

 彼にとっては、トロッコの下敷きになった命よりも、『千発千中のジギル』が的を外したことが重要であり、そちらのことこそが真の関心事だったのだ。



 ナナセはいつの間にか失念していたが、レバーの如何について、ハイドは初めから一貫して『直進』を選択していた。

『直進すべき理由』をもっともらしく述べた上でのことだが、あれは結局のところ、ナナセが先に『右を選ぶべき理由』をもっともらしく述べたからでしかない。

 彼が『直進』を選んだ本当の理由は至極単純だ。



 すなわち、「目的地が直進方向だから」。



 ハイドは、彼の言うところの四人だか五人だかの尊い命が失われる可能性に対し、多少なりとも心を痛めはしたが、多少なりとも心を痛めたに過ぎなかった。

 そしてその痛みにしても、次いで起こったジギルの失態により、弾丸とともに明後日の方角へと吹き飛んでしまっていたのである。



 ナナセは震えた。ボタンの掛け違いなどという程度の話ではない。

 ナナセがボタンだと信じて疑わなかったものが、ジギルとハイドにとっては形さえ成していなかった。

 ここに至って、その事実にようやく気付いたのである。



 少女の信じていた『常識』が、この二人にはまるで『非常識』だった。



 それだけだったら、ナナセは衝撃を受けこそすれ、恐怖することはなかっただろう。

 しかし、現に今、彼女は恐怖を感じていた。

 他ならぬ彼女自身に。


 食事はろくに喉を通ってくれなかった。

 それはハイドに対する憤りのためだと、今の今まで信じて疑わなかったのである。


 だが、それはナナセにとって『非常識』である。

 ナナセにとって「『非常識』でなければならなかった」。

 なぜなら、



 少なくとも彼女の中の『常識』では、目の前で五人の命が失われた日に、食事が喉を通るわけがないのだから。



 つまるところ、ナナセもこの瞬間まで、失われた五人の尊い命を、『犠牲』として勘定していたに過ぎなかったのである。

 その五人にも、親や兄弟姉妹がいただろうし、友人や恋人だっていただろう。

 この『事故』を知った遺族は、変わり果てた姿の五人を前に、いったいなにを想うだろうか。

『犠牲』となったのは五人かもしれないが、被害は線路の上に留まらない。


 そんな、少し考えれば真っ先に思い浮かびそうな事柄が、しかし、ナナセからはすっかり抜け落ちていたのである。

 普段の『常識』ある彼女なら、少し考えることもなく、真っ先に思い浮かんでいただろう。なのに……。


 明らかに、ナナセの『常識』は毒されていた。

 いつからかはわかりかねる。毒とは、そういうものだ。

 そして、まだ幼さを残す少女には、毒に抵抗しうるに足る免疫が備わっていなかった。




「……す、すみません。私、ここで降ります」


 ナナセは立ち上がり、身支度を整え始めた。

 それが、彼女が『非常識』に対して為せる精一杯の抵抗だった。


 胸中など知る由もないジギルとハイドは、揃って目を丸くするしかない。

「降りるって……おいおい、今かよ? 冗談はやめときな、ナナセ嬢。ここ一帯は、夜になると野獣が出るって聞くぜ?」


 ジギルは一応引き留めたつもりだったが、ナナセが再び腰を下ろすことはなかった。

 どうやら本気らしいことを悟り、ハイドはせめてもの助言をすることに決めた。

 去る者を追わないというのも、また二人に共通する美学である。


「ジギルの言うとおり、たしかにこの森は野獣が出る。けど、見てご覧、周りの木の幹には傷跡がないだろう? ここらの野獣たちは、縄張りに爪で印をつける習性があるんだ。それがないってことは、ここ周辺は少なくとも安全なはずだよ。あとは、なるべく獣の足跡がない道を通ることだね」


 宵闇に茂る木々を指さしながら、ハイドは得意げに講釈をした。

 実のところ、彼の自信はその肩書きが裏打ちしている。


 ジギルは心底感心した様子でしきりに頷き、

「ははぁ、流石の考察だぜ、ハイド先生。ナナセ嬢、こいつの言うことは信用していいぜ。なんてったって、生物学者様だからな!」

 と、まるで彼自身のことのように誇らしげに胸を張った。

 彼が威張る道理はないが、ハイドが生物学者だということは真実である。

 ナナセはその肩書きを意外に思ったが、もう驚きはしなかった。


「カンテラは持っていくといい。足下を照らすのに必要だろうからね」

「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」

「どっかでまた会った時にでも返してくれ」

「はい。短い間でしたが、ご厄介になりました。それでは、ご機嫌よう、さようなら……」


 小さく一礼し、ナナセは宵闇の中へと足早に消えていった。




 残されたジギルとハイドは、しばらくの間、少女の去って行った方向をぼんやりと眺め、やがて、どちらともなくため息をついた。

「お嬢様の考えることは、俺にはよくわからん」

「まぁ、なんというか、不思議な子だったね」


 揃って肩を竦めた二人。

 彼らにとっては、ナナセという存在こそが『非常識』だった。




 そんな折、森の奥から、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。

 ジギルとハイドは咄嗟に身構え、声のした方へと振り返る。



「あっ」



 視線の先は、少女の去って行った方角だった。




 二人は呆けたように口を開けて、再び宵闇を見つめていた。

 先に我に返ったのはハイドで、緩慢な動作で膝を抱くと、露骨に不貞腐れてしまった。


 ジギルはそんなハイドの様子を指さして、やはり哄笑するのだった……。






あなたなら、どちらの線路を選びますか?


(本作品は、社会心理学・倫理学の思考実験の一つである「トロッコ問題」から着想を得ています)


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