30:贖罪レター
夏の夜に、これを記す。
今これを読んでいるあなたがどのようなプロセスを経て、どうやってこの手紙を見つけたのか俺にはまったく想像がつかない。
偶然だろうと構わない。小説を読むように、寝転びながら、鼻で笑ってくれても別にいい。何かを書くことが俺は好きなんだ。
名前を明かすことはできないが、十和森高校の人には多大な迷惑をかけたことを、まず謝っておきたい。三学期の終わりに図書室の本は一斉処分される。この辞典もだ。4月までに誰かの手に渡れたことを、次に感謝しよう。
だからその幸運に敬意を払い、自分語りが嫌いなら、その時点でこれをビリビリに引き裂いてほしい。
俺の一番古い記憶は、父のゴツゴツした手に引かれ、近くの神社にお宮参りに向かっている映像だ。
母親は俺が小さい時、別の男を作って出ていったらしい。寂しさは感じなかった。男手一つで俺を育ててくれた父には感謝している。そんな父に憧れ、というよりも影響されてか、俺も絵を習うようになった。父は腕のたつデザイナーだったのだ。
山下清のように精巧ではないし、サヴァンの人みたいに天才的ではないけれど、俺には映像記憶という目で見た出来事を写真のように頭の中で再生することができた。飛び立った鳩が何羽だったか数え直せる程度の能力だが、模写は純粋に楽しかったし、記憶にアレンジを加えられることは嬉しかった。
しかし好きと才能とは違う。目指していた美術コースがある高校の試験に落ち、進路について頭を悩ませていた中学三年の時だった。
顔も知らぬ産み母親が、どこか遠い片田舎の県道で、崖から車ごと滑り落ちて死んでしまったそうだ。俺を捨てるように囁いた男といっしょに、二人してあの世に旅立ったらしい。
それにより、一つ困ったことが起きた。俺には、いわゆる種違いの妹というやつがいたのだ。正直いうなら彼女がどうなろうと知ったこっちゃなかった。駆け落ち同然の二人の残された愛の結晶に、身よりが無かろうと、所詮血が半分つながっているだけの他人。会ったこともない妹に兄妹の情がわくはずもない。
だけど親父は違ったらしい。愛した女の子どもだからと、もっともらしい理由をつけ、その子を引き取ることにしたのだ。兄妹ができるという喜びよりも、好きにしたらいいという思いの方が強く、2つ返事で俺はその旨を了承した。
中学三年の1月のことだ。受験という一種の節目、私立の願書受付まで幾ばくもない苛立ちが積もる時期だった。
初めて会った妹の第一印象は、暗い、だった。今にして思うがそれは当たり前のことで、いきなり両親が死に、自分の引き取り手が母の昔の恋人ときた。落ち込まない方がおかしいだろう。親父と母は離婚済みだったので、戸籍上はウチの養子、ということになる。そういう手続きには絡まなかったので、よくわからないが。
とにもかくにもこうして我が家は三人家族となり、二歳下とはいえ、いきなり見知らぬ異性と同居することになったのだ。受験という言い訳をつくり、彼女とはろくに会話をしなかった。
両親が死んで絶望の淵から立ち上がろうとする妹など、俺にとって邪魔でしかなかったのだ。
妹と話をするようになったのは、進学先を決め、心に少し余裕ができたころからだ。
「飛んでいない」
それは辛辣な評価だった。
俺のスケッチブックを覗き見た彼女の一言を今でも鮮明に思い出すことができる。
「あなたの絵は少しおかしい」
美術科のある学校に落ちた一つの理由が、欠如したオリジナリティだった。
頭の中の映像を模写するという過程に置いて、映像記憶は役にたったが、そのイメージに引っ張られて、自分の心情をうまく表現できなかったのだ。
短所の改善を心がけ、テレビで見た早駆けの馬と、図鑑の鷲の翼を合わせて、歪なキメラを生み出していた俺に、妹は率直な感想はとても耳に痛いものだった。
「違和感がある。馬なのか、鳥なのか、あなたの絵は写真にしか見えない。上手いけど、心には響かない」
下書きなしに書き出した落書きのような絵でも、把握している弱点を大っぴらにされ、怒りの感情がこみあげた。
「そんなことは、とうの昔に気づいてる」
「だけど、私は好き」
俺は唖然とした。脚色はしていない。あいつはたしかにこう言ったんだ。
「あなたの感情が隠されているみたいで、見ていて面白い」
妹はよくも悪くも正直者だった。
それから俺は描いた絵を、たまに見てもらった。はじめはホームスティに来た少女に感想を求めるみたいで、恥ずかしかったが、いつしかそれが当たり前になっていった。
妹のアドバイスはどれも的確でわかりやすかったのだ。
噛み合っていなかった関係が、油をさしたみたいにかっちりと動きだすのがわかった。
ハタからみたら、おかしな兄妹だっただろう。一年経つころには、多少なりとも妹に情というものを感じることができた。
この頃からだ。親父が少しづつおかしくなっていったのは。
近年の不況に煽られてか、仕事がうまく回らなくなってきたのだ。とはいえ腕は確かだ、収入がゼロになるなんてことはないし、著しく減った、というわけではない。ただうまくいかなくなっただけなのだ。親父はそのイライラを酒にぶつけた。よくある話である。
育てられてきた十数年、荒れた父を見るのは初めてのことだった。考えてみれば、苛立ちの元は妹だったのかもしれない。妹は他界した母に似ていたのだ。
酒に酔った父は暴力をふるった。といっても被害者は俺じゃない。
高校に通う俺と中学生の妹では、どうしても帰宅にタイムラグがでる。半分以上が在宅勤務の親父は、その間に妹に暴力をふるったのである。腕力で五分五分になった俺を殴る勇気がないところがあの人らしい。
妹には庇護欲をそそる不思議な魅力があり、まあ当然だとは思うが、俺は親父の暴力から彼女を庇うようになっていった。
父が自棄酒を呷る夜、暴行を恐れた妹は、俺によく助けを求めた。震えが収まるまで、一晩中彼女の手を握る日も多々あった。妹はなにかを失うことを異常に恐れていたのだ。
ギクシャクとした親子関係のまま月日は流れ、俺は高三に、妹は新入生として、この十和森高校に通うようになった。兄妹仲良く同じ高校に通うようになって他人からは、つき合っているように見えたかもしれない。引かないでほしいが、満更ではなかった。兄妹としての愛情の枠を、俺は多少飛び出していたのかもしれない。
事件が起きたのは夏休みだった。その日のことは、最初から最後まで鮮明に思い出すことができる。
夏なのに、湿気が強く、ジメジメとして気持ち悪い日だった。
大会用の絵を仕上げるため、俺は学校にいた。部活の後輩といっしょに息詰まる空間で活動していた時、煮詰まったらしい後輩は、雑誌や広告を切り抜いて、コラージュを作りはじめた。コラージュといっても規則性のあるものではない、ただがむしゃらにノリで切り抜きを貼り付けるだけだ。幼稚な遊びに気付けば俺も夢中になって参加していた。
その日はろくに課題を進めることなく、俺はいつもより早い時間に帰路についた。
玄関扉を開け、少し薄暗い廊下を歩き、リビング前で俺は我が目を疑った。
妹が半裸で歯を食いしばって、泣いていた。あいつはいつもそうだった。引き取ってもらった恩を感じているのか、近所の目が白くなるような、決して泣き叫ぶようなことはしなかったのだ。
頭にカッと熱いなにかがこみあげてきた。
その時の自分の咆哮が今も耳の奥でこだましている。気付けば俺は親父に殴りかかっていた。馬乗りになって、殴って殴って殴って殴って、殴り倒した。
反撃をうけた。胃をこみ上げる膝蹴りをくらい形勢逆転をいとも容易くうけいれた。今度は俺が殴られる番だった。
朦朧としていく意識の中、妹の泣き声だけが俺の耳に響いていた。
もし、という言葉で時を遡ることが許されるなら、この時素直に俺は、親父に殴られているべきだったのだろう。
父のしていることは間違っていると、真摯に、言葉で伝えるのが、息子の役割だったのではないか。母に似ていく妹に、恨みを抱くなと俺は、伝えるべきだったのだ。
カッターナイフが父の胸に刺さっていることに気づいたのは、飛びかけた意識がはっきりと戻ってきてからだった。
ポケットに、無意識のうちにいれてあったカッターを、俺は、自分の命を守るために、父親の心臓につきたてたのだ。
妹のかん高い叫び声だけが、俺の耳に張り付いた。
冷たくなった父親と、黒く乾き始めた自分の手を眺め、俺は呆然と現実に打ちひしがれた。
一時の怒りで、すべてを塗りつぶしたのだ。赦されることではない。ましてや、自分の父親を。
妹は、ずっと泣き続けていた。
警察も、救急車も呼ばなかった。我が身可愛さもあったのかもしれないが、ただ守りたかっただけなのだ。
父を布団とビニールシートでぐるぐる巻きにして庭に埋めた。夏だ。張り付いたシャツと異常に渇く喉がそれを象徴していた。
それから先、俺は、人間としてやってはいけないことをした。
それから数週間後、遺体を隠蔽したのだ。方法は易くない。ただ自宅の庭から場所を移すだけにしても。
父の動かぬ体からは虫がわき、黒い液体がシートから漏れていた。隠しきれなかった臭気が俺の鼻を刺激した。将来を守るため現在を犠牲にしたのだ。
俺は最低を通り越した。
自分でやってて吐き気がする。
父親の臭いじゃない、手のひらについた錆びた鉄の臭い。鼻の奥がつんといたむ。
目をつむってても、ご飯を食べてても、焦点の合わぬ親父の瞳が俺を射抜くのだ。
父は一応失踪というかたちで処理された。
幸いにも俺たちの扶養主として、遠方の祖母が名乗りあげてくれた。妹も俺もそれには感謝している。
あと数ヶ月もすれば、俺たちの住んでいた家は売りに出され、この街ともおさらばだ。家族の思い出はどんどんなくなる。父を失って、俺の心は擦り切れていった。口に出すことはなかったが、寡黙で不器用な父を、俺は尊敬していたんだ。
すべてを忘れて新天地、というわけにはいかない。祖母の好意に甘えることを、俺は赦されない。
どんなに悔やんでも謝っても、足りないのだ。
もう限界だ。あの日のことが網膜にやきついてはなれない。忘れる気なんてないのに、過去にすることを神さまはゆるしてくれないみたいだ。
くだらない俺の人生を、ここまで読んでくれて感謝する。
感謝ついでに一つ頼まれてほしい。俺の望みは妹の幸せ、ただそれだけである。きっとあいつは背負いこもうとする。責任はすべて俺にあるのに。
直接頼める立場じゃない。専属殺人罪は問答無用で死刑だ。それでも俺は、これ以上あらぬ風評で妹に迷惑をかけたくなかったんだ。だからこんなまわりくどい手紙、懺悔、遺書を残している。妹に直接手紙を残しても、意味をなさないだろう、誰かの強い言葉じゃなきゃ、あいつの胸には響かない。この手紙を見つけたあなたなら、俺が誰か、妹が誰か、大方の予想がついているだろう。拙い望みを、あなたなら、かなえてくれると信じている。
責任を押しつけることをゆるしてほしい。手紙を託し、多少の希望を抱かせてもらい、俺はいこうとおもう。
もし、うまくいかなくても気にしないでくれ、全部俺の責任であり、運命なのだから。




