29:涅槃ジャメヴュ
「一つ疑問に思っていたことがある」
誰もいない薄暗い廊下を、彼女の後に続き歩く。音がないので僕らの声だけが虚しく響いていた。
「柴崎陽太の絵には数字が記入されていた。三桁の数字」
このタイミングで切り出すということは、意味のない雑談ではないのだろう。
「たしかにあったね。なんだっけ七百……」
「724。この数値の意味するところが曖昧だったのだ」
彼女の言う通り、柴崎陽太が描いた『shelf』という絵には、プリントされた小冊子ではわかりづらいが、確かにその数値が記入されていた。
「日付じゃないの?スケッチブックにも似たようなこだわりがあるみたいだったし」
「かとも思ったが、おそらく違う。タイトルを思い出してくれ」
「shelfだろ。724となんの関係があるのさ?もしかして語呂合わせ?……なによ、かな」
「そうではない」
呆れるようなため息とともに説明するのも面倒くさそうに彼女は続けた。
「十進分類法というものがある」
「聞いたことがないな」
「日本で使われている図書分類法のことだ。お前も見覚えあるだろう。図書館の案内標識はいずれも三桁の数字で記されている。100番台は哲学200番台は歴史、といった具合にな」
千歳といっしょに行った図書館を思い出してみる。
前々から、へんな分類のしかたとは思っていたが、国の規定でキチンとしたルールがしかれているなんて知らなかった。整理整頓がしやすくするために、そういった番号が用いられるようになったのだろうか。
「柴崎陽太の724がそれだって、十進分類法に当てはめろってこと?」
「そうだ。番号が示すカテゴリーをみるのだ」
「根拠は?」
「タイトルと数字で柴崎陽太は、一種の暗号を記した」
無理やりな気がしたけど、shelfの日本語訳は『棚』、724が棚番号を意味するのなら、一応筋が通っているように思える。
「でも番号は全部キリがいい数字じゃなかったっけ。十進法ならなおさらだ。724なんて細かい数値、僕は見たことないよ」
「学校の図書室などは蔵書数を考え、そこまで詳しく分類はしない。しかし、一桁までで表す分類がある」
「724番は……」
「7類は芸術美術のカテゴライズで、7類2綱4目は絵画の材料や技法をあらわす」
柴崎陽太は美術部だった。だからだろうか。
「いやでもちょっと待ってよ。柴崎陽太の絵が、図書番号を表してるからって、なにかあると決まったわけじゃ」
彼女に聞かなくても、ここまで来れば行き先が分かっていた。僕らの向かう先、それは図書室だ。
「風紀委員、君のショートフィルムを見ていて気がついたんだ。7類の美術の棚の中で、広辞苑のようにケースに収められた本が写っていた。一瞬でタイトルまでは読みとれなかったが、絵画技法について記した本だった」
「まさか、とは思うが」
視聴覚室で彼女が言った言葉を思い出す。死者の墓を暴く、死者は柴崎陽太のことだろう。
「なんらかの意図が私はあると思う」
彼女は呟いて図書室の扉を開けた。
放課後の図書室には人気がなかった。十和森高校には自習室があるので、受験に備える三年生はみんなそっちに行っているのだ。だから放課後まで図書室にいるのは純粋な読書好きくらいなものだった。
慣れた様子でスイスイと棚の間を通り抜ける坂井珠希の後に続いて、僕は迷い子のような心持ちになった。DVD鑑賞などで図書室を利用することはあっても、本が収められている棚に足を向けることはめったになかったからだ。馴染み深い学校の施設だが、初めて訪れたかのような感覚に陥る。こういうのなんていったか、既視感を表すデジャヴの反対語で、たしか未視感、ジャメヴュだっけ。この間の撮影の時に、確かに来たはずだから、その感覚はほんとに不思議だった。
「7類はここだ」
足が止めた坂井珠希にぶつかりそうになる。ぐっとこらえた僕を、彼女は怪訝そうな瞳で見上げた。
「芸術系の棚だよ、風紀委員。そしてそこが、絵画のコーナー」
小さな人差し指が示す一番上の棚の一角に、何冊か日本画や洋画について書かれた本が並んでおり、廊下で彼女が言っていた本があるのを見つけた。
ケースに納められた太い辞書みたいな本だった。タイトルは『絵画材料辞典』、僕には一生縁がない本だろう。少なくとも読書という件に関しては。
間抜けにも口を半開きにしてその本を眺めていた僕の袖がちょいと引かれ、坂井珠希はどことなく頬を赤らめて「とってくれ」と言った。チョコレートの効果が切れたのかと思ったが、子どものような背丈の彼女じゃ届かないから、恥ずかしかったのだろう。
僕はなにも言わずに背伸びをしてその本を棚からとった。あまりの重さによろけそうになったが、なんとか体勢をととのえ、ハイと差し出す。
両手で受けとった彼女は下唇を噛んで、僕をキッと睨みつけた。
「な、なんだよ。取ってあげたんだから、お礼くらい言ってくれたっていいだろ」
感謝こそされても睨みつけられるいわれない。
「重い!」
やっとこさそう呟くと、みるみる赤くなっていった。片手だったとはいえ男の僕でさえふらつく重さの本だ。非力な少女には無理があったのだろう。
「ごめん」
「っっ」
我慢比べをする子どものように小さく唸りはじめた彼女に謝罪をしてから、本を受けとる。
覚悟していたから、よろけることはなかったけど、やっぱり重かった。
外観だけを眺めていてもしかたないので、左手でケースを支えながら本体を引き抜く。思ったよりもすんなり抜けた。空のケースを目の前の本棚の隙間にぽんと置いてから、坂井珠希に見えるように、ペラペラと捲る。
「なんにもないみたいだけど」
二度三度パーっと捲ってみたけど、ページの合間に栞が挟まれているなんてこともなければ、誰かが押し花を作っているというわけでもなかった。最適な太さだとは思うのだが、よくわからない絵の具についての説明が延々とされているだけだ。仮に僕が美術部に入ったとしてもこの本を借りることはまずないだろう。
「むう。ケースの方はどうだ?」
「ケース?」
本体とは違い、驚くほど軽い空のケースを手にもって、マジマジと見てみる。ISBNコードもなければバーコード表記もない、ずいぶんと古い本のようだ。
むき出しの本体だけを先に棚に戻し、空のケースの内側を眺めてみる。「あ」っと声を出していた。
「どうした?」
「封筒が貼り付けられてる」
「ほう」
感嘆の息の横で僕は指を精一杯突っ込み、マスキングテープでとめられた茶封筒をなんとか取り出した。本を痛めないように粘着性の弱いテープを選んだのだろうか。そういえば柴崎陽太は図書委員だった。
「なにが入っている?」
「ちょっとまって二枚あるぞ」
「二枚?」
「ああ、ほら」
二通の封筒を受けとった坂井珠希は、しげしげと眺め、一枚を本棚の上におくと、もう一枚の開け口に止められたセロテープをピリピリとはがしはじめた。
「開けるの?」
「ああ、そっちはダメだが、こっちは大丈夫だ」
「……それってどういうこと?」
よくわからない返答に首を傾げた僕に、彼女は鼻をならして、「そっちには親展って書いてある」手に持った封筒の裏を見せてくれた。『見つけてくれた人へ』と、坂井珠希の開けた封筒に書かれている。
「親展って、誰宛だったのさ」
手紙の作法に詳しくはないが、親展はたしか宛名の人以外は開けないで下さい、の言付けだったハズだ。
「妹君だ」
柴崎陽太の妹は、布田美月。中に入っていたレポート用紙を広げながら、彼女は答えてくれた。
「これが一枚目だな」
そのレポート用紙は、手紙だった。
遺書ではない、手紙だ。
絵に暗号めいた意味をもたせ、示した先が、この手紙だったのだ。回りくどくてイライラしてくるが、柴崎陽太の謎は、ある少女にだけに向けられていたのだから、難易度的にはちょうどいいのだろう。
とにもかくにも、僕はようやく、素の柴崎陽太と会うことができたのだ。




