21:墜落スタンバイ
放課後、屋上に清掃に向かった裕貴と別れ、僕は再び美術室に足を運んでいた。
別れ際の表情を見る限り、渦巻く暗い感情からは、抜け出せたみたいだ。
ただ試しにハンカチを見せてみたが、裕貴の落とし物ではなかったらしい。予想がはずれてガッカリすべきなのだろうが、僕の頬は自然と綻んでいた。仲直りできたからだろうか。
「失礼します」
緩んだ口角を引き締めるように気合いを入れてから、冷たい窪みに手をかけ、美術室の扉をスライドさせた。
「やあ、また来たのか映画研究部。なかなか熱心だね」
一番近くの丸イスに腰掛けていた部長の稲木さんが、朗らかな笑顔で級友にあった時みたいに、手をちょいとあげた。
「あれ、でも昨日、全部撮り終えたとか言ってなかった?
「映研の方で来たんじゃないんです。少し頼みたいことがありまして」
「頼み?あっ、もしかして入部志願に来たとか」
「はい」
冗談めかしてヘラヘラしていた稲木さんの表情が一瞬こわばる。
「え、まじ?」
「あの、映画研究部が廃部になったら入れさせてもらいたいんです」
「も、もちろんいいよ!いやぁ、大歓迎だ。嬉しいねぇ」
「もし廃部になったらですよ」
肯定が予想外だったのだろう、稲木さんは驚きと喜びが混じった笑顔を僕に向けた。
「君には見込みがあると思ってたんだ」
「そ、そうですか。えっと、見学させてもらってもいいですか?」
「おお、思う存分見ていってくれ」
廃部になったら、とは言っているが、僕にはすでに部を無くす気などなかった。
部員集めの案件を今も必死に練っている。規定の部員数さえあれば、生徒会も考えてくれるはずだ。
僕の思考の変化は裕貴の影響によるところが大きかった。
変わろうとしている裕貴は、それでも過ぎ行く年月の中、変わらず僕を思い続けてくれていたのだ。
流れに流されてあらがおうともしなかった僕とは違う。
「それじゃ挨拶だけしとこうか。昨日も軽く紹介はしたが、今度はきっちりだ」
「はい」
成長する。肉体的にじゃない、精神的に。肉体が成長してもそれに宿る魂は健全でなければ意味がない。
そのために、僕は柴崎陽太の自殺に関する件を、解決とまではいかない、納得行くまで見届けようと思ったのだ。
「んじゃ、いくか」
よほど驚いていたのだろう、持ちっぱなしにしていた鉛筆を近くの机においた彼に連れられ、作業をする他の部員に挨拶をする。
「見学に来ました長山京です。よろしくおねがいします」
その中には布田美月の姿もあった。
教室にいる部員は稲木さんを含め、5名。昨日よりも人数が減ったわけを、稲木さんは頭を抱えながら、教えてくれた。
「中間が近いからね。勉強という大義名分でサボってるみたいだ。それから、昨日も説明したと思うけど、地元の絵画教室とで掛け持ち入部してくれてるやつらもいるからさ。最近そっちの方も忙しいらしくて」
サボったメンツのなかに、布田美月がいなかったことを、自分の行動が徒労に終わらずに済み、静かに喜んだ。
「ところで長山くんは入部するとしたら、何を主に活動する気だい?」
「そうですね」
語尾を間延びさせ、不自然に時間を稼ぎながら、思考を回転させる。
「やっぱり絵ですかね。てんで素人ですけど、上手くなりたいんで」
「いい気概だ。君なら絶対にできる」
「や、やめてくださいよ」
実力未知数の僕にたいし、そのおべんちゃらはお世辞にもなっていないだろう。
自己紹介をかねた挨拶を何度か繰り返し、ようやく人心地ついた僕は作業をする布田美月の後ろにイスを置いて腰を下ろした。同じ1年生で絵を描いているのは、今日いる部員の中では彼女だけだったから、というもっともらしい理由をつけてだ。
「見させてもらっていい?」
「どうぞ」
こだましそうなほど、悲しく澄んだ声だった。
制服の上から作業用のエプロンをつけており、それが色気を閉じ込める役割を果たしているみたいだったが、それでもなお、彼女には言葉で表せない不思議な魅力を放っていた。レンズの先の瞳は、いったい何を見ているのか、尋ねてみたい衝動に駆られる。
「綺麗な蝶だね。見てると虜になりそうだ」
そんな気持ちをグッとこらえた代わりか、彼女の筆が描き出す世界の感想を僕は呟いていた。
描かれていたのは、青い羽根をもつ蝶。
描き手は物憂いそうに僕の方をちら見すると、すぐにカンバスに視線を戻した。無言の威圧を肌で感じる。
「ごめん。邪魔だったら、向こうに行くよ」
「別にいいです」
席を立とうとした僕に、冷ややかな声がかけられた。
「あ、ありがと。邪魔しないように気をつけるよ」
再び腰をおろす。どうやら雑談しながらも、彼女が集中を欠くことはなさそうだった。
僕は安心し、黄昏時のこの空間の居心地の良さを噛み締めてから、口を開いた。
「なんていう蝶々だっけ、それ。結構有名だよね」
鱗粉を振り撒きながら、緑の中を飛び回る青い蝶。
絵の具では、光によって変わり行くその美しさはなかなか再現できそうにない。曖昧な僕のイメージを固まらせたのは、ひとえに彼女の画力による。
「モルフォ蝶」
僕の質問に、彼女は端的に答えた。
「そうだ。南米にいる珍しい蝶々だよね。乱獲しすぎて数が減ってる」
彼女は小さく顎をひいた。テレビで何度が見たことがある。
「たしか森の宝石って呼ばれてるやつだ。本当にキラキラしてて宝石みたいなんだよね」
「モルフォ蝶の色は、羽根の表面の微細構造によって作り出されているんです」
彼女は筆を動かしながら、僕には一瞥もくれないで唇を開いた。
「普通の色じゃないってこと?」
「はい。羽根の微細な襞で青の波長の光だけを反射させるんです。光は強まったり、弱まったりして、色素では出せない色を作っているんです」
「難しいな。複雑な色合いなんだ。でも昆虫にも絵にも詳しくない僕でもわかったんだから、再現度は高いよ」
僕は誘うように笑いかけたけど、彼女がにっこりすることはなかった。
なにを考えているのかわからない仏頂面のまま、作業をただ続けるだけだ。なんだか坂井珠希を思いだしたけど、彼女とは全くちがった無言である。
坂井珠希の方は、何か考え事をしていて唇を結んでいるとわかるのだが、布田美月に至っては、重要なこととどうでもいいこと総てが入り混じっていて判断がつかない。なにを考えているのか、霞を掴むようだ。
「構造色っていうんです」
ぽつりと彼女が言葉を落とした。突然の呟きに僕は思わず「え?」と尋ねかえしてしまう。
「複雑に絡みあった、そういう色のこと。シャボン玉とか孔雀の羽根とか、外人の瞳の色とか」
僕は自分の息を飲む音を耳の奥で捉えた。
ジッとこちらを見つめる青い瞳のビジョンが浮かぶ。
「構造色か。絵で描けといわれたら、僕じゃ絶対に出来ないな」
「……」
「儚くて幻想的ないい題材だね。ぜひ完成品も見せてよ」
彼女の筆は一瞬止まって、微かだが、小さく頷いてくれた。
布田美月が学校の屋上から、蝶が舞い遊んでいるところを羽根を毟り取られたみたいに、地面に垂直に落下していく。
ごしゃ、という鈍い音をたてて、アスファルトに広がるのは赤い絨毯。
悲鳴はあがっていないのに、僕の耳にはいつまでも誰かの叫び声が響いていた。
「気持ち悪くなってきた」
全部嘘だ。考えうる中で最悪のイメージ。僕の能力は妄想しかない。
無理やり考えてみたが、違和感はなかった。
僕はそのイメージを引きずりながら、たくさん並んだスケッチブックから、柴崎陽太のものを選び手に取る。
昨日は結局中を覗くことはなかったけど、わざわざ言い訳までしてここに来たのだ。
「落とし物は見つかったかい?」
衝立のような壁を一枚挟んだ向こうから稲木さんの声が聞こえてきた。僕はそれに「まだです」と叫び返し、
「すぐ見つかると思うんで気にしないでください」
スケッチブックのページを開いた。
コンクールに出品されるレベルの持ち主だけあって中の絵は総じてレベルが高かった。
鉛筆でささったと流したようなものばかりだったが、どれも写真のように精巧で、思わず「ほう」と感嘆の息が漏れてしまう。
柴崎陽太のスケッチには、人物画が多く描かれていた。
僕の知ってる先生から、知らない彼の友達まで。その人物の近くには漫画家のネームのように短い説明文が添えられている。例えば養護教諭の山内教諭の側には『保険の先生』、彼の友人の近くには『友達 山田』、どれも日付とセットで綴られている。彼の癖なのだろうか。
スケッチには色んな人物が収められていた。モデルとなった人物は、誰もが自然体であり、おそらく許可をとっていないのだろう。写生といっても脳内のその人物を描くようにしていたのかもしれないが、技量もなにもない僕には検討もつかないレベルだ。
ページを捲る度に驚きが広がる。
『警官』『クラスメート』『消防士』『校長』『メッセンジャー』『警備員』『友人』『生徒』……。まるで画集を見ているようだ。
その内の一枚に僕は、思わず吹き出した。
それは椅子に座って分厚い本を読む坂井珠希の人物画だった。彼女の近くに綴られていた文字は『猫みたいな生徒』。さすが絵を描く人といったところで、よく観察できている。
僕はにやにやしながら、またページを捲り、視界から飛び混んで来た情報で全ての思考が停止した。
「これ、は」
描かれていた人物は、布田美月。柴崎陽太からみて部活の後輩である彼女の説明文は、僕の考えるものとは大きく違っていた。今までの作品では、部員の説明文は決まって『部員 八谷』とか『副部長 稲木』とかだったのに彼女に対してはそうではない。『恋人』でもなければ、『友達』でもなく、ふざけてこんな表記にしたとも思えない。
何気ない微笑みを描かれた布田美月のスケッチは今の彼女と違い、穏やかな雰囲気を醸し出していた。やはり整った顔立ちをしていることが、よくわかる画だ。だが、描かれた彼女の横に綴られた説明、これは、
「おーい。まだ探してんのかい」
「あ、いえ」
どうやら黙り込んでスケッチブックを見ていた僕を心配してくれたらしい。
彼がスケッチブックが並ぶ水道前に顔を覗かせる前に、柴崎陽太のそれを戻して、ポケットから屋上で拾ったハンカチを取り出す。
「探し物は?」
「あ、はい、おかげさまで。やっぱりここで落としてました」
ひょっこりと現れた稲木さんは軽いノリで尋ねた。
「へぇ。なにを落としたんだ?」
「えっと、ハンカチです。あの、それより、今から映研の活動もしなくちゃならないんでこれで失礼します」
「おお、そうかい。またきな。熱烈歓迎っすから」
「ありがとうございます」
無理やり切り上げるように僕は美術室を飛び出した。坂井珠希にいま知ったことを話したかったのだ。




