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19:少年チェック


 緩慢に過ぎる時計の針は昼休みに終わりを告げ、時刻はゆったりと五時限目に突入していた。言い訳もなしに二人もサボったとなると、ちょっぴり問題になろう数Aの授業だが、朴訥として争い事の嫌いなあの先生なら出席簿にペケ印をつけられるだけで済むだろう。

 優等生の裕貴がサボるなんて、僕の中では天変地異の前触れレベルの話なのだけど、僕ら二人がいなくても授業は何事もなく普通に進められる。そう、なにも問題はないのだ。

 パイプに腰をおろしたままだった裕貴は目尻に溜まった涙をブレザーの袖口で拭うと、懺悔を始めるみたいに、一回天を仰いだ。

「最低だ、私は」

 10月の空は高く、雲がプラネタリウムの丸天井みたいに僕ら包みこんで広がっていた。

 裕貴は耐えきれなくなったのか、やおら立ち上がると、縁に向かってふらふらと歩き始めた。頼りない足元に、なにがあっても対応できるよう身構えながらも僕は彼女の数歩後ろに続く。

 大丈夫。大丈夫だ。

 屋上は緑色の針金で編まれたフェンスに囲まれている。乗り越えようとしても、それ相応の時間がかかるだろう。

「ここで坂井珠希と楽しそうに話してるのが、耐えられなかったんだ」

「坂井、さん?」

「最低なやつだよ、わたしは。思い出を塗りつぶそうとしてるんだ」

 裕貴が言った名前は、柴崎陽太ではなく、坂井珠希。なぜだ?

 金髪の少女の顔が浮かぶ。さっき手を掴んだ時も、裕貴は彼女に謝っておいてくれと、叫んでいた。

 混乱は混乱を呼び、ぶちまけられた玩具箱のように僕の脳内をグチョグチョする。

「がむしゃらに走ってたらいつの間にかB棟の廊下だったんだ。でも京に呼び止められてから、私はここに足を運んでいた。誰にも聞かれたくなかった、ってのももちろんある。だけど、やっぱり負けたくないってのが、一番の理由だったんだと思う」

「ちょっとまってくれ、裕貴」

 たまらず僕は声をかけた。

 手のひらに網目を食い込ませたまま校庭を見下ろす彼女が、飛び降りをしようと考えているようには、どうしても見えなかったからだ。

「君は屋上が封鎖されてないことを知ってたな」

「教えてくれたのはお前だろ。ガラスカバーがハズされていたって」

「そう、非常錠だ。ここのドアノブはちょっと前までそれで固定されていた。だけど裕貴、そもそも君はなぜ非常錠の存在を知っていたんだ?普通屋上に来る機会なんてないはずだぞ」

 違和感の正体はそこだ。

 まず、自殺した三年生である柴崎陽太の名をかたり、屋上の鍵を手にいれた生徒がいる。そいつは屋上を開放した後、鍵を職員室に返していない。それを知った事務員らは、代替措置としてガラスカバーでドアノブを回せないようにしたのだ。

 ここまでの事情すら僕は坂井珠希から教えてもらうまで知らなかった。朝礼で言われた記憶もないし、この情報に精通している時点でおかしいのだ。

 それに、ここからは僕の憶測だが、ドアの鍵自体、カバーでドアノブを覆う前にかけられたはずだろう。柴崎陽太の名をかたる生徒に本体キーが盗まれていようと、合い鍵かなんかはあるはずだ。

 そのカバーとドア本体のロックすら解かれていることを知っているのは、僕と坂井珠希を除けば、屋上の鍵を持っている柴崎陽太の名をかたった飛び降り志願者以外いないはずではないだろうか。

「私は園芸部員だぞ。屋上を使ってた部はうちらくらいのもんだ」

 裕貴は迷いのないはきはきした口調で、そう答えた。

「お前が言ったんだ。高校に入ったばかりの私に、『女らしい趣味を持ったら』って。だから私は空手をやめて、園芸部に入部したんだ。花言葉を必死になって覚えちゃって、ばっかみたい」

 自虐するみたいに吐き出した裕貴は、芸が失敗したピエロみたいにぎこちない笑顔を作った。

「ま、まってくれ。園芸部と屋上、なんの関係が」

 裏庭の花壇でパンジーを咲かせるイメージしかないそれが、なんで屋上なんかに。

「例えば、そうだな。今日の放課後、園芸部員で屋上の掃除をすることになってるんだ。カバーがなければ今まで通り屋上にいけるからね。お前からそのことを聞いてすぐに部長に提案したんだ」

「掃除?園芸部員が慈善事業?」

「下を見てみろ」

 言われると同時に顔を下に向ける。アスファルトは土で黒ずんでいて、ようく観察してみると、鉢植えの跡らしきものも見えてくる。

 そうだ、思えば変だった。始めて坂井珠希と会った時、彼女は上靴で土の塊をぐしょぐしょにほぐしていた。それができるということは、鉢植えが少し前まで並んでたということじゃないか。

「けっこう汚れてるだろ。雨で流されるの待ってたんだが、ここんとこ降らないから、仕方なく部員で掃除することになったんだ。こびり付く前にな」

「は、鉢植えが置いてあったのか」

「ああ、鍵がパクられて封鎖決定したけど、前まで許可さえとれば簡単に来られたんだ。日当たり良好だし、プランターでの栽培に最適だったよ」

「やけに君が屋上に詳しかった理由はわかった。だけどなんで鍵がかかってないことまで知ってたんだ?」

 僕は間抜けなことに、自分の憶測がはずれて焦っていたのかもしれない。

 裕貴は、一転感情を堪えるような表情で答えてくれた。

「見てたから」

「見てた?」

「好きな人が、別の女の子と話してれば、気になるのは当然だろ」

 照れる、というより、過去の自分を恥じるような顔で彼女は呟いた。

 僕は、小さく「ああ」と出来そこなった返事を反射的に返すだけだった。

 昨日の昼、踊場にしゃがみこんだ裕貴は、たしかに落ち込んでいた。

「さっきだって、朝のことを謝ろうと追いかけたのに、坂井珠希と一緒にいるのを見て、カッとなっちゃったんだ」

 裕貴はくしゃりと破顔した。

「なんで鍵が開けっ放しになってるのか知らないけど、私から先生に報告しとくよ」

「あ、ああ助かる」

 いつもの調子を取り戻したらしく、ひらりとスカートを翻して僕の方を向いた。

 それから、数秒お互いににらめっこに近い状況で見つめ合う。先に口を開いたのは裕貴からだった。

「私は小学生のころからお前が好きだった。鈍感なのも大概にしろ」

 僕はなにも言えずに言葉を飲み込む。

「お前が別な女を好きだろうが、関係ない。私はお前が好きなんだ」

「朝にも言ったけど、僕は別に坂井珠希が好きなわけじゃ」

「ほんとかぁ?」

 僕を覗きこむように前かがみになった裕貴に押され、「う、あ」と空気を吐き出す。

「京、それでどうなんだ。私は自分の気持ち、すべてを吐露したぞ。付き合ってくれるのか?」

「ぼ、僕は」

 始めて受けた告白が、気の合う友達だと思っていた少女からのものなんて想像したこともなかった。

 なんて答えたらいいのかもわからない。裕貴のことは、好きだけど、この感情が友情と愛情の天秤どちらに傾いてるのか、自身のことなのにそれすらも脳を支配する熱でぼんやりしているのだ。

 返事をできずに酸素を求める金魚みたいに口をパクパクさせてたら、裕貴はやがて呆れるように息をついた。

「まあ、いいさ。ただこれだけは知っておいてくれ。私はこの思いを風化させる気はない」

「裕貴……」

「京は恩人であると同時に、憧れの人でもあるんだ。返事は今してくれなくて構わない」

「ごめん、僕が優柔不断なだけだ」

「ずっと待ってるよ。今までだってそうして来たんだ。たとえ10年後だろうと、私は待ってる。いいか京、私はいつか必ずお前を振り向かせるからな」

 彼女はその後「坂井珠希より先に」と小さく語尾に付け加え、

「宣戦布告だ」

 舌をだして、あっかんべーをした後、スタスタと普段と変わらぬ調子で出口に向かって歩きだした。

「どこにいくの」

 唖然としかけた僕は裕貴の背中にそう質問を浴びせていた。

「今更授業に出るわけにもいかないしな。少し一人でぶらぶら歩いて頭を冷やすよ」

「そう。僕も適当に時間潰したら六時間目に出るよ」

 お互い一緒になって教室に帰る気にはなれないらしい。僕の場合は気恥ずかしいからだが、裕貴はどうなんだろう。

 ドアノブに手をかけたままピタリと動きを止めて彼女は物語の続きを朗読するように口を開いた。

「両親との話をしたのは京が始めてだよ」

「裕貴……」

「だけど不思議だな。前々から、こうなることを予感してたみたいに今は落ち着いている」

「力になれないかもしれないけど、僕にできることがあったらなんでもする」

「まったくお前は卑怯だ。そんなこと言われたら頼りにしちゃうじゃないか」

「あー、と。まあ、問題解決には力を合わせるのが近道になるしさ。もし苦しくなったら、背中をさするくらいなら僕にもできるよ」

「京、私は必ず、女らしさを磨いてお前を落とす。今日この時を忘れるなよ、タコ」

 彼女は最後に振り向きもせずにひらりと手をあげて屋上からでていった。

 裕貴らしい退場の仕方に僕は苦笑して、一人になったことで気が緩んだのか、崩れ落ちるようにその場にしゃがみこんだ。

 裕貴と知り合ったのは、僕に自我が芽生える前のこと。そんな昔のこと、もう忘却の彼方だし、もし仮にタイムスリップできたとしても、僕に当時の長山京の行動は読めないだろう。もはや別人なのだ。

 もし裕貴が過去の人物像としての僕を好いているのだとしたら、今の僕を『好き』というのはお門違いもいいところだ。

 回顧趣味はないけれど、確かにあの頃は、無邪気で自分の底を自分で決めるなんてことはしなかった。将来の夢の欄に書いたことは覚えてないけど、間違いなく今からみたらバカげた夢に描いたに違いないだろう。

 理想と現在の狭間で揺れていた、あのころに戻りたい、と願うわけではないが確かに言えるのは、どこかドライになった今の自分はあまり好きじゃないことくらいだ。

 裕貴は変わろうとしている。男勝りとからかわれた自分の女を磨こうとしている。幼なじみが改革中だというのに僕だけ成長しないというのはあまりに寂しすぎるのではないか。


「恋の灯は時として友情の灰を残す」


 声がしたので頭を上げた。いつの間に近寄られたのだろう、屋上に現れた人物は、確認するまでもないが、タオルケットを羽織った坂井珠希に他ならなかった。彼女もまた僕らと同じように五限目をサボったらしい。

「見てたのか」

「見てはない。断片的に会話が聞こえてきただけだ。出歯亀する気はなかったが、ただ素直に君の青春を祝わせてもらうよ」

 僕の正面にちょこんとしゃがみこんだタオルケットお化けは平坦な口調で続けた。

「お前が突然現れたあの女生徒、……裕貴、と言ったか?彼女の後を追いかけて駆け出すから何事かと思ったのだ」

「見せ物じゃないよ」

「そうカリカリするな。私とて心配していたのだ。あんな表情のやつをほっとくのは、忍びないだろ。まさか嫉妬心を燃やされてるとは思わなかったが、彼女の隘路はなかなか複雑のようだな」

 坂井珠希に嫉妬心を燃やす。考えてみれば妙な話だ。どこから誤解が始まったのかわからないが、あのハンカチのイニシャルが紛らわしいことに……、あ、裕貴にハンカチを返すのを忘れてた。

 園芸部員で屋上に来る機会のある裕貴なら、これを落とすこともあっただろう。僕はポケットから取り出して、坂井珠希の推理力の高さを賞賛した。

「それにしてもこのハンカチの持ち主、裕貴だってよくわかったね」

「ハンカチ?なんの話をしている」

「だから裕貴のイニシャルの」

「落とし物のハンカチなら、持ち主は彼女じゃないぞ」

「は?」

 会話が噛み合っていない。

「なに言ってんだよ。イニシャルYHって縫われてんだろ。だったら裕貴のじゃん。返し忘れてたけどさ」

「そのハンカチは男物だ」

 たしかにデザイン的には、男物に間違いなかった。

「ましてや彼女がそんなの使うわけないだろ」

 そうだ、裕貴は筆箱でさえ女の子っぽいものにしていたんだ。

「ハンカチの持ち主は、柴崎陽太の名をかたったやつだ」

 彼女はきっぱり言い放った。



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