1:屋上フォトグラフ
世界が変わる瞬間は、誰の目にも留まらない。
1999年の七の月、破壊の大王アンゴルモアは、僕の知らないどこかに降りて、僕の知らない内に天に帰った。
同じように人生が変わる瞬間も、人気のない場所でひっそり、名も知らぬ星が爆発するみたいに突然起こる。
義務教育を終えた僕たちに訪れる未来はどこまでもシビアで、いつしか世界を変えるナニカが自分たちの目の前に訪れないことを太陽が東から登るのと同じくらい絶対不変な心理にしていた。
だけど人生においての平凡は、ある出会いにより過去のものに変化した。もちろんこの個人的な邂逅が、連綿と続く歴史に対し、ちっぽけな塵に等しいこともわかっているが、ただ無味乾燥な日々を食いつぶす僕にとって、坂井珠希との出逢いは、一種の特異点だったに違いない。
空気はしんとしていて、湖畔のような静けさを保っていた。
7時、登校するにはまだ早いその時刻に、朝日に照らされた廊下を歩く奇特な生徒は、やっぱり僕だけだったようだ。
ビデオカメラ越しにみる光輝く廊下は、それだけで物語の一部分のようだったが、あくまでここは目的地への中間点にすぎない。
「7時11分、B棟廊下」
映像として編集するときに混乱しないよう、その場所を音声で記録する。
僕の所属する映画研究部の廃部が決まったのは、今月の始め、泰礼祭の中止発表がされてすぐのことだった。泰礼祭とは僕が通う十和森高校の文化祭の俗称である。
会議室で通告を受けた時は落ち着いていたが、1ヶ月ほどで、麻痺してたらしい寂寥感が湧き上り、このまま廃部にされるより、何かカタチあるものを残したいと活動することにしたのだ。当初は泰礼祭に向けての活動だったが、中止となった今ではただの暇つぶしだ。
ああ、正確には猶予だったか、と一人ごちたが、存続条件が、来月までに規定部員数三名となにか有意義な活動実績では、どう足掻いたってどうしようもない。事実的に廃部通告だ。
世界が僕に与える変化は、このよう望まぬものばかりだった。
ハンディカメラを回し続け立ち入り禁止のロープが張り巡らされた屋上へと通じる登り階段の前に到着する。
スイッチを一旦切り、ロープをスパイ映画の警報装置を乗り越える主人公みたいにして避け、階段に足をかける。
人に見られたらマズいからこんな早朝に行動しているのだ。
屋上の利用が許可されるのは、非常時限定であり、普段の学園生活で足を踏み入れる機会などまずなかった。だからこそ希少価値があるのだ。
階段を登りきり、異様な存在感を放つドアに半年の学校生活で初めて手をかける。重厚そうな扉だったが、意外にもすんなり僕の侵入を許してくれた。火災の時に閉まっていては困るからだろうか、鍵もかかっていなかった。
扉を開けた瞬間、爽やかな朝の風が僕を包み込み、見事としか言いようのない景色が出迎えてくれた。街が黄金色の曙光に照らされている様は圧巻だったが、見とれているだけでは目的は達成されない。
停止していたビデオカメラを再び起動させて、目元に持ってくる。
こうした違反行為も、個人が楽しむ分には許されるだろう。
高揚した気分で撮影開始した僕の背後で、開けっ放しにしていたドアが音をたて勢いよく閉まった。澄んだ朝の空気は、存外大きく震えたが、それを受け取る鼓膜は僕の持つ2つしかない。
あくびが漏れそうになるのを抑えカメラを回す。
穏やかな空気の中で感じる孤独に、僕は確かに“生”を感じていた。吹き上げる風にシンクロするように、身体を構成する細胞一つ一つが呼吸をしているみたいで、味わったこともない不可思議なノスタルジックが僕の意識を優しく支配する。
だから、次の瞬間、
「何しにここに来た?」
その気分をぶち壊す何者かから声をかけられるなんて全くの予想外で、文字通り心臓がどきんと跳ね上がった。
どうやら先客がいたらしい。
こんな時間に一体誰だ?見回りの事務員?宿直の先生?最悪頭の固い教室陣からの大目玉を覚悟した僕の思いはすぐに思い過ごしと相成った。
視界に捉えた人物は、制服を着用しており、僕と同じ、高校生という身分だったのだ。しかし、緊張感は拭い去れない。
制服以外の要素で、そいつは日本の寂れた高等学校に不釣り合いな容姿をしていたからだ。
彼女はこっちを鈴の張ったような目でジッと睨みつけていた。青い瞳と金色の髪を持つ、スクリーンの向こう側にいそうな女生徒だ。
小柄な外国の少女は高いフェンスの壁を背景に、もう一度「何しにここに来た?」と警戒を隠さぬ声音で問う。
「あ、いや」
どもる自らの声が気付け薬になったのか、混乱から脱出し、忘れかけていたカメラを下ろしてから、僕は浅く呼吸を整えた。
彼女は黒くくすんだタイルの上で、その青い双眸を僅かに細めた。
「学校をビデオに記録してるんだ。機材を天日干しする意味も込めて」
「こんな時間にこんな場所で?」
無言で頷く僕に、地面に散らばった黒い土の玉を上履きでぐしょぐしょにほぐしながら彼女は唇を尖らせた。
「無許可だろ。あまり誉められた行為ではないな」
「そうだけど……。それはお互い様じゃないかな」
「私がどうだろうと、お前が変質者なのには変わりない」
「もう一時間もすればいつも通りの日常に戻るさ。僕だって暇じゃないし」
異常な出会いに辟易する僕としては、そうそうに用事を済ませこの場を去りたいというのが本音なのだが、それでは彼女に負けた気がしてしまう。あくまで気分の問題だ。
「忙しいやつが朝っぱらからふらふらするはずないだろ。暇人め」
ほんのり赤みがかったほっぺをもごもごさせながら、彼女は僕をバカにするように言った。どうやらあめ玉でも舐めているらしい。
「あまり言いたくないけど、君もだからね。それはそうと、そんな端っこ危ないよ」
「余計な忠告をありがとう。口を閉じてろ。なんの権限があって私に命令してるんだ」
親切心の忠告にぞんざいな態度を取られて頭にこないやつはいない。ムッとしながら僕は眉をしかめた。
「命令じゃなくて注意。それに今は関係ないとはいえ、僕は風紀委員だから」
「規律を守り模範となるべき存在が校則を破っているではないか。ずいぶんいい加減な風紀委員だな」
言いかえせないのは、どんな言い訳も論破されそうだったからだ。完全に失言だった。
汚れた上履きの靴底をまだ綺麗なアスファルトにズリズリとこすりつけ土を落としながら、
「嘆かわしい限りだ。自由を謳う十和森の校風は生徒の責任により成り立っているというのに、規律をただすべき風紀委員がこれでは」
死体に銃弾を浴びせるようにモラルを欠いたため息混じりの正論が、僕の鼓膜を撃ち抜いた。
「だから君も校則を破ってるっんだって」
「私には自分が信じる真っ当な理由がある。ビデオを持って校舎を徘徊する根暗なヤツとは違うのだよ」
「最後の思い出作りくらい自由だろ?ありふれた日常って忘れやすいから、記録しておくに越したことはないと思うけど」
「最後?また妙なことをいう。お前はまだ一年だろ」
僕の意見をぶった切っての発言に、唖然としかけたが、襟章の色で学年が分けられているのを思いだし、
「そうだけど、クラブが予算会議で来月には廃部になっちゃうんだ。部員は僕だけだったけど、やっぱり少し寂しいものがあるからね」
新体制となった生徒会に恨みを述べるわけではない、むしろ三年生がぬけてたった一人のクラブの存在を省いたのだから、立派に活動しているだろう。だけど少し、居場所が奪われたみたいで不快だった。
「それで学校をビデオで撮ってまわってる、ってわけ。最後の部活動で出演者がいらない作品作りをね」
「なるほど。屋上なんて余程なことがない限り来ないもんだと思っていたが、まあ頷ける理由だな。手にあるビデオカメラがその証拠みたいだ。まさかカムフラージュというわけではあるまい」
「カムフラージュって、なにをごまかそうってのさ」
「そうだな。例えば、」
言いかけて、彼女はイタズラを思いついた子どもみたいに小さく口角をあげ、すぐに「いや、なんでもない」と言葉を濁した。
「よくわからないけど、誤解はとけたみたいだね。なら活動再開させてもらうよ」
回しっぱなしだったカメラのファインダーを再びのぞく。
レンズ超しになった彼女は、慌てたようにポケットからなにかを取り出し、ソレを口に含んだ。
一瞬でよくわからなかったが、どうやらキャンディのように包まれた一口サイズのチョコレートみたいだ。おそらく今までもごもごと口に含んでいたものもそうだったのだろう、と推測してみる。
「まさかそれ録画中か?あ、赤いランプがついている」
先ほどまでの気丈な態度が吹き飛んだ。言葉をつっかえつっかえに彼女はふるふると震えながらカメラを指さす。
「苦手なの?」
僕の問いかけに、彼女は仮面で覆うように顔を両手で包みこんでこくんと頷いた。
「き、嫌いなんだ。他人の目に曝されるなんて反吐がでる。早くしまわないと、お、怒るぞ」
「わかった。悪かったよ」
背景にミスマッチとはいえ、撮影をかじっている僕が画になる彼女を記録したいと思わないはずがなかった。しかしながら、あくまで目的は屋上の撮影であり、金髪の少女の撮ることは本来は含まれていない。
君なんて眼中にないからどいてくれ、と言う気もなかったし、肖像権やらを考えたら、個人の意思は尊重してしかるべきだろう。
僕が腕を下ろすと同時にまた、放り込むようにして一口チョコをほおばった。
露骨にパニックっているのがわかる表情だったのが、すぐに幸せ一色に染まる。なんていい顔でチョコを食べる女の子だ。広報担当者がみたら即刻CM契約の話に移ることだろう。
そんな微笑ましい気持ちになったのもつかの間、一瞬にして元の不機嫌面に戻って彼女は言った。
「話がわかるやつで助かった」
カメラが静止した途端、人を観察する猫のように目を大きくする。
「こんな時間に屋上に来るなんて、……自殺志願者かとも思ったが違うらしい」
突然上げられたワードに、僕個人の空気が少し重くなったように感じた。
文化祭が中止になったのは三年の男子生徒が近くの山で首を括って死んだからだ。
その単語自体、学校全体で一種の禁止ワードみたいになっている。
それをわかってて僕を「自殺志願者」に喩えるなんて不謹慎極まりないだろう。
彼女は僕を値踏みするみたいなジト目で睨みつけたまま続けた。
「それで」
「ん?」
「いつまでここにいるつもりだ?」
「あ、いやもう少し撮りたいかな」
「もう帰れ。邪魔だ」
後からやってきたのは僕の方だとはいえ、その言い草はあんまりだ。カチンとしながら、僕は言った。
「少し外してくれれば数分で撮り終わるよ。大体君こそこんな時間に屋上になんの用だよ」
「うむ。そうだな、合唱コンクールの練習をしているのだ」
「合唱コン?それはまた」
11月の中間試験後の行事に合唱コンクールという田舎の中学生しかやっていないようなものがある。毎年一年生(僕もだが)を対象に、コーラスを強制するこのイベントの支持率は著しく低い。来年にはなくなるんじゃないだろうか。
そんな誰も得しないようなイベントに尽力する生徒がいるなんて思いもしなかった。
「だからさっさとお前がここからいなくなってくれることを望む」
「人に聞かれてナンボじゃないの?歌ってのは」
「まだ聞かせるレベルではないから練習しているのだ。察しろ」
ストレートにさっさと出てけ、と言われた僕は、この場所の所有権を主張するわけでもないので早々に屋上を去ることにした。
整った顔立ちの、金髪の少女が歌っている姿を見たかったのは正直な話だが、本人が拒否しているのだから仕方ない。
「それじゃ練習頑張ってね」
軽く手をあげ扉に手をかけた僕に浴びせられたのは不機嫌そうな「ふん」という鼻息だけだった。




