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9:疾走ダイアローグ

 協力要請は、おいそれと頷くことのできないものだった。

 切羽詰まっているようではなさそうだし、何より人の命をアレコレ指図できるほど、僕の人生経験は豊富ではなかったからだ。夭折した先輩の後を追おうと奮起する謎の自殺志願者の意思を砕くなんてこと、妙におこがましく感じてしまう。

「便宜上彼と呼ばせてもらうが」

 タオルケットからはみ出した金色の髪が、風もないのにフワフワと揺れていた。

「彼は屋上に上がっただけでまだ迷いを持っている。他人が命をドブに棄てようと、私の知らぬ話だが、止められるうちに看過するなど寝覚めが悪いじゃないか」

 とは、坂井珠希の言い分である。その意見に僕は全面同意だ。結局のところ、人間にとって重要なのは、死に行く誰かではなく、自分自身のこれからなのである。

 目の前で救えたはずの命が消えていく、死者の念に悩まされるのがいやだから、人は救える者は救おうとするのだ。その証拠に、世界の果てで飢餓で苦しむ人たちのことを、頭でわかっていても、実際に見たわけではないから、絵空事にしか思っていない。

 今までの僕は絶望する人々に、愛の手すら与えない、ただのちっぽけな芋虫だった。そんな芋虫に、他人の命を預かる資格なんてないだろう。

 だから僕の選んだ選択は、日本人のお家芸、「少し考えさせてくれ」という保留の皮をかぶった、辞退であった。


 送迎を申し出てくれた鳥山千歳の好意に甘え、恐怖さえなければそこそこ快適なドライブが自宅を目指して開始された。  暗い車内に会話なく、オレンジ色の街灯が、速度に比例して、豪腕選手の投球のように前から後ろに流れるだけだ。

 純粋な睡魔からくるあくびを噛み殺し、薄暗闇の景色をぼんやりと視界に収める。

 非日常への切符はここまで。

 明日からは、また平和な毎日が待っている。それでいいじゃないか。

「長山京。一つ忠告をしておく」

「……なにを?」

 重くなりかけた瞼を押し上げる。ハンドルを握る鳥山千歳が僕の名を呼んだ。

「先生を見捨てたりしたら、あたしはあなたを許さない」

「言ってる意味がわからないんだけど」

「あなたは坂井珠希という存在を知った。それだけのこと、それだけのことだけど、それを無視することは許されない」

 ラジオも音楽もない、エンジン音だけの世界に告げられた忠告は、この世の理を表しているかのように僕の鼓膜を深く突き刺した。

「ひょっとして、自殺志願者探しを手伝う手伝わないの話をしてるんですか?」

「それも含めてよ」

「どうするか最終的判断は僕の自由意思だし」

「そうではないの」

 キッパリと言い放つとちらりとも僕に視線を寄越さぬまま、彼女はじんわりとアクセルを踏んだ。スピードメーターの針は徐々に上がっていき、80キロ代にさしかかる。お仕事です、白バイ隊員。

「先生が自発的に助けを求めたのは、……あなたが始めてなのよ」

 それが、悔しいのか、なんとも形容しがたい震える声で鳥山千歳は僕にそう言った。

「そう、なんだ」

 深夜の公道を唸り上げて疾走する自動車は、僕の恐怖を再燃させるには充分だった。

 運転手は、ハンドルを握りしめ暗闇の広がる道路を親のカタキのようにジッと見据えている。

「その願いを、断るだけなら、あたしはあなたを縁がなかっただけだと思い何もしない」

 信号は青続きで、彼女の運転を止めるものは誰もいない。

「だけど、あなたの答えが、あの人を少しでも傷つけようものなら、容赦はしないから」

 深夜の爆走は、彼女のイライラをぶちまけるように続いていた。

 大台の三桁手前、一般道路で許されざる速度超過。さすがに同乗者のことを考えてほしいと思った僕は自らの存在をアピールするように口を開いた。

「僕の返事はあくまでも保留です。断るか受けるか、まだ決めたわけじゃない」

 僕個人としてはすでに終わった問いかけだが、正式回答はまだなされていない。

「少し考えさせてください。今日はいろいろあって、頭が上手く回らない」

 日を置いてからの断りならば、印象も悪くならないだろう。悩んだ結果、手伝えない。僕に必要なのはそういう大義名分だった。

「あたしと先生だけじゃ限界があるから、個人的には手を貸してほしいところだけど」

 告白の返事を保留にする女子中学生みたいな態度が気にいらないのか、少しトゲある口調で彼女は言った。

 断るには理由があったほうがいいかもしれない。

「そうですね、もしもの話ですが、これからいっしょにやっていくんだったら最低限僕の疑問には答えてほしいところです」

「なによ」

 思いついていたわけじゃない。ただなんとなく考えるより先に、気づけば口からでていた。

「例えば、やけに坂井珠希は自殺した先輩を気にかけているなぁ、と」

「……」

「自殺志願者にしてもそう。言っちゃ悪いが、彼女が他人を必要以上に気にするようなタイプに見えなかった」

 数分の会話だったが、彼女を一言で表すなら、観察者。自発的にその能力を使う善人ではないだろう。

「その彼女が、聖人めいたことをする、純粋な理由がわからないんだ」

 そんな怪しい人物の誘い、断ったって仕方ないだろ?

 語尾にそう括弧を加える。

 実際、秘密事を持っているような人と信頼、協力関係を結べるとは思えなかった。

「オフレコよ」

「は?」

 鳥山千歳は言いづらそうに、少しだけ言葉を濁しながら僕の質問に答えてくれた。

「先生はシバサキヨウタが死ぬ前に、彼に会っているらしいの」

「え?」

 彼女から告げられた質問の答えは、なんともやるせないものだった。

「……知り合い、だった、ということですか?」

「いいえ。ただ図書室で二、三言、言葉を交わしただけらしいわ。ただ、」

 息をし辛そうに彼女は、唾を呑んで続けた。

「ただ、その時の彼の様子は確かにおかしかったって」

「……」

「先生は言わなかったけど、絶対後悔してるのよ、彼の自殺を止められなかったことを」

 それは、たしかにキツいかもしれない。

 手を伸ばし助けを求めているものを救うのが僕たち傍観者の性質だ。死に行く彼を見送ったという事実は、絡みつく茨のように、彼女を捕らえ離さない。多分、これから先、一生。

 鳥山千歳はそれが心底悔しそうにハンドルを強くギュッと握った。

 速度は、本人の落ち込んだ気に呼応するように、60から70の狭間で揺れている。それでも出しすぎなのは確かだ。事故を起こしたらどうするつもりなのだろう。

「だから、せめて屋上の自殺志願者は止めようとしているのか」

「はっきりとは言わないけど、多分そう、ね」

 そこまで聞いて、僕は坂井珠希の澄んだ碧眼を思い出す。

 彼女は屋上で会った人すべてを、観察し、勘ぐり、時には挑発し心情を引き出そうとするのだろうか。

 これからの時期、風のあたる屋上はぐんぐん寒くなる。いわゆる見張りのようなことを一人でやるには辛い季節だ。そんな体力的にも精神的にも負担のある責務を、彼女の小さな身体に押し付けることに、良心が痛まないはずがなかった。

 僕は軟派とまではいかないが、けっして頑固な性格ではないし、基本的に流されやすい人種なのだ。

「わかった。僕ができることなら協力させてもらっ、」

 闇を切り裂く悲鳴めいたブレーキ音がタイヤからあがって、車内は大きく傾いた。シートベルトが抑えつけてくれたおかげで車外に放り出されることはなかったが、強力なGが肺を圧迫し、軽く咳き込む。

 見れば赤信号だったらしい。あれだけ速度を無視しておいて、律儀に信号を守るだなんて。

「ほんとっ?」

 0を示すスピードメーターを横目に僕は曖昧に「あ、うん」と頷くのがやっとだった。


 家に着いたのは、普段ならとっくに夢の中の時刻で、こんな深夜の帰宅は生まれて初めてのことだった。

 鳥山に住所を知られるのは、少しだけいやだったが、そんなことを煩わしく思うほどの疲労が身体の関節をミシミシと軋ませ、僕の構成成分すべてが睡眠を欲していた。

 車を降りた僕は、闇に轟くエンジン音を見送ることなく、そっと玄関扉を開けて、自分の部屋のベットに潜り込み、文字通り泥のように深く眠った。

 疲れが脳を支配していたのか、夢を視たという記憶はない。

 そんなこんなで眠りこけた次の日、昼まで惰眠むさぼる僕に親は親切にもモーニングコール代わりの怒声を浴びせ、用意してある朝食兼昼食を食べるように言った。

 皿が片づかない、というどんな顔すればいいのかわからない、吐き出すスイカの種みたいな小言を脳内でオースティンの『人形の夢と目覚め』に変換しながら起床した僕は、寝ぼけ眼のまま、用意されていたスッパゲティを食べることになった。

 できるだけ食事に集中し、昨日の非日常的出来事を思い出さないようにする。朝から晩まで、普段の生活を10倍に濃縮したような1日だった。

 なんだかんだ言っても、僕はモブとかガヤとか言われる人種であり、面倒事は苦手なのだ。

 食欲に眠気が塗り潰されはじめた時だった。

 玄関チャイムが不吉を知らせるカラスのように、ピンポーンと鳴り響いた。嫌な予感を感じながらも、フォークをくるくると、パスタを巻き取る。

 食事中の僕に代わって、母さんが面倒くさそうに足音をたてて玄関に向かった。

 なに、心配はない。どうせ宅急便とか新聞勧誘員だろう。

 最後に残ったウィンナーをすくい上げるようにして口に運んだ僕は完食の余韻に浸り、口まわりのソースをティッシュで拭いながら、お昼のニュースを伝える民間放送を眺めることにした。

 母親から、あなたにお客様よ、と呼ばれたのは僕がごちそうさまと手を合わせて十秒も経たないうちだった。

 迸る最悪な気分を表情に出さぬよう、僕は昨日の軽率な判断を下した自分を呪った。


「それじゃ、行くわよ!」

 玄関には花咲くような、ほんの半日ほど前に誘拐監禁送迎をやってのけた悪魔の笑顔が、当然のように存在していた。

「行くって、どこへ……」

 母親の「あらまぁあの子にもあんな美人花嫁候補が」というひどく的外れな視線を背中に浴びながらも、僕は取り繕うように冷静なフリを続けた。

「決まってるじゃない」

 偉そうな調子で腰に手を当てたまま、ピンクのカーディガンにプリッツスカートと随分ラフな格好をした、鳥山千歳は、

「調査開始よ!」

 その真っ直ぐな瞳を曇らせることなく毅然と言い放った。




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