0:始原スーサイダル
医療が発達し、死にたくても死ねない時代がやってくる。
近未来の世界では人生の終点に自殺を選ぶようになり、場合によっては、それすらも魔法のような技術で止められるようになるだろう。
人間適当に生きたら適当に死ぬ、それが一番だ。坂井珠希はそう考えていた。
窓の向こうの真っ赤な空を、風に逆らいアカトンボが飛んでいた。その景色はどこか幻想的で、まるで抽象画に迷いこんだかのように錯覚させられる。
沈みかけの太陽に、十和森高校は朱色に染められ、校舎の影がすぐそこまで迫る夜を知らせていた。
古書の香りを漂わせる図書室にも、オレンジ色の光りが緩やかに注がれている。
「なあ、あんたはなんで本を読むんだ?」
制服姿の二人が、本棚を挟んで向かいあって立っていた。互いの姿は蔵書がカーテンの役割を果たしているため、窺うことくらいしかできない。
質問を投げかけたのは、精悍な顔立ちをした青年だった。
「その質問、私にしたのか?図書委員のアンケートでもとっているのか?」
眉間にシワを寄せる少女は、あどけなさが残る容姿とは対照的な大人っぽい口調だった。
「そういうわけじゃない。ただ純粋に興味があったんだ。いつも見かけるこの人は、どんな理由で読書するのか、ってな」
「関係ないな。ほうっておいてくれ」
視線を一度も声の方向にあわすことなく、少女はうざったそうに言い放つ。
姿が本棚で遮られているとはいえ、不機嫌になっているのは容易に想像がつきそうなものだが、少年は全く気にした様子なく、変わらぬ調子で続けた。
「図書委員は後輩に引き継いで、俺は今から部活のほうに行かなくてはならない」
「時間つぶしに私が選ばれた、というわけか?」
「深く干渉する気はないってこと。進路希望調査より軽いレベルの質問だと思ってくれればいい」
彼女は、呆れたような息をつき、脇に抱えていた一冊を本棚に戻した。それがすむとポケットから一口サイズのチョコレートを取り出し口に含む。
飲食厳禁を破った禁忌の甘みが口内に広がった。
「いいだろう。質問に答えてやる」
残った包み紙をくしゃりと手のひらで握りつぶして、ポケットに冷静さを閉じ込めるみたいにしまった。
「私にとって読書は暇潰しだ」
「随分投げやりな言い方だな」
「有り余る時間を知識に換算する作業、それ以上も以下もない」
言い終えて、ずしりとした重みをもつハードカバーを手に取る。
「なるほど。なかなか面白い答えだ」
「そう言うお前は?」
「え」
「お前にとって読書とは?」
質問を返された少年は困ったように後頭部を無言でぽりぽりとかいた。
「次からは模範回答くらい用意しておけ」
澄ました表情で、開いたページに目を落とし、彼女はぞんざいに言い捨てた。
嫌みとも取れる発言に、無言のままだった彼は、小さく「そうだな。気をつけるよ」と謝る。
その謝罪に返事をすることなく、彼女は手に持っていた本のページを吟味するように時間をかけてめくった。
人気もなくなった室内には紙がめくれる音だけが響いている。
「それじゃ、邪魔したな」
言葉を溶け込ませるように、別れの挨拶をし、彼は足を前にだした。
「大丈夫か?」
遠ざかろうとする気配に、少女はいたって平坦に、声をかけた。
「……なにを指して人の心配をしたんだ?」
「声が震えているぞ」
黄昏は空気を冷たくしていく。その場にいるのは自分たちだけだと、勘違いしてしまいそうになる。
初対面に近い状態の他人に体調を心配されるとは、と彼は自嘲ぎみに額に手を当て、出しかけていた足を戻した。
「そう、だな」
空気は微かに夜の気配を帯び始めていた。
「怖い、のかな」
「怖い?なにが」
「……未来が」
流れ行く時が、ゼリーに包まれたかのようにゆったりと流れていく。それでも夕暮れは過ぎ、気づけば空に紫色が広がっていた。
「将来が不安ということか?」
「違う。俺が恐れているのは未来だ」
話を聞いていた少女は、右手を本から外し顎にあてた。考え事をする時の彼女の癖だった。
「俺が今まで生きてきたのはすべて未来の自分のためなんだ」
「それの何がおかしい。未来に備えて今を生きる、当然のことじゃないか」
「今のこの時は過去の自分から見たら未来だ。結局俺はなんのために生きてきたんだ」
「哲学的だな。飛んでいる矢は止まっている、とでもいうのか?自分の努力がどこに流れつくのか解らなくなったか?」
「そうじゃない。今日の次に明日があって、明日の次に明後日がある。このサイクルは誰が決めたんだ」
「……」
「もしかしたらそう認識しているだけで、ほんとは違うんじゃないのか?」
少女は彼の言葉が一段落ついたのを確認すると、その隙間にゆっくりと優しい声で自分の考えを滑りこませた。
「物理や哲学、その他もろもろでも考えられてきたことだ。とはいえ、なにも難しいことはない」
「時間軸が一定かどうか、解明できるのか?」
「根本原理を明らかにするわけではないが、説明はできる。全てはお前が生きているからだ。デカルトしかり、我思う故に我あり」
言いながら顎にあてたままだった右手を背表紙にあて、本を支える。
「悠久の時の流れを意識できるのは、自我あるお前の特権だ。よく時間は川面に浮かんだ一枚の葉に例えられる。川下が未来を表し、流れ行くそれを眺めているのが観測者たるお前だ。人間の脳は知らず知らずの内に時間の流れを観測する機能を保持しているのだよ」
「だからって俺の不安は解消されない」
「そういう不安は無くさなくていい。いつか、気にしなくなる時がくる。時間が腐るほどあるのは思考するための猶予なのだ」
彼はゆっくりと顔を上げて、本棚の向こうにいるであろう彼女を見やった。
そのまま口だけを人形のように動かす。
「でも、……でも、もし思考すらできなくなったら、どうしたらいい」
その返答に彼女は困惑ぎみに、眉間にしわを寄せた。
「そのときは、」
考えながら、口を開く。妙に鬼気迫る彼の声音に、真摯に向き合わなくてはならないことを、彼女は頭の片隅で理解していた。
「別の誰かに答えを託すだけだ」
貸し出しカウンターには彼の代わりの二年生が座っていた。図書委員の引き継ぎは、すでに終わっているようだ。
彼は自嘲ぎみに鼻を鳴らしてから、口を開いた。
「ああ、そうか。ありがとう」
「礼の意味がわからんな。思春期特有のパラノイアだよ」
「スッキリした。バカにしないで、話を聞いてくれたこと感謝する」
和やかな声を発しながら彼は瞼を手のひらで覆った。
「ああ、ほんとうに、救われた」
消え入りそうな調子で言い残すと、一度も振り返ることなく、出口に向かう。
「……」
残された少女は一人なにをするでもなく、本棚を抜け、姿を現した彼の背中を見送った。
視線は活字に落とされることなく、扉をくぐっていった儚げな背中に釘付けになる。
結局、委員会業務もせずに話しかけてきた彼の目的はわからなかった。
まあ、いい。どうせ、これから先関わることのない人物だ。
開いたままだった植物図鑑をパタンと閉じて棚に戻す。
彼の首吊り死体が見つかったのは、週末、その夕暮れ時と同じ穏やかな朝のことだった。




