「真実の愛」とおっしゃるなら、どうぞ全額お支払いください――心理誘導された王太子と、お買い上げいただいた男爵令嬢
秋の気配が忍び寄る王宮の大広間には、百合の甘い香りと、蜜蝋の燭台が放つ熱気が漂っていた。
公爵令嬢エレオノーラは、胸元で扇を静かに閉じた。
「エレオノーラ! 貴様との婚約を破棄する!」
第一王子ジェラルドの宣言に、広間が静まり返る。
その腕には、桃色の髪を揺らす男爵令嬢リリアがしがみついていた。
「俺は真実の愛を見つけた! 冷酷で金勘定ばかりの貴様とは違う、心優しいリリアこそ王妃にふさわしい!」
「まあ」
エレオノーラは微笑んだ。
「それはおめでとうございます」
「……は?」
「人の心は、お金で買えませんもの。殿下がお選びになった愛を、わたくしが妨げる理由などございませんわ」
あまりに穏やかな返答に、ジェラルドは拍子抜けした。
エレオノーラは侍女に目配せする。
銀盆に載せられた一枚の書類が差し出された。
「では、婚約解消に伴う精算をお願いいたします」
「精算?」
「ええ。十年前の婚約契約書、第七条。王家側の一方的な婚約解消に際しては、公爵家が負担した教育費、財政支援金、および違約金を返還するものとする――殿下も署名なさいましたでしょう?」
「そ、それは父上が決めたことで……!」
「もちろん、当時の国王陛下も連帯して保証なさっています。ですが、今回は殿下ご自身の意思による婚約破棄。まずは当事者である殿下にお支払いいただくのが筋でございます」
エレオノーラは書類を広げた。
「金貨三万枚でございます」
広間にどよめきが走った。
「さ、三万枚だと!?」
「王太子教育費、外交費、王宮財政の補填、その他諸経費。証憑はすべて揃っております。正式に争う場合は、王太后陛下への上奏と、貴族院による王位継承資格の審査もお願いすることになりますわ」
ジェラルドの顔から血の気が引いた。
「そんな金が払えるものか!」
「まあ。わたくしも十年のご縁を無下にするつもりはございません」
エレオノーラは、もう一枚の紙を取り出した。
「そこで、三つの精算方法をご用意いたしました」
まず、一本目の指を立てる。
「プランA。契約どおり金貨三万枚を一括返済。支払不能の場合は、貴族院での審査を申し立てます」
「ふざけるな!」
「ではプランC。公爵家から提供した魔導馬車、宝飾品、王太子宮の調度品をすべて返還。紛失した品は時価で弁償していただきます」
「そ、そんな!」
リリアが悲鳴を上げた。
「あの首飾りも馬車も、ジェラルド様が私にくださったものです!」
「ええ。ですから殿下に返還していただきます。足りなければ殿下の私財を処分し、それでも不足する場合は、保証人を立てていただくことになりますわ」
リリアの指が、胸元の大粒の宝石を握りしめた。
エレオノーラは最後の指を立てる。
「そして、プランB」
声が、ひときわ柔らかくなる。
「過去の教育費と交際費の大部分を免除いたします。お支払いいただくのは、銀行借入金の返済相当額と婚約解消の違約金、合わせて金貨三千枚のみ。三ヶ月の分割払いで結構です」
「さ、三千枚……?」
ジェラルドが顔を上げた。
三万枚から三千枚。
十分の一である。
「それだけで済むのか?」
「ええ。お支払いが滞らなければ、今回の婚約解消について、わたくしから貴族院への異議申し立てはいたしません」
エレオノーラは内心で微笑んだ。
最初に三万枚を提示したのは、このためだった。
三千枚も王子の私財のほとんどを失わせる大金だ。けれど三万枚を見せられた後では、救いの手に見える。
人は最初に示された数字を、判断の基準にしてしまう。
いわゆるアンカリング効果。
「ただし、ひとつだけ」
エレオノーラは申し訳なさそうに眉を下げた。
「この減額案は、本日中にご承諾いただく場合に限ります。明日になれば公爵家の顧問弁護士と会計監査団が正式に介入いたしますので、わたくしの一存では減額できなくなります」
「な、なんだと!」
「もちろん、お持ち帰りになってご検討いただいても構いません。正式な三万枚の請求手続きに移るだけですから」
「待て!」
ジェラルドは叫んだ。
「プランBだ! 三千枚を払う!」
「本当によろしいのですか?」
「構わん! 俺はリリアを愛している! 金など惜しくない!」
「まあ、なんと情熱的な」
エレオノーラが差し出した承諾書に、ジェラルドは勢いよく署名した。
公爵家の家令と王宮の書記官が、その署名を確認する。
これで成立。
金貨三千枚の支払い義務を、王子は自ら認めた。
「ふふん!」
リリアが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「残念でしたわね、エレオノーラ様! ジェラルド様はお金より私を選んでくださったのよ!」
「ええ、本当に素晴らしいことですわ」
エレオノーラは心から感心したように拍手した。
「殿下はあなたのために、私財のほとんどを差し出す覚悟をなさいました。これほど深く愛されるなんて、リリア様は幸せ者ですわね」
「と、当然ですわ!」
「でしたら、リリア様も殿下がどれほど貧しくなろうと、お支えになるのでしょうね?」
「もちろんよ!」
「たとえ宝石を買えなくても? 舞踏会に出られなくても? 王太子妃として厳しい務めを課されても?」
「当たり前ですわ!」
エレオノーラは広間を見渡した。
「皆さま、お聞きになりました? リリア様は殿下の財産でも地位でもなく、そのお心を愛していらっしゃるそうです」
数十人の貴族が一斉にリリアへ注目した。
「ま、まあ! 当然ですわ! 私はジェラルド様の魂を愛しておりますの! どんな苦労も共にいたします!」
リリアは胸を張って宣言した。
拍手が起こる。
エレオノーラも満足げに頷いた。
これで、もう簡単には逃げられない。
大勢の前で誓った愛を翻せば、リリア自身が金目当てだったと認めることになる。
そしてジェラルドもまた、全財産を投げ打って選んだ女を、そう簡単には手放せないだろう。
自分の選択が間違いだったと認めるには、失ったものが大きすぎる。
二人は互いに、自分で選んだ「真実の愛」にしがみつくことになる。
「では、お二人のお幸せを心よりお祈り申し上げます」
エレオノーラは優雅に一礼した。
そして、踵を返しかけたところで足を止める。
「ああ、最後にもう一点」
ジェラルドが顔を上げた。
「なんだ。まだ金が必要なのか?」
「いいえ。お仕事のお話ですわ」
「……仕事?」
「本日の婚約解消をもちまして、公爵家が代行しておりました王宮の財政管理と外交折衝の業務を、王室へ返還いたします」
ジェラルドの表情が固まった。
「来週は帝国親善大使の歓迎式典。その翌日には北方三領との関税交渉。月末には王宮予算の再編成がございます」
「ちょ、ちょっと待て」
「これまでわたくしが作成しておりました資料は、明朝すべてお届けいたします。今後の決裁は殿下ご自身でお願いいたしますわ」
「待て! 関税交渉は誰が担当していた!?」
沈黙。
やがて王宮の書記官が、おそるおそる答えた。
「……過去十年間、すべてエレオノーラ様でございます」
「では予算編成は!?」
「そちらも、エレオノーラ様が最終案を作成されておりました」
「帝国との外交文書は!?」
「エレオノーラ様でございます」
ジェラルドの唇が震えた。
「そ、それでは……俺は今まで、何を……?」
誰も答えなかった。
エレオノーラは静かに微笑んだ。
「殿下は、わたくしを冷酷で打算的な女とおっしゃいましたでしょう?」
「あ、ああ……」
「ですから、これからは愛情深いリリア様と、お二人で温かな国政をなさってくださいませ」
「わ、私が!?」
リリアが目を丸くした。
「わたくし、難しい数字なんてわかりませんわ!」
「まあ。王妃教育でお学びになれますわ。もちろん、王妃になられると正式に決まれば、のお話ですが」
エレオノーラは首を傾げた。
「ただ、帝国の特命全権大使は、計算違いを外交上の侮辱と受け取る方ですので、お気をつけくださいませ」
「エレオノーラ!」
ジェラルドが叫んだ。
「待ってくれ! せめて来週の交渉だけでも!」
「まあ、殿下」
エレオノーラは不思議そうに瞬いた。
「わたくしはもう、殿下の婚約者ではございませんのよ?」
「そ、それは……!」
「それとも、真実の愛をお選びになった殿下は、まだ捨てた女に頼らなければ何もできないと?」
広間に、押し殺した笑いが漏れた。
ジェラルドは真っ赤になり、口を閉ざした。
「では、ごきげんよう」
エレオノーラは完璧なカーテシーを披露した。
十年間、彼女は王子の失敗を隠し、王室の赤字を補い、外交上の危機を未然に防いできた。
それが愛情だと思っていた。
けれど、もう終わりだ。
これからは、自分のために生きていい。
背後では、リリアが叫んでいた。
「ジェラルド様! 私、そんなお仕事できませんわ!」
「俺だってできん!」
「ではエレオノーラ様にお願いすれば!」
「だから婚約を破棄したんだろうが!」
エレオノーラは振り返らなかった。
秋の夜風が、頬を心地よく撫でる。
懐には金貨三千枚の支払承諾書。
そして何より、十年ぶりに手に入れた自由。
真実の愛とは、なんと素晴らしいものだろう。
おかげで彼女は、ようやく自分自身を取り戻せたのだから。
――もっとも、その愛のお値段が金貨三千枚で済むかどうかは、これからの二人次第である。
【完】




