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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

奴隷落ちした悪役令嬢は、推しの執着公爵令息に逃がしてもらえない

作者: 篠瀬
掲載日:2026/05/02


「……随分と無様になったな、アイリアナ」


 低く吐き捨てるような声だった。

 社交界の薔薇と呼ばれていた女を見下ろすには、あまりにも相応しい言葉。


「薔薇も地に落ちればこんなものか……その姿を、他の誰にも見せずに済んだだけマシだと思え」

「…………」


 あぁ、やっぱり嫌われている。


 そう思うのに、なぜだろう。最後の一言だけが妙に耳に残った。まるで、何かから遠ざけるような言い方だった気がして――気のせいだろうか。

 眩むほど整った顔に見下ろされながら、私はぼんやりとそんな違和感を振り払う。


 そして同時に思い出す。


 ――私、アイリアナ・フロストは、乙女ゲームの悪役令嬢で、すでにバッドエンドを迎えている存在なのだと。


 前世で遊んでいた乙女ゲーム。その中で私は、ヒロインの恋路を邪魔する悪役令嬢だった。しかも攻略対象者すべての婚約者候補という立場ゆえに、どのルートでもライバル役。そんな私の結末は様々あれど、まぁ結局、最後には死んでしまったと後から記述されるようなお粗末なラストであることに変わりはない。


 運営からもおざなり扱い。ユーザーにもそう認められている悪役令嬢は今、手枷と足枷で両手両足の自由を奪われ、自慢のプラチナブロンドも白い肌もボロボロ。まとう衣服は、シーツでも巻いたような質素な服一枚という姿で、奴隷落ちのバッドエンドを迎えていたのである。

 そして、その結末も分かっていた。ヒロインに選ばれなかった目の前の男に散々苦しめられて、最後は死ぬ定め。


 そう、それに違いはない。違いはないのだが――いや、そんなことよりも。


「ん゛っ、顔が良い……っ」

「は?」


 このゲームで特別好きだったのが、まさに今、ベッドに大の字で繋がれている私を立ったまま見下す、最高に顔が良い攻略対象者の一人、公爵令息ウォルマー・バルマンだった。

 普段は人を拒むように冷たい態度の彼が、心を許した相手には執着にも似た深い愛を向ける。そのギャップが魅力のキャラクター。けれど作中で描かれる彼と悪役令嬢の関係は、一言で表すならまさに犬猿の仲。顔を合わせるたびに嫌味のひとつやふたつが軽々しく飛び交うほど、お互いを嫌い合っているという設定だ。

 しかし困ったことに、前世の記憶を取り戻してしまった私には、その姿が眩しいほどに輝いて見えていた。


 スチルより顔が良いってどういうことなの?


「急に媚でも売っているのか? そんなくだらないもので俺を懐柔できるとでも?」


 なにやら勝手に勘違いしている推しの姿すら尊い。

 外に跳ねた短い癖毛は、深いワインを落としたような暗色。そこから覗く、蕩けた蜂蜜のようなトパーズ色の切れ長の瞳。薄い唇はいつも不機嫌そうに結ばれているが、笑ったときだけ見える八重歯がめちゃくちゃ可愛いことを知っている。


 まぁ、悪役令嬢などという肩書に相応しい悪事を働いてきた私が、その八重歯を見ることは叶わないだろうけれど。


「……いいえ。けれどこのまま大人しく死ぬのは、アイリアナ・フロストとしての誇りが許さないと思ったの」

「……はっ、何を言うかと思えば……お前はすでに貴族ではなく、ただの奴隷だ。散々毛嫌いしてきたこの俺の、な」


 前世の記憶が手放しで喜んでしまうから、そんなご褒美みたいな台詞はやめてくださらない? なんて真顔で言ってしまいそうな口を、きゅっと閉じた。

 ともあれ、前世の記憶が大暴れしてしまったけれど、私はアイリアナ・フロスト。社交界の薔薇と噂された侯爵令嬢だった女。主人公の恋路を邪魔するために存在し、何をしても嫌われる役割を背負った女。そして今は、ウォルマーに買われてしまった奴隷に落ちた女だ。


 ただ残念なことに、前世の記憶を得たからといって、それを活用してまで生きようとは思わない。けれど、こんな終わり方は気に入らない。なにかせめて、最後にひとつくらい。

 そう、どうせなら最後に、このいけ好かないほど嫌いだった――今は推しとして輝いて見える男を、一泡吹かせるくらいしてやりたいわ。


「……えぇ、そうね。そうよね。けれど私、本当はあなたのこと、嫌いではなかったのよ」

「ハッ、その傲慢さが不愉快だ。お前は彼女の周りにいる見目の良い男を、自分のものにしたかっただけだろう。そこに他者を思う気持ちの一片でもあったなどと、どの口が言う」

「あら、思いの形がひとつだとでも思っているの? ――好いた相手の心に刻めるなら、無垢で純真な思いでなくとも深く、深く残したいじゃない」


 なんて。

 悪役令嬢十八年の人生で、すっかり板についたあくどい笑みと共に甘く囁いてみせた。

 ウォルマーが目を見張ったのは一瞬のことだった。次の瞬間には、ゲーム画面でもこの世界でも何度も見た、不愛想で不機嫌な表情を張り付ける。


 恐らく、バルマン家の所有する邸宅の一室。奴隷を寝かせるには柔らかすぎるベッドに、私は両手両足を手枷と足枷で繋がれていた。自力で起き上がることすら叶わないというのに、不意に一歩、ウォルマーが近づいた。

 逃げ場なんてないと分かっているくせに、わざわざ確かめるみたいに。

 長く筋張った指がゆっくり伸びてくる。ぼんやりそれを目で追っていると、次の瞬間、遠慮のない力で顎を掴まれ、そのまま持ち上げられた。


「俺を好いていると言っているつもりか?」


 低く抑えた声。

 けれど、その双眸には薄く狂気が滲んでいる。

 ヒロインに選ばれなかっただけで、彼はこんな顔をするのね。そんな思いが沸き上がった瞬間。


 身体の痛みを押し殺して首を伸ばす。まるで私の瞳を覗き込むように近づいていた、ウォルマーの唇を奪うために。


「――ッ!?」


 触れたのは一瞬。

 けれど、確かに奪った。

 次の瞬間、突き飛ばされた身体はベッドに叩きつけられ、両手両足に繋がれた枷が鈍い金属音を響かせた。

 一瞬触れ合っただけなのに、反射的に噛まれたのか、唇が少し痛い。遅れて口内に広がる艶めかしい血の味を確かめるように、舌でゆっくりとなぞりあげた。


「ひどい人ね。秘めた思いを女の口から言わせようとするだなんて」

「…………お前……」

「それとも、命令でもして聞き出してみたいの? ねぇ――ご主人様?」


 などと、ご満悦な私が調子に乗ると彼の顔が歪んだ。怒りなのか、悔しさなのか、そのどちらでもないような表情。我に返ったように後ずさるが、珍しく動きに乱れが出ている。

 そんな彼にさらに気を良くして、込み上げそうな笑いを押し殺しながら、ただ楽しげに見つめていた。それも束の間、苦虫を噛み潰したような顔をしたウォルマーは何も言わずに去っていった。


 ――言い訳をするつもりはないけれど、衝動的だった。


 なぜなら悪役令嬢の奴隷落ちは、ヒロインのバッドエンドだったから。

 純愛主義を謳った運営の逆ハーレムを阻止したこのエンドは、攻略対象者全員の好感度を最大まで上げると必ず突入する、プレイヤー泣かせのルート。全員を選ぶ選択肢は存在せず、仕方なしに一人を選ぶと、結局全員が壊れてしまう。

 選ばれなかった攻略対象者は、悪役令嬢である私に散々八つ当たりしたあと手にかけ、そんなことをしてもヒロインを手に入れられない絶望に、自ら命を絶つ。それを知ったヒロインが動揺し、選ばれたはずの攻略対象者も愛を疑い、最後は結ばれたはずの二人の死で、ゲームオーバーの文字が飾られる。

 心を抉られたプレイヤーの阿鼻叫喚がネット上に飛び交ったのは、言うまでもない。


 そんなプレイヤー視点では見ることのなかった攻略対象者たちの冷たい視線を、私は知ってしまったのだ。

 それまで婚約者候補として多少は優しかった彼らに、もう一度振り向いてほしかった悪役令嬢の気持ちなんて、シナリオには必要ない。運営にもおざなり扱いを受けながら、幼稚なやり方でしか他人の関心を引けないこの必死な感情がプログラムだったなんて、そんな酷なことを私が認めるわけにはいかなかった。

 けれどなにより、終わる定めだとしても。推しの奴隷として散るなら最後くらい、せめて、彼の記憶に残るほどのことはしてやりたいじゃない。


 ――なんて自嘲気味に笑い飛ばして、我ながら図太いメンタルで眠りについた翌日のこと。

 相も変わらず奴隷には似つかわしくない、ふわふわシーツの敷かれた柔らかいベッドの上で目が覚めると、両手両足を繋いでいたはずの枷はすっかり消え去っていた。

 ボロボロだった髪も肌もすっかり綺麗にされ、傷もすべて治療されている。布切れのような質素な服は、肌触りの良い、露出の少ないネグリジェになっていた。


 え……まさか口づけひとつで落ちたなんてこと……ないわよね?


「起きたのか」


 ベッドの上でポカーンとしていると、ノックもなしに部屋へ入ってきたウォルマーは、相変わらず不機嫌な顔を貼り付けたまま、まっすぐこちらへ歩み寄ってきた。次の瞬間には遠慮なく私の顎を掴み、顔を左右に動かしてくる。何をするつもりなのかも分からないまま好きにさせていると、やがて満足したように手を離し、額同士が触れ合いそうなほど近づいてきた。


「奴隷としてどう甚振ってやろうか考えた。お前に口づけられようと、俺の心は動かない。だからこそ、口づけること自体を甚振りにしてやる。お前のような女には酷だろう?」

「……」


 なんて、およそ甚振りとは思えないご褒美を提案されて、思考が止まった。……え、何を言ってるの?


「はっ……早速、物欲しそうな顔をするのか。卑しいな」


 そんな私が、ウォルマーには物欲しそうに見えていたようだった。人を見下すようにほくそ笑むくせに、上半身だけを起こして座っている私に近づいてくるのはむしろ、あなたのほうだって気づいていないのね。

 だとしたら、前世の推しは本当にちょろいのかもしれない。……いいえ、ちょろいわね。だって、嫌がる素振りを見せながら、身体だけは口づけを求めているだなんて、そんなの。


「可愛いのね」

「は? ――……っ!」


 昨日とは違って自由な両手を伸ばし、ウォルマーの頬を挟み込みながら口づける。その温かさを確かめるように軽く食んで、そっと離れて見上げた。

 そこには今にも押し倒してきそうな、危うい光を宿した表情があった。


 確かに彼の言う通り、そんな感情を向けられるのは悲しいものがある。だけど、それは昨日すでに経験したこと。傷つかないわけではないけれど、わざとらしく肩を竦めて両手を離すと、今度は舌打ちまでこぼされた。

 なによ、その態度。


「……とにかく、まずは食事をとれ。夜にまた来る」


 そう告げて、早々に背を向けて出ていくウォルマー。入れ替わりで訪れたメイドたちは淡々とした態度ながらも丁寧に私を扱い、食事、湯浴み、マッサージ、ドレス選びにアフタヌーンティー。奴隷とは思えない待遇が、当たり前のように用意されていた。


 そうして夕飯も済ませ、窓の向こうはすっかり帳が下りた頃。夜の湯浴みを終え、ネグリジェに着替えた私は、ソファに足を伸ばしてお酒を楽しんでいた。

 元は貴族の令嬢とはいえ、奴隷落ちした小娘の世話なんてメイドたちには不愉快でしかないだろうに、誰一人として私を雑に扱うことはなかった。恐らくウォルマーが言いつけているのだろうけど、まさか本当に口づけひとつで対応を変えたなんてこと、ないわよね?


 そんなことを考えていると、またもノックなしに部屋へ入ってきたウォルマーは、だらしない格好で晩酌を楽しむ私を見て眉を顰めた。そんな顔でさえ綺麗なんだもの、素敵よね。

 目が合ったまま何も言わないウォルマーに向けて、軽くグラスを持ち上げ、揺らす。


「あなたも一杯いかが?」

「……」


 返事のない彼の咎めるような視線は、ソファを占拠する私の長い足に向けられていたので、ゆっくりと下ろして隣に座るよう誘ってみる。不機嫌そうに、だけど大人しく隣に腰を下ろした彼は、テーブルの上に置かれた酒瓶のひとつを取り、自らの手で乱暴に酒を注いだ。そんな姿に微笑みながら勝手にグラス同士を優しく触れ合わせると、軽やかなガラスの音が一瞬奏でられた。


「お前は元からそういう性格だったのか」

「え?」


 まさか普通に話しかけられるとは思っていなかったので反応が遅れたが、苦笑を浮かべながら首の後ろへ髪をかき上げる。


「そうねぇ……あなたたちと彼女に対して行ってきた数々の悪事は本当のことだし、そのときの傲慢で性根が腐っていた私も私だけど、今みたいに好き勝手振る舞っている私も、確かに私だわ」


 侯爵令嬢としての私は、悪役と呼ばれるに相応しい傲慢さがあった。

 すべてが思い通りになると信じていたし、実際そうなってきた。だからこそ、何もかも奪っていったヒロインが気に入らなかった。

 攻略対象者たちの婚約者候補として名が上がっていた私とは、以前より皆、交流があった。どの家門も私を欲しがっており、それまでわずかではあるものの、甘い雰囲気をまとっていたのは彼らのほう。なのに手のひらを返してヒロインにベタ惚れなんて、私が嫉妬に狂うのも分かってほしいというか。あぁいえ、今はその話ではなかったわね。


「もしくは、どうでもよくなったのかもしれないわね。奴隷とはいえ、こうしてあなたの傍にいられる今この瞬間のことしか考えていないのかも」

「……」


 ぱっと浮かんできた思いを、そのまま口にした。我ながら甘ったるい台詞だと感じるくらいだから、そんな浮ついた言葉で俺が惑わされるとでも? くらいの返しは来ると思っていたが、私を一瞥だけすると、ウォルマーは何も言わずに酒をあおった。そんな彼の綺麗な横顔を肴に一口、私もグラスを傾ける。

今、彼はどんなふうに私の言葉を飲み込んでいるのだろう。

 大好きなヒロインに思いは届かず、八つ当たりのために手に入れた私に遠回しな好意を伝えられ、口づけを甚振りだと言い張って。健全な男子として当然の欲望は抜きにしても、きっと自分でも戸惑っているはずだわ。


 こんな一面が自分にもあっただなんて知らなかったけれど、彼の心を乱しているのが自分だと思うと、何ものにも代え難い悦が湧き上がる。彼を翻弄しているのが私だと思うと、もっともっと、もっとしたくなる。


 ――他でもなくこの私が彼の心を掻き乱しているんだって、もっと実感したくて堪らない。


 テーブルにグラスを置き、静かなウォルマーにゆっくり近づく。気配を感じて顔を向けた彼は、微かに目を見開いたのも一瞬のことで、すぐ眉間に皺を寄せていた。そんな些細なことでさえ楽しいなんて言ったら、きっと彼はこの顔を歪めるのでしょうね。


「だから今すぐ甚振られたいのだけれど、あなたはどうかしら。ねぇ、ご主人様?」

「……っ、今まで好き勝手振る舞ってきたくせに、なにを急に」

「あら、少しは奴隷として弁えようかと思ったのに、私に振り回されるのがお好み? 可愛いのね」

「――……っ」


 ものすごく怒っていますと言わんばかりに顔を歪ませているくせに、やっぱり私を押し退けたりしないウォルマーに気を良くして、彼の膝の上に乗り上げながら、両手で頬を固定して軽く触れるだけの口づけを落とした。

 緊張で強張る筋肉の動きを感じながら、触れ合わせては離し、また啄むようにゆったりと口づける。そうしているうちに、ウォルマーの大きな手のひらが私の腰に触れた。

 直後、勢いよく引き寄せられた身体はバランスを崩し、ウォルマーへと倒れ込む。その拍子に離れた唇から、彼は甘い吐息を零していた。


「こんなこと、どこで覚えてきたんだ」

「……秘密よ」


 悪役令嬢という役だけど、これでも私、生娘よ。かといって、まさか前世の知識から口づけのやり方を学びましたなんて言えるわけもなく。秘密と答えると、腰に回るウォルマーの腕に力が加わったのを感じた。

 もしかして嫉妬? なんて、我ながら前向き思考かしら。


「けれど、私を甚振れるのはあなただけ、でしょう?」

「……誰にでもそんなことを言ってきたのか?」


 ……これ、もしかして嫉妬?

 一瞬呆気に取られてしまったが、いよいよ抑え切れずに肩を揺らしながら笑い声をあげた。途端に気を害したように眉間へ皺を寄せて睨んでくるものだから、可愛くてその皺に口づける。


「確かに色々悪いことはしてきたけれど、男を誑かしたことはないのよ? 信じなくてもいいけどね」

「…………ふん」


 若干緩んだけれど未だ消えない皺に何度も口づけを落としながら、そこからは会話らしい会話もせずに時間が過ぎる。思い出したようにお酒を飲んだり、口づけたり。

 これ以上近づくことも、逆に彼が私を引き寄せることもなかったけれど、何の気なしに流れていくこの時間が、これまでの人生の中で一番幸せな時間だと思ってしまった。

 そう感じてしまうと人間というのは欲深いもので、私はこの一瞬が少しでも長く続いてほしいと願ってしまった。


 このままじゃ、彼はヒロインを思いながら自ら毒を飲んでしまう。

 ――それが分かっているのに何もしないなんて、そんなのつまらない。


「ねぇウォルマー、私、ガーデニングがしてみたいわ」

「は……? お前がか……?」


 ――だから、その結末を壊すために。

 私は解毒剤を作ることにした。


 口づけだけで過ぎた夜。

 それ以上のことはなく、ソファで寄り添ったまま寝落ちした翌朝のこと。お互い髪もぼさぼさのまま、私は起き抜けのウォルマーに強請った。寝起きでまだ頭が回らないはずなのに、怪訝そうな表情をされたのは、私の前科がそうさせたのだろう。

 そうね、ヒロインのドレスを裂いたり、気に入らない相手を社交界から追い出したり。おしとやかとは正反対だったものね、私。


「ダメかしら?」

「……はぁ……いいや、分かった。だが作業は必ず庭師かメイドにやらせろ。いつぞやパーティーで人に向けてナイフを投げたお前は物を持つな。それが条件だ。守れるな?」

「あら懐かしい、そんなこともあったわね。えぇもちろん、約束するわ」


 そうそう、いつぞやのパーティーで、ヒロインの味方をして大きな顔をしてきた伯爵令嬢にナイフを投げつけたこともあったわね。懐かしさに思い出し笑いする私を、いまいち信用しきれない瞳で見つめるウォルマー。

 それでも、寝起きでどこか幼く見える彼は、最終的に許してくれたのだった。


 その日から、私は庭師である老夫婦と、私の専属に任命された三つ編みが特徴的なメイドの四人で、ガーデニングという名の薬草栽培を始めた。

 必要なのは、解毒のための材料。あの毒の名前なら覚えている。いつか彼がそれを手に取る日を、私は知っている。


 栽培から五日目。

 仕事で忙しかったウォルマーと久しぶりに会ったのは、煌めく陽射しを受けながら水滴を弾く薬草を眺めているときだった。ちなみに水やりは専属メイドがしていた。本当は私もしてみたいのだが、律儀にきちんと約束を守っているのだ。偉いと思わない?


「驚いたな、お前のことだから、もう約束は破られていると思っていたが」

「まぁひどい。ご主人様の命令をきちんと守れるくらいには、分別はあるほうだけれど?」

「分別できる人間が奴隷落ちするわけがないだろう」


 なんて、五日ぶりに会ったのにあっさり鼻で笑われた。

 専属メイドは水やりを終えると一礼し、離れていく。人を小馬鹿にしながらも、奴隷には不相応なエスコートを向けてくるご主人様の手を取り、私は見事な公爵家の庭園を散策し始めた。


「会えないあいだ、大人しくしていたか?」

「使用人たちから聞いているのではなくて?」

「一応、お前の口から聞いておきたくてな」

「あらそう。じゃあ教えてあげない」


 仕返しとばかりに良い笑顔を向けると、一瞬眉間に皺を寄せたウォルマーは、けれど軽いため息と共に肩をすくめた。


「放っておかれて拗ねたのか?」


 まるで見透かしたようにそんなことを言うものだから、思わず目を見開いた。

 鼻で笑われた仕返しのつもりだったけれど、確かに同じ家にいながら五日も会えなかったのは面白くない。かといって貴族として、特に公爵家の次期当主であるウォルマーの忙しさは、まぁまぁ理解できるほうだった。

 なにせ優秀過ぎて、すでに家督を譲ったとばかりにウォルマーの両親はバカンスを満喫しているだとか。だから寂しかったかと聞かれると、そうでもないような、そうでもあるような。そんな曖昧な感情を見透かすような冗談が、思いの外、心地よかった。


 ウォルマーの腕に添えていた手を絡ませ、逞しい彼の腕を自分の胸に抱き込みながら近づくと、わずかに強張る感触が伝わった。


「そうね、拗ねてしまったかもしれないわ。このままだと私、悪いことをしてしまうかも……ご主人様が止めてくれなくちゃ、ね?」

「……お前…………」


 見つめ合ったまま、瞠目していたウォルマーは喉を鳴らすような短い唸り声を上げると、それはもう大きな、大きなため息をついた。


「本当に、お前というやつは……」

「あら、なによ?」


 尋ねた瞬間、視界はふんわり浮かび上がり、気づいたときにはウォルマーに抱き上げられていた。

 声も出ないくらい驚いてしまった身体は、けれど彼の思い通りに持ち上げられて。咄嗟に彼の首にしがみつくと、耳元にウォルマーの笑う吐息が聞こえる。


「甚振られることを望むなんて、本当に悪い子だな」

「……っ」


 その声音に、本気で腰が砕けるかと思った。

 おへその奥に響く、きゅんっとした疼き。それはびりびりと広がる痺れのように身体を支配して、動けなくなる。

 イタズラが成功した子供のように無邪気に笑うウォルマーが、さらに目を細める。その様子を、私は動けないまま、ただじっと赤面しながら見つめることしかできなかった。


 そんな私を抱えたまま、ウォルマーは庭園の中央に設置されたガゼボへと向かった。

 そこにはすでにティーセットが用意されていて、彼はさも当然とばかりに腰を下ろす。その膝の上に乗せられたまま、当たり前のようにマドレーヌを唇に押し付けられて、私はウォルマーを少しだけ睨みつけた。


「どうした? 拗ねるくらい大好きなご主人様からのお菓子は、お気に召さないのか?」

「…………」


 なんというか、五日ぶりのウォルマーは少しだけ可愛くない。口づけられて戸惑っていたときの初心な彼はすっかり鳴りを潜めて、本来のウォルマーになってしまったような、そんな錯覚。

 そしてそんな本来のウォルマーは、推しとして悶えさせられていた姿そのもので、前世の記憶が音を立てるくらいきゅんきゅん騒いでくるものだから、調子が狂うのよ。


 そうよ、本当にひどい。ひどい男だわ。

 口づけひとつで急に優しくするくらいちょろいくせに、私を甚振るくせに、勘違いしてしまうくらい丁重に扱うくせに。いつかはヒロインを思ったまま自ら毒を飲んで私を置き去りにするなんて、私を一人きりにするなんて――本当にひどい男。


 けれど、そんな未来のことを口にするわけにもいかず。絶対阻止して悔しがらせてやるわ! という気持ちで、押し付けられたマドレーヌを舌で押し返してやった。

 そんな突飛な私の行動に目を丸くしたのも束の間、ウォルマーは片方の口端を緩く持ち上げると、押し返すために突き出した私の舌先に、マドレーヌを滑らせるように押し付けてきた。途端に広がる芳醇なバターの味に、思わず唇が緩む。

 その隙を突かれて、気づいたときにはマドレーヌを頬張っていた。


「そうしていると、奴隷というよりペットだな」


 なんて、楽しそうに笑うウォルマーをじとりと睨む。

 私がペットなら、じゃああなたはペットと口づけしたがる変わり者ね。とは思っていても返さずに。


「不服そうな顔だな? なら、このあとの甚振りは止めておこうか」


 と、今度はにやけながら覗き込んでくる。その可愛い姿にきゅんっと心臓を締め付けられるものの、やられっぱなしだった思考が少しだけ落ち着いた。

 ウォルマーのカップだろうそれを手に取り、身についた所作で紅茶を楽しみながらしっかり喉を潤したあと、邪魔することなく見守っていたウォルマーの手を取る。そう、先ほどマドレーヌを押し付けてきた、この悪い手を。

 自らの口元に引き寄せ、ウォルマーと目を合わせたまま少しずつ舌を伸ばす。そして人差し指の先を、ゆっくりと舐め上げた。


「別にいいわ。それなら私は勝手にこうして、意地悪なご主人様の指で我慢してあげる」


 ちゅ、ちゅ、と幼稚な音を立てながら、何度も人差し指だけを啄むように口づけ、口元を緩めた。

 だって、こんな風にやり返さなくちゃ溢れ出そうになる。私の行動に煽られて、性急に腰を引き寄せ、唇を重ねるくせに。角度を変えて何度も何度も啄むだけの、触れるだけの口づけに留まるくせに。必死にその逞しい両腕で私を閉じ込めながら口づけるウォルマーへの感情が、次から次へと溢れ出そうになるの。


 だから絶対、こんなひどい男にはやり返さなきゃ気が済まない。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、この日から水やりのジョウロだけは扱ってもいいと許しが出たのだから、笑ってしまう。


そうして、奴隷落ちした元貴族の令嬢が公爵家の日常と化した頃。

 解毒剤の材料となる薬草もあとわずかで採取できる――そんな折に、それは起きた。


「……アイリアナ……?」


 アイリアナ・フロストの幼馴染であり、この世界のヒロインがすべての攻略対象者の中から最後に選んだ相手。

 この国の王子であるルドルフ・ゾラと、奴隷落ちしてから初めて再会したのだった。


 最後に彼を見たのは、私がヒロインに毒を盛ったと断罪されたときだったかしら。

 それは学園卒業直後に開かれた、ヒロインの誕生日パーティー。それまでの行いで接近禁止令を出されていた私が、たまたま休憩室で彼女と鉢合わせた直後、ヒロインが毒で倒れた。

 数々の証拠によって犯人は私だと決めつけられた、そのとき。侮蔑の色を浮かべた双眸で睨みつける彼の姿が、そう、確か最後だったはずだわ。


 奴隷に落ちた身で以前と同じ挨拶をするわけにもいかず、使用人と同じく口を閉ざして頭を下げる。

 交わす言葉もないだろうから、さっさと去っていくだろうと思っていたのに。なぜか近づいてくる足音を訝しんでいると、専属メイドが立ち塞がるように私と殿下の間に入った。


「……なんだ貴様は、下がれ」

「王子殿下にご挨拶申し上げます。この者はウォルマー様の所有する奴隷にございます。ウォルマー様から外の者との接触を禁じられておりますゆえ、どうかご慈悲を賜りますようお願い申し上げます」

「聞こえなかったのか。私は下がれと言ったのだ。次に同じことを言わせるならば、反逆と見なす」


 王族相手に恐れることなく職務を果たそうとした専属メイドに対して、殿下の物言いはあまりにも勝手で、さすがにイラッとして悪い虫が疼く。

 反逆と言われてしまえば一介のメイドにそれ以上言えるわけもない。私は専属メイドを下がらせながら、頭を上げた。


「お久しぶりでございます、殿下」

「アイリアナ……あぁ、久しぶりだね。あのときは……いや、過去のことはもう、よそうか。あー……そういえば、ウォルマーとは昔からそりが合わなかったから、きっとここでは辛い思いをしているのだろう? 君さえよければ、王宮で働けるよう取り計らうよ……どうだろう?」


 専属メイドに対する態度とはまるで別物のそれは、どこかぎこちない、照れと緊張が混じった態度。

 なぜ、彼がそんな態度を私に向けているのか、まったくもって理解できないし、したくもない。笑顔を浮かべながら伸びてくる殿下の手から逃れるように、身体を傾けた。


「光栄にございます。ですが、この身には過分でございます。なにより、私はご主人様の傍にいて、辛いと思ったことはただの一度もございません」

「…………ごしゅ……」


 あえてウォルマーのことをご主人様と呼べば、殿下は笑顔のまま動きを止めた。顔は笑っているのに、ゾッとするほど表情がない。

 しばらくそうしていたかと思うと、急に俯いて深く息を吐いたあと、ぱっと顔を上げてまた笑っていた。以前はここまで感情を露わにする人だっただろうか? もう少し、王族として威厳のある姿であろうと努めていたと思うけれど。

 そんなことを考えていたからか、伸びてくる殿下の腕に反応するのが一瞬遅れてしまった。手首を掴まれそうになったそのとき、腰を抱かれ、後ろへ引かれた。


「殿下、私の奴隷に何かご用ですか?」

「……ウォルマー」


 現れたウォルマーは私を抱き寄せながら、自分の大きな身体で隠すように強引に閉じ込めた。慣れ親しんだウォルマーの腕の中に安心しているのも束の間、彼は専属メイドに私を預けると、早く屋敷に入れと目配せする。

 私と専属メイドは息ぴったりに頭を下げて、その場から颯爽と逃げ出したのだった。


 後ろから殿下に名前を呼ばれたような気もするけれど、ヒロインに選ばれた殿下が一体今度は何を言ってくるのか……考えるのも嫌で、聞こえないふりをした。

 だって、そうじゃない。選ばれた殿下の様子がおかしいということは、ついにその日が近づいてきたという、なによりの証だったから。


 そしてその日以降、殿下だけでなく他の攻略対象者たちまでもが私に会いたいと、バルマン公爵家に押し寄せるようになった。

 当然、そんな彼らに対してバルマン家の門が開くことはない。けれど、結末に近づいているのだと恐れる私をよそに、ウォルマーは知らされてもいない外部との接触禁止令を破った罰として、どれほど忙しくとも毎日必ず甚振りの時間を設けるようになった。

 それも室内ではなく、あえて屋外で。人目に晒すような罰を、私に下したのだ。


 奴隷と口づける姿を使用人たちに見せつけるなんて、逆にウォルマーの評判を落としそうなものだが、それでも未だに、公爵家の中で私を疎ましく扱ったり、罵倒したりする者と出会うことはなかった。


「はぁ……足りないな。もう甚振られることに飽きたなら、俺から殿下に話を通しておこうか?」

「んっ、嫌よ。ここがいいの、あなたがいいわ」


 庭園の中央にあるガゼボでのティータイムと称した甚振りの時間。すっかり定位置と化したウォルマーの膝の上で、相も変わらず触れるだけの啄むような口づけを何度も落としながら、私はあの日から妙に可愛くなったウォルマーの両頬を撫でていた。


「どうして俺がいいのか、もっと噛み砕いてくれないと分からないな」

「……私はね、そうやって女の秘めた気持ちを言わせようとする、無粋なご主人様のものだからよ」


 そう答えると、若干顔を顰めたウォルマーのほうから唇を重ねられる。啄むというより押し付けるような強引なそれが、私の言葉を求めているようで、可愛くて仕方がない。

 こんな可愛い姿を見せられると、思わず好きだなんて言ってしまいそうになる。困るわ、すごく困る。確かに私にとってこの罰は、罰に相応しいものだった。


 そんな中、ついに薬草が育ち、こっそり解毒剤を完成させた日から二日後のこと。

 日課と化した甚振りの時間にウォルマーが庭園に現れないものだから、たまには仕返してやろうと、驚かせるために彼の執務室へ向かった。誰かが閉め忘れたのか、扉はうっすらと開いていた。

 それでもノックしようと近づいたとき、それは目に入った。


 微動だにせず、思い詰めた表情で執務机の前にいるウォルマーが手にしていたのは、ゲーム画面で何度も見た、あの毒瓶だった。


 ――あぁ、来てしまったのだ。

 ヒロインを思いながら自らあおる毒を睨みつけるウォルマーの表情からは、何かしらの決意が見て取れる。それは――もう戻らないと決めた人間の顔だった。


 それを目にした瞬間、膝から崩れ落ちそうになる自分の身体を支えるので精一杯だった。

 だって、そうでしょう?

 触れるだけとはいえ、何度も何度も口づけても。口では拒みながら身体は素直でも。次第に言葉を求めてきても。逞しい両腕の中に私を閉じ込めるくせに――それでもウォルマーの気持ちはヒロインに向いているなんて。


 覚悟を決めた彼を目にした瞬間、そんなことが浮かんで視界が滲んだ。

 分かっていたことなのに。

 ウォルマーがヒロインのことを好きだなんて、最初から分かっていたことなのに……悔しいなぁ。


 一度深く呼吸を整えて、膝に力を入れる。

 分かっていたことに傷ついて、泣いている暇なんてないわ。彼が決めたのなら、そんな結末を変えてやると決めるのも私の勝手なんだから。

 私は平然と扉をノックする。彼の許しを得る前に部屋に入ると、ウォルマーは急いで毒瓶を隠した。けれど、怒りはしない。

 そんな彼に近づいて、言葉を挟む隙も与えず、唇を奪った。突然のことに一瞬強張る彼の身体は、けれどすぐに緊張を解いて、私を自分の膝の上に座らせ抱き寄せる。自然と唇が離れると、くすりと微笑み、額を重ね合わせてくる。


「驚いたな。待ちきれずに甚振られに来たのか?」

「……そうよ、私って悪い子なの。だからねぇ、躾けてくれるでしょう?」

「……あぁ、いくらでも」


 ごくりと息を呑んだウォルマーが、蕩けそうな笑みを浮かべる。

 私は堪えた涙が零れないように静かに目を伏せながら、甚振りという名の口づけを待った。やがて触れるだけの口づけが何度も、何度も続いていく。


 本当に、本当にひどい男。

 ついさっきまで違う女のことを考えながら、今は私に向けて思わせぶりに笑うだなんて――本当にひどい人だわ。

 それなのに嫌になるくらい、彼を思って高鳴る鼓動を止めることができない。


 そんな私の心境なんて当然知る由もないウォルマーは、口づけの合間に短く息を吐くと、瞳を覗き込んでくる。


「あとで伝えようと思っていたんだが……しばらく、留守にするかもしれない」

「……どうして?」


 嫌な予感がして、思わず声が震える。

 いいえ、それはきっと、あの結末に向かうための言葉だ。悟られまいと、静かに呼吸を整えた。


「だいぶ前から抱えていた厄介な案件が、やっと片付きそうなんだ。それが終われば、」

「そうなの……――でも嫌よ」

「は? ……んむっ!?」


 覚悟を決めた顔で毒瓶を見ながら、しばらく留守になるかもしれないだなんて、そんなのもうお別れを言われているみたいじゃない。

 そんなの、絶対に嫌よ。

 無理やり顔を押し付けて唇を塞ぐ私に驚いていたウォルマーが理性を取り戻し、私を引き剥がそうと優しく力を込めるのが分かった。その前に自ら離れると、ゆっくり見せつけるように自分の唇を舐め上げる。


「厄介な案件が片付くのは喜ばしいことだわ。けれど何故、そんな祝うべき瞬間に私を置いていくのかしら?」

「アイリアナ……」


 なにか言われる前に、ウォルマーの唇に人差し指を押し付ける。

 呆気に取られて見上げてくるウォルマーの姿も可愛いなんて思う自分が悔しい。だから絶対、絶対に邪魔してやるんだから。


「ねぇ、ウォルマー? そんな喜ばしいときに、あなたの奴隷からご褒美はいらないの? 私は気まぐれだから、一緒に連れて行ってくれないなら、もう二度とあげないわよ」

「……っ」


 言いながら、押し付けた人差し指で彼の唇をなぞり上げた。そのまま離した指を、今度は自分の唇へ。いわゆる間接口づけでおあずけを強調しながら、ほくそ笑んだ。

 そんな私のゆったりした動作から一度も目を離さずにいたウォルマーは短い唸り声を上げ、睨みつけるくらい強い眼差しで私を射貫く。


「本当に、お前は……一体どこまで俺を狂わせれば気が済むんだ」

「――え?」


 ぼそりと呟かれた言葉がよく聞こえなくて尋ねる。

 けれど私の後頭部を押さえたウォルマーの手により、押し付けるだけの強引な口づけで掻き消された。

 思わず唇が開いてしまいそうになると離れていき、首筋や耳朶に甘く噛みつく彼の気まぐれで、また唇を押し付けられる。それを何度か繰り返し、私が息も絶え絶えになり始めたとき――。


「なら、お前も連れて行こう。その瞬間を一緒に祝ってくれるのだろう?」

「……えぇ、いいわよ。誰よりも祝ってあげる」


 ついに彼の許しが出て、毒で自ら命を絶とうとする彼の計画を阻止できる安心感から、力の抜けた笑みを浮かべる。するとウォルマーは、珍しく頬を淡く染めながら瞠目していた。

 それがあまりにも可愛くて、私はもう一度、彼に口づけたのだった。


 そして翌日。

 ウォルマーとお出かけデートだと張り切るメイドたちの手により、私は完璧な貴族令嬢に仕上げられていた。


 プラチナブロンドの長い髪は丁寧に編み込まれ、上品にまとめられている。黒曜石のような青みがかった瞳を引き立てるのは、イエロートパーズのイヤリングとネックレス。ウォルマーの瞳の色だ。深い青のデイドレスは露出を抑えつつも、軽やかなシルエットと繊細なレースで、どこか柔らかい印象を与えていた。


 意図せず気合の入った格好になってしまったが、玄関ホールで待つウォルマーが、着飾った私に見惚れて固まっていたので良しとしよう。


「ひどい人ね。着飾ったレディにかける言葉はないのかしら?」

「……あまりにも美しくて、言葉を失っていたんだ。そんなお前が俺のものだと、今から自慢しに出かける許しをいただけますか?」

「ふふ、もちろん。あなたのものだと自慢してちょうだい」


 なんて。珍しく冗談を口にするウォルマーに乗ってみせると、柔らかく微笑んだ彼は優しく私の手を取って、イエロートパーズの指輪を嵌めた。

 私と彼、二人の小指にそれぞれ嵌るピンキーリング。彼のものには宝石がないものの、形はお揃いだった。


「首輪をつけて自慢するより、上品だろ?」

「あら、私たちってそんなに上品だったかしら?」

「上品だろう? なんせ」


 わざとらしく言葉を区切るウォルマーが、私の耳元に唇を寄せる。


「数え切れないほど口づけを交わしていても、まだ子供のような可愛らしい口づけしかしていないじゃないか」


 まるで悪いことを吹き込むような怪しい声音の熱さに、身体がぴくりと反応してしまう。その良い声で囁くのは卑怯だわ。

 なんだか負けた気分になってじとりと睨みつけると、悪戯が成功した子供のように無邪気に笑うウォルマーがいて、私はまた、きゅんっと高鳴る心臓に弄ばれてしまうのだった。


 そんな形で、奴隷になって最初の外出は始まった。

 久しぶりの外の風景を堪能しているうちに、あっという間に馬車は王宮にたどり着く。


 この世界でヒロインが選んだのは王子殿下。婚約者となった彼女は、王子妃になるため王宮で花嫁修業を受けているのだ。

 ゲームの中でヒロインを思いながら毒を飲む場所は様々だったが、どこにだってついて行ってやる。本来のゲームにはなかった状況がどう作用するか分からないけれど、彼の計画を阻止できるまで絶対に離れてやらないわ。


 なんて意気込んでいたのに、王城に着いてすぐ連れて行かれたのは、謁見の間だった。

 玉座には両陛下。その両脇を固めるのは、国を支える貴族たち。その最前列に、殿下とヒロインの姿が見える。……さすがに予想外すぎるわね。

 それでも私はウォルマーの後ろに控えて、彼に倣った。


「ウォルマー・バルマンが、両陛下にご挨拶申し上げます。今回はこのような場を設けていただき、心より感謝申し上げます」

「よい。堅苦しい挨拶など不要だ。……アイリアナも、よく来てくれた」


 国王陛下に声を掛けられ、ウォルマーに目配せすると、挨拶の許可を受けたので、彼の横に並んで改めて頭を下げる。


「両陛下にご挨拶申し上げます」

「……いや……よいのだ。元気にしているようで安心したぞ」

「身に余るお言葉をいただき、恐悦至極にございます」


 私がウォルマーに許可を貰う姿や、名を告げて挨拶しない様子に、両陛下が痛ましい表情を見せていた。その理由が分からなくて居心地の悪い思いをしつつ、丁寧に頭を下げて、またウォルマーの後ろに控える。

 そもそも、両陛下や貴族たちを謁見の間に集めて、ウォルマーは何をするつもりなのだろうか。恭しく顔を上げたウォルマーに向けて、国王陛下が口を開く。


「では、これよりアイリアナ嬢が犯したとされた、第一王子の婚約者であるソフィー・ミゴール毒殺未遂事件についての再審を行う」

「――っ!」


 一瞬、自分の耳を疑った。

 けれど、両陛下の近くに控えるヒロインが驚いている様子に、聞き間違いではないと確信する。視線は自然とウォルマーを向いていたようで、彼は一切の動揺もなく微笑んでいた。

 その力強さが、この状況が現実であると知らせてくる。


「事の発端は、ソフィー嬢の誕生日を祝したパーティー。それまでの行いにより接近禁止令の出ていたアイリアナ嬢が、休憩室にてソフィー嬢と二人きりになったあと、ソフィー嬢が毒で倒れた事件は、皆の記憶にも新しいだろう。その件について、バルマン公爵家次期当主、ウォルマー・バルマンから新たな証拠が提出され、再審に至った。開示を許可する。ウォルマー公爵子息……皆に説明を」

「ありがたく存じます」


 感謝を告げたウォルマーが合図をした直後、出入り口の扉が開く。

 以前、決定的な証人となった侯爵家のメイドと、下級貴族の令息令嬢たちが数人。そして、私が盛ったとされる毒の入った瓶が運ばれてきた。


「アイリアナ・フロストといえば、悪名高い侯爵令嬢。そう認識している方が大半でしょう。事実、彼女はソフィー嬢に対して嫌がらせを繰り返していた。否定はしません」


「……そうだな、ウォルマー公爵子息も被害者だろう。アイリアナ嬢が特に嫌っていたと聞く」

「あぁ、学園では犬猿の仲だと有名だったようだ。顔を合わせては、聞くに堪えない言葉を投げつけていたらしい」

「なんて野蛮な……そういえば、いつぞやのパーティーでどこかのご令嬢にナイフを投げていなかったか?」

「社交界の薔薇と言われていたが、あんな物騒な薔薇は、彼女以外に今まで見たことがない」


 過去の行いで判断する人々の嘲笑が聞こえる。残念ながら、そんなことに傷つくほど優しくはないし、突然のことに混乱してウォルマーを唖然と見つめる私には届かなかった。

 そうして一通り室内に広がる嘲りの笑いが落ち着いたあと、ゆっくり口を開くウォルマーの声音は、ゾッとするほど冷たいものだった。


「――ですが、その認識は一面に過ぎない」


 室内に広がっていた下卑た空気が、一瞬で吹き払われた。

 確かな心地よさを感じながら、私は未だにウォルマーから目が離せずにいた。


「最初は、元平民であるソフィー嬢にマナーを伝える程度のものだったと聞いています。ですが、それが繰り返されるうちに、行動は次第に過激になっていった。一人で伝えても直らないのなら数人で。数人で足りないのなら、さらに増やす。そうしてソフィー嬢は女子生徒たちから距離を置かれるようになり、結果として男子生徒との関わりが増えていった。それを見たアイリアナ嬢の忠告も、より厳しいものへと変わっていったのです」


 同じようにウォルマーから目を離さない人々から、やはり私に対する非難の視線が向けられる。


「しかし状況は変わります。高位貴族の子息たちがソフィー嬢に目を向けたことで、立場は徐々に逆転していった。孤立していったのは、むしろアイリアナ嬢のほうだったのです」


 けれど、そのたった一言で誰もが瞠目する。そんな彼ら一人ひとりと目を合わせるように、ウォルマーは続ける。


「それでも彼女は態度を崩さなかった。だからこそ、周囲にはその変化が見えにくかったのでしょう。強く振る舞う者ほど、弱さは見えないものです。……私もまた、偶然その姿を目にしていなければ、気づくことはなかった」


 最後の言葉に、カッと頬が熱くなるのを感じた。

 まさか見られていたなんて、そんなの聞いてないわ。そんな私をよそに、彼の言葉は止まることなく。


「では、そのような状況でアイリアナ嬢が毒を盛る理由があったのか。逆に孤立させられた恨みを晴らすため? 強かにやり返すようなアイリアナ嬢が? 私はそうした疑問を抱き、再調査を続けてきました」


 いよいよゴシップめいた内容に面白半分で人々が食いつくのを、ウォルマーが見逃すわけもなかった。

 わざとらしい身振り手振りのパフォーマンスでさらに惹きつけると、軽やかに言葉を奏でる。


「調査の中で気づいたのは、証言の多くが彼女を軽んじる前提で語られていたことです。特に近しい使用人でさえ、彼女に対して適切とは言えない扱いをしていた形跡がある。そのような関係性の中で、脅されて毒を用意した――毒殺未遂事件でアイリアナ嬢を犯人だと決定づけたその証言に、私は違和感を覚えました」

「……ウォルマー。さっきから黙って聞いていれば、少し脚色が過ぎるのではなくて?」


 けれどそれを止めたのは、それまで黙っていたソフィーだった。

 上品に扇子で口元を隠しながら、彼女は続ける。


「当日、私との接近禁止令を出されていた彼女が不審な様子を見せていたと、数多くの証人がいたじゃない。なによりも、あなたは使用人が軽んじていたと言ったけれど。長期間、暴行を加えられていた痕が使用人の身体に残っていたからこそ、元侯爵令嬢の暴力性が明らかになり、脅したと――」

「だから復元した」


 まるでこの瞬間を待っていたかのように、空気が変わった。


「暴行の痕を、復元魔法でな」


 一瞬、静寂が落ちた。

 次の瞬間、どよめきが爆発する。


 なぜって、魔法が貴重とされるこの世界でも、復元魔法は王族の許可なく使用を禁じられたもの。人体に施すと当時の痛みまで再現される残虐性から、相手が大罪を犯した死刑囚でもない限り、人に使うことは禁止されている禁忌の魔法。

 さすがに前世の記憶を持つ私でさえ、これには驚いた。


 数か月に及ぶ暴行の痕と、メイドの怯える姿で私の暴力性が立証され、私の部屋にあった毒瓶が決定的な証拠となり、私は人に害をなす人間だと、毒殺未遂の犯人として奴隷に落ちたのだ。

 その根本的な話を覆すためとはいえ、間違いなく怪我をしていた人間の身体に復元魔法だなんて……。

 冒涜的だと騒ぐ貴族たちの怒声を聞き流すウォルマーを、私はただただ見つめることしかできない。


「アイリアナ嬢が不審な行動をしていたと証言した令息令嬢たちの家には、嫌がらせによりアイリアナ嬢から奪った品々があった。公爵家による捏造だと言われないためにも、両陛下に申し出て、高位裁判官数人の立ち会いのもと、すでに彼らの家から押収している」

「なん……っ!? そ……っ、そんなひどいことをしていたなんて……私、知らなくて……」


 なんて、大袈裟に驚くソフィーの悲しげな声が、静かな室内に響いていた。

 しばらくその声を黙って聞いていたウォルマーは、私のほうへと振り向いて、恭しくエスコートの手を差し出してきた。この場に似つかわしくない行動に、思わず場違いにも笑ってしまいそうになる。

 自然と伸びていた手を取られ、私は一歩前に出た。


「だからこそ、野蛮で冒涜的と分かっていても、暴行の痕を復元することにしたんだ。誰の目にも分かる形で示すために」


 そのままウォルマーのエスコートに導かれ、侯爵令嬢だった頃、私の世話係をしていた使用人の前までやって来た。以前の傲慢な態度はなく、顔色の悪い彼女は、私ではなくウォルマーに怯えている。

 彼女の両脇に控えていた公爵家の女騎士たちが、その場で使用人に膝をつかせ、背中がよく見えるように頭を下げさせる。最低限の尊厳を守りながら背中の一部分だけが見えるよう衣服を解くと、そこには直視するにはあまりにも痛ましい靴底の痕があった。

 何度も踏みつけたような、恐ろしい痕だ。


 右手を支えてエスコートしていたウォルマーは、そのまま迷うことなく私を使用人の前に誘導し、微笑んで頷いた。


 ――だから私は迷うことなく、目の前の痕に重なるように、そっと彼女の背中へ靴底を乗せた。


「――これは……っ!」


 瞬間、謁見の間に響き渡る驚愕と動揺の声。

 皆がどこか興奮を隠せない様子で身を乗り出し、自分が目にしている真実を反芻して確認しようとしている。


「待ちなさいっ! どうせサイズの違う靴を用意したんでしょ!? そんなの証拠にならないわ!」

「そう言うと思って、侯爵令嬢だった頃のアイリアナ嬢が着用していた靴をお借りしている」


 その場で否定の声を上げるソフィーに被せるように、ウォルマーは言った。

 近くに控えていた、王国の紋章をあしらった鎧をまとう騎士が、以前私が使っていた無駄に豪華な靴をウォルマーに差し出す。その紋章を身にまとう騎士たちが現れたことで、両陛下の考えは、言葉にされずともその場の全員に伝わったことだろう。


 私は足を退ける。

 退けたそこに靴を重ねると、やはり、痕よりも明らかに大きいことが見て取れた。そう、私はこの世界の平均身長よりも少し高く、足のサイズも他の令嬢に比べると大きいほうだった。

 以前は平均よりも大きい足のサイズが好きではなかったけれど、今だけは好きになれそう。


「おい……これはどういうことだ」

「ソフィー嬢の毒殺未遂は冤罪だったということか?」

「いや、使用人に暴行を加えていないというだけで、毒を用意させたのは事実では?」

「お前はさっき何を聞いていたんだ。ウォルマー公爵子息が、あの使用人は侯爵令嬢だったアイリアナ嬢を軽んじていたと言ったじゃないか」

「じゃあ、侯爵令嬢だったアイリアナ嬢を犯人に仕立てるために、身近な使用人に毒を用意させたように見せかけた犯人がいるということか?」


 ドレスの裾を綺麗に直し終えた頃、靴を騎士たちに戻したウォルマーは向き直る。


「これらを踏まえた上で、お聞きします。何故、このようなことをされたのですか?」


 その視線は真っすぐ、ただ一人へと向けられた。


「――ソフィー嬢」


 シン、と静まり返る謁見の間に広がる緊張感。王子殿下の婚約者にまで上り詰めた、元平民のヒロインに対する反撃の一手。

 私の名が地に落ち始めた頃から、こぞってソフィーに鞍替えした貴族の面々。その蒼白した顔よりもずっと、彼女は色を失っていた。


「……なに、を……」

「あぁ、反論は結構。まずは使用人の背中に足を乗せてからでお願いします」

「――……っ!」


 聞こえるはずもない彼女の悔しさから滲む歯軋りの音が、耳に届いた気がした。否定もせず、靴底の痕に近づけない時点で、彼女は自らの罪を認めざるを得なかった。

 誰も口を開かない。言い訳も、否定も許されない。ただ真実だけが、その場に残った。


 ウォルマーはこちらに振り返ったかと思うと、再び私に向き直ってエスコートの手を差し出した。背筋を伸ばして正す姿は、出会ってから一番の威儀を感じさせた。

 だから私もつられて倣う。誰よりも美しく見えるように、堂々と。私の手を取ったまま、ウォルマーは大袈裟なほど、けれど細心の注意を払って大胆に頭を下げる。


「以上になります。ご清聴ありがとうございました」


 そう言って締めくくる彼の姿は、まるで無実の私を皆に見せびらかして、自慢するかのようだった。


 それからは、あっという間に様々なことが掘り返された。

 私の冤罪から始まった疑惑はすべて、公正を期す裁判所によって精査され、つまびらかにされていった。貴族からの反感も高かった復元魔法の使用についてだが、王子殿下の婚約者にまで至ったヒロインが自ら行った暴行、そしてそれを他者に押し付ける行為は王家に対する欺瞞とされ、両陛下により特別に許可されたものらしい。

 とはいえ、私がヒロインに対して行った数々の嫌がらせも、決して嘘ではない。仕返しにしてはやり過ぎだと責める声と、ヒロインの肩を持つ声で意見は分かれてもいたが、自作自演とはいえ、ヒロインが自ら毒を飲んだ行為自体を罰することはできず、結局のところ婚約解消と貴族籍からの除籍……平たく言うならば、平民に戻る罰が下された。

 まぁ、けれど強かなヒロインとしてのポテンシャルと彼女の気概があれば、いつかまた、どこかで綺麗な姿で闊歩していそうなものである。


 そして冤罪が晴れ、自由を得た私はといえば――相変わらずバルマン公爵家で気ままな生活を送っていた。

 陽射しを浴びながら、手に馴染んだジョウロで植物に水を与えていると、一連の後片付けで連日執務室に囚われていたウォルマーが、一週間ぶりに訪れた。


「あら、もう少し来るのが遅かったら悪さするところだったわ」

「どうせ可愛いものだろう」

「よく分かってるじゃない。あなたの衣装室に忍び込んで、すべてのクラバットに私が育てたハーブの染みをつけてやろうと考えていたの」

「……それは可愛くないな」

「あら、でも許してくれるんでしょう?」


 わざとらしい上目遣いで尋ねてみせると、ウォルマーはため息を吐きながら私を引き寄せた。


「もちろん許すさ。だが罰もある。それは分かっているんだろう?」

「あらあら、罰ってなんのことかしら? 確か私の奴隷落ちは白紙――いえ、もともと奴隷落ちなんてしていなかったそうじゃない? 娘に対して口下手などこかの侯爵家と、隠しごとばかりの公爵家次期当主が口裏を合わせていただとか。まさか嫁入り前のご令嬢に、罰だと称して手を出すなんて真似、するわけがないわよね、ウォルマー様?」

「……分かった、悪かった。俺が悪かったから、許してくれ、アイリアナ」


「アイリアナ嬢、でしょう?」

 と笑顔で告げれば、渋々といった様子でウォルマーは「許してくれ、アイリアナ嬢……」とうなだれていたので、心優しい私は許してあげることにした。


 そんな私を見て苦笑したウォルマーにエスコートされ、もうすっかり慣れ親しんだガゼボに移れば、毎度のことながらしっかりお茶の準備がされている。

 ウォルマーの膝の上ではなく、向かい合うように椅子に腰かける私の様子を、何か言いたげに見ていた彼の視線はもちろん無視したわ。


「少し長くなるが……聞いてくれるか」


 と、若干私の様子を窺いながらウォルマーが語るのは、私の知らなかった“あの日の裏側”。


 捕らえられた私を、家族はすぐに救い出そうとしていたこと。

 けれどその頃には、私はすでに奴隷として競りにかけられていたこと。

 話は、私の知らない過去のことから始まった。


 この国の奴隷は、購入後に主人の手で印を刻むことで契約が完了するのだが、ウォルマーは刻印せずに連れ帰ろうとしたらしい。

 だが、そのとき問題が起きた。


「お前は……引き渡しの直前に毒を飲んだ」

「…………そう」


 残念ながら、そのときのことを私はまったく覚えていなかった。けれど、淡々と告げられた言葉に驚きはない。

 むしろ、妙に腑に落ちる。


「だから俺は、そのまま連れ帰った」


 私の家族からも頼まれ、公爵家で預かったものの、一向に目覚めない。解毒も済ませたというのに……。

 そうして五日目になってようやく、私の目が覚めたのがあのときだったという。


 目覚めてすぐの彼の態度。距離を取りながら、わざと突き放すような言葉。

 あぁ、なるほど。

 すべてが繋がっていく。


「優しくすれば、また死ぬかと思った……お前が俺の前から消えるなんて耐えられるわけがない。ならいっそ、俺だけを見ていられるように――嫌われ役でいいと思ったんだ」


 その声に胸が軋む。

 呼吸すら忘れそうになって、言葉を絞り出した。


「……不器用ね」

「まぁな。自覚はあるさ」


 いつかの私のように、自嘲気味にウォルマーが笑った。

 その優しい眼差しは、だけど少し困ったように私を見つめてくる。


「それなのにお前ときたら、思わせぶりに口づけてくるし、好き勝手振る舞うしで……随分困惑したぞ」

「そのくせ楽しんでいたのは、どこの誰だったかしらね?」


 なんて減らず口を叩くと、ちょっと睨まれた。

 まぁ、それは置いておいて。


 自殺を図ったにしては元気だが、どこか自棄に思えるときもある。

 私を観察しながらも、ウォルマーは私の家族と協力し、私の無実の証拠を集めた。その中で知っていく、様々なこと。


 ヒロインに嫌がらせしている私が、まさかヒロインからも嫌がらせされているなんて、きっと誰も気づくことはなかったはずだ。

 どうやらちゃんと情はあったみたいだけど、私の前では厳しくよそよそしい家族だった。食事も部屋で取っていた私がどんなものを食べていたのか、それを知っていたのは使用人くらい。

 だから、誰も知らなかった。


 けれど、ウォルマーはそのすべてを明らかにし、自ら毒殺未遂事件を起こしたヒロインに復讐するため、動き出したのだ。


 ――それがあの裁判だったというわけだ。


「そうして調べていく中で、お前が自ら飲んだとされる毒が、あの女の手によって用意されたものだと明らかになった」

「……あぁ、そういうこと」


 それじゃあ、覚えていないのも当然よねぇ。世間では私に虐げられる可哀想なヒロインが、実は裏で私を虐げていただなんて、当然口封じしたかったでしょうに。

 自分の身に起きたことなのに、他人事のように驚いている私を睨むウォルマーの視線に咎められて、わざとらしく肩を竦めた。


「お前はなにも思わないのか?」

「あら、そんなことないわよ。けど、応酬を交わすことなんて社交界じゃよくあること。立場を脅かされたほうの負け。つまり私はね、ただ負けただけなのよ」

「なら、あの女を恨んではいないと? そのくせ、お前はどうでもいいと自棄に振る舞っていただろう」

「恨んではいないわ。自棄、は……そうね、自棄になっていたと思うわ。だって――」


 身から出た錆とはいえ、私が無実を訴えたところで誰も信じてくれないくらい、私はもう取り返しのつかないところまで落ちていたから。

 私と彼女の立場が入れ替わってから、自分の無実を訴えようと努力しなかったわけじゃない。けれど、自分の声が誰にも届かないことを知ったとき、どれだけの絶望を感じるか知っているかしら?

 指先から徐々に冷えて力が入らなくなり、無力と孤独を突き付けられるのよ。


「誰も信じてくれなかったもの」

「……」

「あぁ、でも――」


 でも、そんな中でもあなただけは違ったの。

 互いに目が合うたびに嫌味が飛び交うのは変わらなかったけれど、あなただけは頭ごなしに私を否定するんじゃなくて、ちゃんと理由があるから私を叱っていたのよね。小言みたいなそれが嫌で、私はあなたに突っかかっていたのだけど。


「でも?」

「ふふ、嫌よ。教えてあげない。あの子に惹かれていた人には教えてあげないわ」

「は?」


 意地悪に笑ってみせると、ウォルマーは初めて見るほど不愉快な表情で私を見つめた。


「俺があの女に惹かれていたと? どこをどう見たらそう思うんだ。そもそも以前、俺はお前を好いていると言っただろう」

「……はい?」


 今度は私が間抜けな声をあげて、彼を見つめる番になる。

 ウォルマーが私を好いているだなんて、そんなの聞いたことないわよ。


「どうせ忘れているんだろう? 人にハンカチを投げ捨てたことを」

「……ハンカチ?」


 いまいちピンと来ない。訝しげに首を傾げると、ため息をついたウォルマーがしぶしぶ口を開く。


「一人で平気な顔をしていたくせに。誰もいないところで、必死に泣くのを堪えていた日だ」

「――……っ」


 言葉を失う。

 そこまで言われて、じわじわと記憶が蘇ってきた。


 確かあれは、そう、ウォルマー以外の攻略対象者たちから、一斉に婚約者候補を取り下げる旨を伝えられたときだ。

 ヒロインに誠実でありたい――なんて美談として語られるあの場で、私はただ一人、中庭に取り残された。


 泣くなんてみっともなくて、それでも悔しくて。

 あんな連中に泣いてなどやるものですか、と奥歯を噛み締め、堪えていたあの日。


 あのとき、誰にも見られていないと思っていたのに。


「そんなお前を見るのは初めてだったし、声をかける気はなかった……あの顔で突っぱねられたら、さすがの俺でも堪える。それでも放っておけなかった。だから」


 そう、そのとき。

 廊下に出たところで、彼と鉢合わせた。


『……随分と珍しい場所にいるんだな』

『あなたに関係あるかしら?』

『いいや、ないな』


 変わらない、いつものやり取り。

 けれどすれ違いざま、彼は何気ない動作でハンカチを差し出した。


『……使え』


 たったそれだけ。

 その一言と行動に、私は湧き上がる感情をそのまま吐き出す。


『なんのつもり。あなただってどうせ、婚約者候補の取り下げを言いに来たのでしょう?』

『……はぁ……。お前の行動は確かに目に余る。それでも俺は、あいつらのように取り下げる気はない』

『なによそれ、好きだとでも言うつもり?』

『そうでもなければ、わざわざこんなことしないだろ』


 そしてその感情は途端に怒りとなって、静かに燃え続けていたそれを、彼にぶつけるように。


『馬鹿にしないで! 婚約者候補なんて、こっちから願い下げよ!』


 と、差し出されたハンカチを彼めがけて――。


「顔面に投げつけたわね」

「……あぁ」


 短く肯定する声に、妙な間が落ちた。

 けれどすぐに、低く続く。


「それでも、やめる理由にはならなかった」


 ――やらかしてたの、私じゃない。


 いいえ、彼だって好きだなんて一言も……いえ、普通は分かるわ。

 押し寄せる後悔と羞恥心から両手で顔を覆い隠すと、そんな私を見て笑うウォルマーの声が聞こえた。


「その姿で少しは気が晴れた。婚約者候補ではなく、お前自身を意識し始めたのはそのときだ。それから何度か同じ顔を見た……泣くことすら我慢して、平気なふりをするお前を――……そのたびに、他の誰にも触れさせたくないと思うようになった」


 なのに後悔で押し潰されそうな私に、彼は容赦なんてしてくれない。

 一段と低く、あの日のやり返しをするみたいな悪戯な声で、ウォルマーは続ける。


「あの誕生日パーティーのとき、救えなかったのは確かだ……だが、それで終わらせる気はない。他の男に奪われるくらいなら――二度と外に出せなくしてでも、手元に置くつもりだった」

「……ひどいご主人様だったのね」

「ひどいのはどっちだ。俺の気持ちを踏みつけておいて、無防備に寄ってきて、何度も期待させて……そのたび、どれだけ我慢したと思っている」


 理性を保ったわりには、わりとしつこく口づけてきた気がするのだけれど。

 なんて言い返したら負けるのは目に見えているから、口を噤んでじとりと睨みつけておく。それでも嬉しそうに笑うウォルマーを見ていると、負けでもいいかもなんて思ってしまうのだから、我ながら単純で悔しい。


 ……でも、そういうことなら納得だ。

 私が思い描いていたバッドエンドと違っていた理由も。


 そもそもウォルマーが私を好いていたのなら、ヒロインに告白なんてするはずがない。

 つまり以前の私は、全員がヒロインを好きだと勝手に思い込んでいただけ、ということよね。


 ……いや、待って。

 じゃあ、あのとき。執務室であんな顔で睨みつけていた毒瓶は、一体なんだったのよ。


「ねぇ、それじゃあ以前、執務室で睨んでいた毒瓶はなんだったの?」

「……ああ。お前が飲まされた毒だ。お前を奪われた証みたいで、捨てる気にはなれなかったんだ。だから残してある。いつでも同じ目に遭わせられるように――今からでも手配しようか?」

「いえ、結構よ」


 ……この人、私が止めないと本気でやるつもりだわ。ぞくりと背筋が粟立つのを感じながら、ふと考える。


 ――あぁ、でも。もしもあのとき、私のほうが先に動いていたら。用意していた毒をあの女に使っていたら。きっと結果はまた違っていたのかもしれない……なんて、そんな考えが浮かぶ時点で笑えないわね。


 彼ならもう気づいているかもしれないけれど、そんな些末なこと、確認する必要もない。


 先ほどのウォルマーの物言いに、心の奥底で喜んでしまう自分を落ち着かせるために、一度、紅茶で唇を湿らせた。

 それにしても……私が飲まされた毒を一人で睨みつけていただなんて。まるで最初から私の無実を証明するつもりだったみたいじゃない。いや、実際そうだったのだ。それを私は勘違いして、ヒロインに渡したくない、なんて見当違いな理由で食い下がって……。


「アイリアナ?」

「……っ」


 名を呼ばれて、思わず視線をウォルマーに向けてしまう。

 あぁいやだ。またも湧き上がる羞恥心で、きっと私は赤面しながら、どうしたらいいのか分からない表情でぐちゃぐちゃになっているだろう。


 彼は瞠目したあと、一人用の椅子に腰かける私に近づいてきた。

 近づくウォルマーを少しでも遠ざけようと、無意識に伸びた両腕は彼の逞しい胸板に簡単に押し返されて。肘掛けに両手をついて身を屈めたウォルマーは、慌てふためく私の耳元に唇を寄せると囁いた。


「ずっと、変わらずお前が好きだ」

「――っ」

「悪態をついても、好き勝手振る舞っても、自棄になっていても。口づけるとき、無意識に甘えるように身を寄せるところも。俺にこうして囁かれると真っ赤になるところも全部……全部好きなんだ」

「……~~っ!!」


 言葉にならない破壊力に声も出せず、唇を噛み締めた。その途端、彼の指で顎を掬われる。

 優しく触れる口づけは、なのにどこか逃がしてはくれなくて。私が自ら噛み締めた箇所を癒すように、軽く食んでは重ねられる口づけが、言葉以上に彼の思いを伝えてくるから泣きそうになる。


「……それでも一度、お前の気持ちを優先したつもりだった。俺を拒んだお前を無理に縛るのは違うだろう? だから距離を置いて、好きにさせた……その結果があれだ」


 なのにふと、悔いの滲む甘ったるい声で、私の意識をさらう。


「だからもう、間違えない」


 言い聞かせるように、刷り込ませるように。


「逃げようとしても無駄――なんて野暮なことは言わない。だが、お前がどれだけ遠回りしても、最後は俺のところに戻るようにしてある」


 唇が触れ合う距離で、ウォルマーは熱を孕む瞳で私を見つめながら続けた。


「少しばかり執着が過ぎる自覚はあるが……もう、手放さない――それでもいいなら、俺と結婚してくれ、アイリアナ」


 その瞳の奥の奥に潜んだ感情が一体なんなのか、両手両足を枷で繋がれていたあの日の私は気づくことはなかったけれど、今なら分かる。


 好いた相手の心に刻めるなら、無垢で純真な思いでなくとも深く、深く残したいのよね。

 相手の心を掻き乱しているのが自分だと思うと、この上なく興奮するのよね。


 逃げ道を塞いでおきながら、最後の一線だけは私に託すウォルマーの優しさが隠せていなくて、思わず笑みがこぼれた。

 急に笑った私を不思議に思ったのか、覗き込んでくる彼の首に腕を回す。引き寄せて、不意打ちのまま唇を重ねた。あの日と同じように。


 今度は、押し返されることもない。


 ゆっくりと離れて、息を整える。

 それでも距離は、ほとんど変わらない。


「そんなの、断れるわけないじゃない」


 小さくこぼれた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 まるで逃げる気なんて、初めからなかったみたいに。


「だから責任を取ってちょうだい、ウォルマー……最後まで、ちゃんとね」


 囁くように続けたその言葉に、彼がわずかに目を細めた。

 唇が触れるか触れないかの距離で、呼吸だけが重なる。次にどちらが動いたのかなんて、もう分からない。ただ、何度も、何度も――確かめるように口づけを交わした。


 逃げ場なんて、とっくになくなっているのに。

 それでも、嫌だと思えない自分がいる……それが悔しい。


 だから私はそっと、彼の胸を軽く押して、ほんの少しだけ距離を取った。


「……けど、好きにされるだけだと思わないでね? ――ご主人様?」


 囁いてから、わざと触れない距離で、引き止めるように見つめた。

 逃がさないのはあなただけじゃない、と言うように。


 そんな私の冗談めいた行動に面食らっていたウォルマーは、けれど次の瞬間、初めて見るような困った笑みをこぼした。

 そしてその両腕に私を閉じ込めながら、深く口づける。


 今度こそ、甘くて逃げ場のない、蕩けるような口づけを。


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