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白鳥の湖 どうして王子は愛を貫けなかったのか

作者: 花晨月夕
掲載日:2026/04/29

2026年5月1日改稿 改行を入れました。たくさん。

第1幕


 ナーロッパ大陸では数多の国々が勃興し滅亡していく。


 興亡する国の一つにヴュルテンヴァルト王国がある。大国間に設けられた緩衝帯にある小国だ。内陸に位置しており、山がちな土地柄で深い森林があるため林産物は豊富、また丘陵地帯では畜産が行われている。地味(ちみ)には乏しい。小麦栽培が可能な北限に近い土地で、ライ麦やオート麦栽培に比重を置く。農産物は自給できるかどうかの(きわ)だった。そこで、実直勤勉な気質の農民たちは、食べていくために家内工業を発達させた。冬の農閑期に麻布や毛織物などを生産して、国外に流通させるのだ。


 そんな国でも王の城館(シュロス)では贅を尽くした祝宴が開かれる。第二王子の成人式典の一環だ。




 城館は丘の上に建つ。城下には王都の町並みが広がり、その向こうに低い丘が連なり、次第に森へと続いていく。


 成人式典の執り行われる晩秋の日、城館の前庭(エーレンホーフ)に近隣の都市住民・村人たちが集まる。普段は平民の立ち入れる場所ではないが、祝祭の日は朝から夕方まで開放されて、酒や料理が振る舞われるのだ。幾何学模様の植栽(トピアリー)は庭師の手で刈り整えられたばかり。噴水もていねいに掃除されて、普段以上に透きとおった水を噴きあげている。


 この日に合わせて招かれた楽団がフィドルやハーディガーディを用いて素朴な舞曲レントラーを奏でると、村人たちは音楽に合わせて軽快に飛び跳ねながら踊る。


 料理の並んだ広い卓子の横には、隣国から取り寄せた葡萄酒の大樽が並ぶ。隣国産葡萄酒は国内で生産されるものよりも高級品として扱われている。ヴュルテンヴァルト国民にとっては遺憾である。だが実際に飲んでみると国産品より香りも味も芳醇で、納得せざるを得ない。たぶんブドウ栽培の時点から差があるのだろうといわれている。ヴュルテンヴァルトは隣国ほどブドウ栽培に適した土地ではないのだ。遺憾である。まだ小さい子には国産ブドウを絞った果実水が与えられた。高級品は大人になってから。


 酔っ払った人々が王子の成人を祝って歓声をあげようとした。


「第二王子殿下、お誕生日おめでとうございます!」

「第二王子……殿下の名前……」

「「なんだっけ?」」


「ジークフリート」と、青年が酔っ払いたちに教える。成人するかしないかという若い男だ。他の村人たちのように麻織のシャツに毛織の上着とズボンを身につけているが、髪や肌には艶があって、群衆の中でも人目を引く。


 傍にもう一人、似た雰囲気の青年がいる。彼も第二王子の名を繰り返す。「そう、ジークフリート殿下ですよ」


「そうそうジークフリート殿下」と酔っ払いたちは頷きあう。そうして、あらためて歓呼する。「ジークフリート殿下万歳!」

「「「ジークフリート殿下万歳!」」」


 青年二人も葡萄酒を飲み、踊り、歓声をあげて楽しむ。


 やがて陽が傾き始めた。青年二人連れだって村人たちの間を通り、前庭の端の人目につかない植栽の隙間に潜りこみ、その奥へと抜けて、城の本館側翼裏手の出入口の前に出た。扉を開けてするりと建物の中に入る。後ろからついてきたもう一人の青年が、出入口の前に立つ。誰にも見られていないことを確認すると建物に入り、すぐに扉を閉めて内鍵をかける。


 先に入って待っていた青年が笑顔で声をかける。


「私の名前、知られていなかったな」

「殿下は公の場に出ることが少ないですしね。ジギが単身お忍びで平民に交じっていることがあっても、ジークフリート王子としての存在は平民たちの生活とは遠いでしょう。今後公務をこなしていけば違ってきますよ」

「そうだな…」まあ、王太子である兄上のような立場とは違うから、知られないままでいいような気もするな――とジークフリートは思うが、口には出さないでおく。

「では、また後でな、ベンノ」

「ええ、のちほど殿下の部屋へ参ります」


二人はその場で別れて、城館の中を別方向へと歩き出す。


 ジークフリートは、ヴュルテンヴァルト女王の三人息子の真ん中、第二王子だった。第一王子である兄は、何年か前に成人と同時に立太子した。既婚だがいまのところ子供はいない。だからジークフリートは王太子の予備代替の役割を保ったままでいる。だが、第一王子である兄は幼少期から頑健かつ頭脳明晰で次代の王の資質を充分みせていた。そのためジークフリートは王位継承権者としての自覚は薄かった。自分よりも弟の第三王子のほうが優秀で、宮廷になじみ、次代の王の予備役にふさわしいのではないかと思うこともある。それに、王太子の子が生まれたら、ジークフリートの王位継承権は下がって王位継承権を持つ者としての責任も薄まっていく。王太子夫妻の仲は睦まじいので、子ができるのもこれから先それほど遠いことではなさそうなのだった。


 とはいえ成人王族となれば公務を任される。王子の一人として女王を支え、兄が王位を継いだ後は王弟として王を支えていく。ジークフリートも王族として相応の教育は受けていたし責任はある。ジークフリートは彼自身の成人式典を目前にして身が引き締まる思いでいた。




 夕刻になって、城内には行き交う宮廷人たちのあわただしい気配が満ちる。まもなく主館の儀礼用主階大広間で始まる祝宴に向けて最終確認の段階だった。宴の前には城内の教会で礼拝も行われる。礼拝堂では牧師が中心になって祈祷の支度をしているはずだ。


 主館側翼にある王子の居室にもざわめきが伝わってくる。ジークフリートは侍従に手伝ってもらって身支度を終えたところだ。成人祝典の主役らしく正礼装を身にまとい、普段は乱雑に流している髪もていねいに櫛を通して整えた。成人王族らしく立派に見えるだろうか。姿見の前に立って身なりを確認する。


 そこに居室の扉の外から衛兵の声が掛かった。控えていた侍従の一人が衛兵に確認をして扉を開ける。ゾンマーステルン家のベンノが入ってきた。ベンノはジークフリートと同い年。


幼い頃からの友人だった。ゾンマーステルンはヴュルテンヴァルト内に領地を有している騎士爵家で、長男が家督を継ぐ準備をしている。ベンノはジークフリート同様に次男だったので自由にさせてもらっている。ジークフリートが公務を行うようになったら彼も側近として働く予定だった。


「殿下、よくお似合いです。さきほどの農民の恰好も、あれはあれでお似合いでしたけどね。立派な成人王族に見えますよ。侍従たちの腕がいいのかな」


 ベンノはジークフリートの傍に近寄り、王子の正礼装を眺めて満足そうに頷いた。そんなベンノも礼服姿だ。普段はお互い髪を乱して大きめの麻シャツに毛織のベストを着てベルトをだらりと垂らすような緩い姿をしてばかりなのに。


「ベンノもよく似合っている。ずいぶん大人に見えるよ」


 ジークフリートは少しばかりさみしい気持ちになる。気儘な時間はいよいよ終わるのだ。


「そろそろ式典の始まる時刻です」


 室内にいても日が落ちたのが分かる。ベンノは部屋を横切って、王族用の奥庭を見渡せる窓に近寄った。暮れていく外の様子を確認する。ふと何かに気付いたベンノは目線を上げて「秋だねぇ」と呟いた。


 ジークフリートも窓際に寄って夕空を仰ぐ。


 地上はもう陰ってしまったが、上空には陽光が残っているらしく、光を受ける鳥影があった。V字型に編隊を組んで飛ぶオオハクチョウだ。繁殖期となる夏の間、ナーロッパ大陸北端の海沿いで子を生み育て、冬には大陸の中央あたりまで南下して河畔や湿地などで越冬する。秋は渡り鳥が南行する時季だ。ヴュルテンヴァルトの隣国には渡り鳥の越冬地となる大河や湿地帯がある。オオハクチョウもヴュルテンヴァルトを越えて隣国へ行くのかもしれない。


 だが今夜は城館近くの森に逗留するらしく、徐々に高度を下げ始めた。羽を広げると成人男女が腕を広げたほどの大型の鳥だ。だが飛ぶ姿は頼りないくらい小さく見えた。やがてオオハクチョウの隊列は、地に連なる丘の向こう、森の影に潜んでいった。




 教会礼拝堂で牧師の説教を拝聴した後、空が深い紺色に変わりきると祝宴が始まる。


 会場となる大広間(フェストザール)へ、ジークフリートは母后である女王とともに入場した。会場にはすでに領内の貴族、宮廷官僚、平民代表、そして周辺諸国の使節がそろっている。


 大広間の一角、一段高く設えられた壇上に玉座がある。ジークフリートは女王を席まで導くと、そのまま隣に立つ。傍らには王太子夫妻と第三王子が並んでいた。玉座を挟んで反対側には廷臣が控えている。枢密顧問官ロットバルト男爵、宮廷長官ウォルフガングといった高官だ。


 ロットバルトが身をかがめて女王に何事か囁いた。女王は頷いてから立ち上がり、隣に立つジークフリートの手を取って一歩前へ出る。大広間に詰めた人々は膝を曲げ腰を低く落として礼をとる。


「本日、愛しき息子ジークフリートが成人に達した。

 神よ、ここまで導き給うた慈しみ深き摂理に感謝いたします。今日この日より彼はこの国を担う者の列に加わります。どうか賢明に判断し、寛容をもって統治し、意志をもって行動する者となりますように。

 そして諸卿よ、彼は我が家門の名誉を担い、領邦のために働く。どうか彼を評議に迎え入れ、諸卿らの忠誠をもって支え、良き手本を示して導いてほしい。

 かくして我らの家門は揺るぎなく続き、ヴュルテンヴァルトは平和のうちに繁栄するであろう」


 王の権威を象徴するような高い天井に女王の声が響いて、吸い込まれていった。女王の宣誓を継いで、ジークフリートが挨拶する。


「遠方からお越しいただいた諸卿、日々この国に尽くしてくれている皆に、私の成人祝典に参加いただいたこと感謝申し上げる。私は、敬虔・勤勉・忠誠をもって家門に仕え、 祖先の名誉を守り、領邦に奉仕することを誓う。諸卿の忠誠と奉仕に感謝し、今後も共に国を支えていく。今日は皆で神の恩寵を祝い、喜ぼう」


 祝宴がはじまり、宮廷楽士たちが音楽を奏でる。人々の会話を妨げず、同時に少し距離を置けば会話の内容が聞き取れない、適切な音量。


 高位の貴族から順次女王の前に傅いて忠誠を宣誓し、王子成人の祝辞を述べていく。玉座の隣に立つジークフリートにも。年頃の娘がいる家では、今夜のうちに王子に顔繋ぎをしておこうと、娘を連れてくるものもいた。


「殿下、明日の舞踏会では我が家の娘と一曲踊ってくださいますよう」

「殿下、お願い申し上げます」


 女王が鷹揚に頷いて「ジークフリート、明日、お前の妃とする令嬢を選びなさい。すでに妃候補を選出して、舞踏会に招待してあります。そのシュタイン男爵家の娘も候補者の一人です。明日の舞踏会で妃候補の令嬢たちと踊り、その中から決めるように。その場で婚約を発表します」と促す。


「母上、いえ陛下、待ってください」


 ジークフリートは動揺していた。明日の舞踏会で妃を選ばなくてはならないとは聞いていなかった。


 もちろん人生の伴侶となる相手を自由に選べるとは思っていない。国益に適うような相手になるのは理解していた。兄が成人とともに立太子して、その後間もなく妃を迎えたのを間近に見ているのだ。王太子妃には近隣小国の王女を選んだ。大国の間にある小国同士の連帯を強める政略結婚であった。第二王子である自分もふさわしい王子妃を迎えて公務に就かなくてはならない。王族の義務ともいえる。


 しかし、こんなに早いとは思わなかった。成人してすぐ、明日の夜にまた自分の人生の一部が決定するとは。それも、かなり大きな部分だった。


「ジークフリート、城下に降りるのはもう止めなさい。あなたが民の生活を視察する名目で町で遊んでいたことは報告が入っています」

「私は真剣に民の実情を知ろうとしていただけです」


 王太子である兄にはそのような身軽なことはできない。ならば、第二王子の自分が民に混じって彼らの生活の実態を知り、心情を汲みとって、兄に伝えていくのが役目なのではないか。将来兄が王位を継いで自分が王弟になったあともずっとそういう立場であることを、ジークフリートは望んでいた。


「いいえ、これからは王子としての義務をおろそかにせず、最優先させるように」

「殿下、御意に従うのが陛下をお支えする我々の役目でございます」


 女王の念押しに、枢密顧問官ロットバルトが言葉を添えた。宮廷長官のウォルフガングがジークフリートの背後にまわり、女王に頭を下げる。


「陛下に申しあげます。殿下の城下視察も王太子殿下のお役に立つためにしたことでございましょう。であらば、殿下も、王子妃を娶るは領邦のため、義務であると納得して行われることでしょう」


 ウォルフガングは王子たちの師でもある。ジークフリートも幼い頃から宮廷内の礼儀作法、王族としての立ち居振舞いを彼から学んだ。


 義務とは、王家の血を継ぎ、国内外の王侯貴族との繋がりを強くしていくことだ。それが王子に期待される姿であり、王族のひとりとして従うべき規範であった。義務をまっとうするためにはジークフリート個人の思いは軽んじられる。


 ジークフリートは焦燥感に襲われる。自由が失われていく。




 大広間に接した隣室で食事と酒が供されている。牛フィレ肉の葡萄酒煮、野兎肉のパイ包み、鹿肉香草焼きなどの大皿の脇に、輸入品の隣国産葡萄酒が用意されていた。樽詰めよりもさらに高級なガラス瓶詰めである。国産品より輸入品がおいしくて高級品扱いされるのは、ヴュルテンヴァルトの貴族たちにとっても遺憾である。


 遺憾ではあるが、その葡萄酒を飲みたくなったジークフリートは、人々からの忠誠の宣誓を受け終えると、隣室へ向かった。まだ大多数の人々は大広間にいる。食事をしようとする者はまばらだった。給仕に葡萄酒を用意するように命じたところで、すぐに後を追ってきたベンノが「私にも同じものを」と追加で用意させる。


「明日の舞踏会で妃を選ぶ」


 ジークフリートが端的に説明すれば、ベンノは分かっていると頷く。


「このところ枢密顧問が年頃の令嬢を調査していました。シュタイン家、シュヴァルツフェルス家あたりのご令嬢でしょうね」

「シュタイン男爵は今日すでに令嬢を連れて来ていたよ。……ここまで急かされるとは思わなかった」口調に失望が混じる。

「そうですね。殿下は王太子殿下と違ってすぐに後継ぎが必要とされるわけでもありませんし」

「兄上にお子ができたら、私の子はむしろ邪魔なくらいだろうに」

「そうでもありませんよ。王族の仲が良好である限り若い世代が多いことは繁栄に繋がります」

「そりゃあ、兄上とは仲良いけれどさ……」


 ベンノが料理を皿に取り分ける。鹿肉の香草焼きが肉の脂と爽やかな香草の混じりあった香りを立ちのぼらせていて、食欲をそそる。


「そうだ、殿下、気分転換にシェーンブーフへ狩りに行ってみては? 今夜の野ウサギとシカはシェーンブーフで獲れたものだそうですよ。それに、夕方にオオハクチョウを見かけたでしょう。群れがあちらの方向へ降りていきました。うまくすれば見つかるでしょう」


 シェーンブーフは王領の森だ。王家の狩猟林として利用されている。王都から街道が整備され、森の入り口には王家専用の狩猟小屋が建てられて、森を管理する猟場管理人も置かれている。これから迎える冬の狩猟期に向けて動物たちも肥えてきているはずだった。


 ジークフリートは、口に放りこんだ野兎肉のパイ包み焼きを咀嚼しながら考える。パイ生地の小麦とバターの香ばしさとさっぱりとした兎肉のうまみが相まっておいしい。


「そうだな、夜狩りに行ってハクチョウを探してみよう。あの美しい鳥を獲物にできたら気も晴れそうだ」




第2幕


 夜会を抜けでたジークフリートは、背に弓矢を背負い、厩舎から引きだしてきた馬に乗って駆け出す。護衛の駆る馬も続く。空気が冷たく澄んでいる。満月はまだ天頂には達していない。谷川沿いに整備された街道を小半刻も走れば、王領の森シェーンブーフにつく。狩猟小屋付属の馬房の前で馬を降りると、護衛をその場に残して馬の世話を任せた。


 ジークフリートは単身森へ踏み入る。森の中は満月の金の光が差し込んでいて明るく、足元は整備されているので歩きやすい。森の優占種ブナやコナラの葉からは緑色が抜けている。すっかり葉を落として枝振りを露わにしている樹もある。そんな枝の間から、金色の月光が射しているのだった。落ちたばかりの黄色い葉がブーツの下で乾いた音を立てる。時折混じる常緑のトウヒが影を作る。その暗闇に獲物が隠れていないか探しながら、気配を消して歩き進める。


 開けた場所に出た。小さな貯水湖が月を反射している。水面の上にかかった靄が光をはらんで淡く光ってみえる。湖畔にはかつて礼拝堂であった廃墟が見える。森が王領になる前はここに教会があって、修道者が一人隠れるように住み信仰を守っていた。シェーンブーフ周辺に住む者は、その隠者を偲んで、この人工湖を『アインジーデル湖』と呼ぶ。


 湖の中央付近に、靄に紛れてオオハクチョウたちの姿が見えた。満月の光を浴びながら静かに皆で寄り添って眠っている。夕方にベンノが見つけた群れかもしれない。


 王子は物音を立てないように弓を背からおろし、矢筒から引き出した矢をつがえる。


 狙うのは群れの中でももっとも美しい一羽だ。煌々とした月明かりを浴びて白く輝くような羽毛、優雅な丸みを帯びた体、群れの中で他のハクチョウたちに守られるように浮かんでいる。湖畔から湖の中央までは距離がある。だが射程圏内だ。薄く漂う靄を通して慎重に狙いをつける。


(これは私の獲物だ)――とジークフリートは確信する。


 その瞬間、背後に気配を感じて振り向くと、白い人影を見た。ジークフリートは、一瞬、ハクチョウの化身かと錯覚した。その人物は白いケープを羽織っていた。煌々と照る月光の下で、ハクチョウのように白く輝いて見えた。


 ケープを身に纏っていたのは若い女性だ。ジークフリートの方を向いて、両の掌を胸の前で握りあわせている。狙われていたハクチョウを心配していたのだろうか。


 ジークフリートはつがえていた矢を外すと矢筒に戻して、弓を背負いなおした。攻撃はしない、誰も傷つけるつもりはなく、狩りも中断するという意思表示だ。


 相手にも通じたのか、胸の前で握り合わせていた手は解かれて、体の両脇に垂らされた。


 ジークフリートは威してしまったことを謝罪しようと歩き出す。近くへ寄ると、人影はひとつではないことに気づいた。白いケープの人物の周りには、目立たない暗い色の服をまとった女性が数名立っていた。


「……あなたがたは狩りをするようには見えない。このような夜更けに王領の狩猟林へきた理由を問うても?」

「王領?」

「そうだ。この森は王領ゆえ禁足となっている」


 王領の森シェーンブーフでの狩猟採集は平民に許されていない。貴族であっても王家主催の狩猟祭などの機会に招かれて入ることができるだけ。普段は、王家の雇った管理人が、狩猟場の足場整備や狩猟対象になる獣の頭数管理をしながら、人々が立ち入らないよう見回って警備している。


 ジークフリートとしては、王領の森に立ち入った人物を咎めるべきか、それともなにか事情があってのことで見逃すべきなのか、即断することができなかった。


 若い女性はオデットと名乗った。貴族の家の子女。周りの女性たちは、長年仕えている乳母と長じてからつけられた侍女ということだった。オデットとは南の大国フランクライヒ風に響く名だった。オデットの生母がフランクライヒ出身で、ヴュルテンヴァルト王国に連れ去られてきて生んだ娘に出身国由来の名を付けた。その母親はオデットが幼いうちに亡くなっている。


「母が存命の頃からずっとロットバルトという貴族の(やかた)に閉じこめられてきました。私の周囲にいるのは乳母と侍女たち。貴族としての教養を身につけるため家庭教師が数名つけられはしました。でも外部の人間と顔を合わせることは禁じられています。

 また、母からもらったオデットという名は軟弱であるということで別の名に変えられました。ロットバルトは母が名付けたという事実が気に入らなかっただけかもしれません。今、オデットという名はここにいる乳母と侍女に通じるだけです。

 先日いよいよ政略結婚を指示されました。明日には舞踏会で相手と顔を合わせます。王城で開催される舞踏会で婚約が決定されるのだそうです。結婚後も家同士の繋がりを保つ役目を背負い続けることになります。家から逃れられないまま。

 私はロットバルトの支配下にいます。籠の中の鳥と同じ。でも、自由を得たいのです」


 オデットのいうロットバルトとは枢密顧問のロットバルト男爵のことだろうか。ジークフリートはロットバルト男爵家にこのような年頃の娘がいるとは聞いたことがなかった。


 だが、確かにロットバルトはヴュルテンヴァルトの貴族らしい価値観を備えた人物だった。つまり男性優位の思想を持ちあわせていた。


 ヴュルテンヴァルト王国では法と慣行が女性の法・経済的自立を大きく制限していた。基本的に女性は商・工・農業それぞれあるギルドに加入することができない。娘は親の財産を継承できない。家督相続することができない。また娘の結婚は親の意思で決定される。結婚により妻は夫の法的管理下に入り、契約や財産処分で夫の同意が必要とされた。つまり法的に無能力とされた。


 例外はある。未成年や法的能力を欠く者の後見役だ。本来は男性親族や公的後見人が担う役割だった。だが女性が後見権を持つ場面がある。それは未亡人という臨時の家督相続人であり摂政である。ヴュルテンヴァルトが現在女王を戴いているのも法的には摂政としてだった。先王が崩御したのち、王太子は公務の経験を積んで政事を任されるに足る能力を示すまでの間、母后が代理の女王として王権を揮う。それも男性の枢密顧問官ロットバルトによる補佐があってこそなのだ。


 この国で女が一人で生きていくことは至難だった。


「そこで私たちは自立する方法を模索してきました。母の生国フランクライヒでは女性が一人で労働することも可能とされます。平民女性が財産を持つことも許されます。あの国でなら女性だけでも自立して生きていけるでしょう。そこで私も平民としての振舞いを学び、市井で働いて自立したいと思っています」


 乳母と侍女もオデットとともに行くのだという。乳母は貴族の出であったが、娘が平民と結婚していて平民の生活になじみがある。また侍女の一人は実家が裕福な商家で、行儀見習いとして貴族の家に奉公しているだけであり、いずれ平民の生活に戻るつもりでいたのだという。他の侍女も、貴族出身ではあるが籠の鳥でいることをよしとしない。オデットのように。


「幸いなことに私たちは、平民以上の読み書き計算と近隣諸国の社会情勢を教えられています。それに、私は幼少期に母の使っていたフランクライヒ語に馴染み、その後家庭教師にも学んでいます。侍女たちにもフランクライヒ語を修得してもらいたいのですが、邸にいてはできません。昼の間に抜け出すこともかないません。そこで人目につかない夜間にひと気のないこの場所に来て、皆で学んでいました。あの国の言葉が使えるようになれば私たち全員働き口が見つかることでしょう。

 あとは生活能力を身につけることが必要でした。自炊の練習をしました。教会の隠修院跡に小さなかまどが残されていましたので、そこで煮炊きを……」と崩れかけた建物へ目線をやる。「私たちに国の制度を変える力はありません。ですが自分自身と身辺を変える努力はできます。ロットバルトの支配から逃れる努力です。自由を得たい。政略で偽りの結婚をするのではなく、個人として真実の愛を誓って結婚したいのです」


 この女性は自ら進んで努力して自由を獲得するのだ。そして自由に愛する人を選ぶ。


 ジークフリートは明日の夜会で妃を選ばなくてはならない己をかえりみた。成人してから先の人生では、周囲の示す規範に従い、与えられた役割を果たしていくことが義務だった。示された範囲の中から何かを選ぶことがあっても、枠組みから外れたものを選び取る自由は許されていなかった。明日も母后と枢密顧問官が選んだ妃候補の中から一人を選ぶ。それは己の選択のようでいてまったく違うのだ。


 オデットは言った。


「どうか見逃してもらえませんか。ここが王領で禁足区域だとは知らなかったのです。近くて人目を忍べる場所という認識でした。私たちは邸に籠ってばかりでしたので、近辺の常識に疎かったようです。

 私たちは明日最後の準備を整えて明晩旅立つつもりです。今後は猟場番さまにご迷惑はおかけしません」


 オデットはジークフリートのことを猟場管理人とでも誤解しているようだった。


(森へ侵入したことを見逃すとしても、この女性を逃すことはしたくない)


 ジークフリートは考える。どうしたらこの女性を自分の元に留めておけるだろうか。いや、それではロットバルトと同じ。女性を束縛しているだけ。オデットの言動を妨げないで、同時に自分も共に自由でいられるには、どうしたらよいのか……。


「私は猟場番ではない。第二王子ジークフリートだ」


 ジークフリートが名乗ると、オデットは顔色を変えた。月明かりの下でも見分けられるほどの変化だった。目の前にいる男が明晩の舞踏会で顔を合わせるはずの相手だと気づいたのだろう。その相手に逃げ出す予定を話してしまったのだ。ジークフリートはオデットを気遣った。言葉を失う女性たちに向かって、穏やかな声色で話しかける。


「私は明晩王城で開催される舞踏会で妃を選ぶことになっている。その場であなたに愛を誓う。オデット嬢、あなたにはぜひ明日の舞踏会で、私の求婚を受け入れてほしい。そうしたら、私はあなたに自由を取り戻そう。私と一緒に自由になろう。どうか、私を受け入れてほしい」

「たしかにロットバルトからは明日の夜会で第二王子殿下のお目にかかると伝えられています。政略結婚の相手であるから射止めるようにと。でも、しかし、……それでは、あなたは私が王子妃になることを望むのでしょうか?」

「オデット嬢が望むなら私は平民に(くだ)る。あなたたちは平民として生活していくつもりだったのだろう。それなら私も平民として身を立てられるよう努力する。


 あなたがただけでは穏便に貴族籍から抜けるのも難しいのではないか。私と一緒ならば正当な手続きを行なって平民になることができる。


 その場合、もちろん私は王位継承権を放棄する。兄上は王にふさわしいお方だし、王太子妃とも仲睦まじくお子ができるのも時間の問題だ。弟の第三王子も年下なのに私より優秀なくらい。立派に女王と王太子を支えていくだろう」


「殿下が平民に……」周りにいた乳母と侍女たちも顔を見合わせている。

「私は周辺の大国の言語を学習している。北のプロイセンとは共通言語だから問題ないが、南のフランクライヒと東の大国エスターライヒの言葉はね。複雑な外交交渉はできないまでも日常生活に支障はないはずだ。

 ただ、平民の生活を視察したことはあっても、私自身が自活するのを前提にしたわけではなかった。だから日々の暮らしの細かいことは分からない。あなたがたに教えてもらうことになる」

「それなら私どもでお手伝いできると思います」女性たちも安心したように頷いた。

「男手があったほうが安全だろう、たとえ女性が暮らしやすいフランクライヒであっても」とジークフリートは付け加えた。

 オデットが確認をする。「それでは、私はオデットという名の平民として自由に暮らせるのでしょうか。私がロットバルトの支配から解放されることを、殿下は受け入れてくださいますか」

「永遠に続く真実の愛のもとに。明日の舞踏会で誓おう」

「分かりました。殿下を信頼いたします。それでは、明日の夜会に『オデット』として参上いたします。必ず『オデット』に愛を誓ってくださいませ」


 二人は、美しい森の中、満月の金色の光の下で、約束を交わす。




第3幕


 夜も終わりかけ、空がうっすら明るさを帯びた紺青になるころ、ジークフリートは護衛を連れて森を離れた。谷川沿いの街道はくねっていて馬を襲歩で進ませるのは難しいのに、愛馬を駈って駆け抜けた。


 浮かれていたのだ。夜にはまたオデットに会える。自分も舞踏会で真実の愛を選ぶことができる。社会的制約から離れて自由でいられる。何事においても己の自由意思に基づいて決定できるのだ。すべてを手に入れることはできないのだから。


 城館にたどりつくと、空はすっかり明るい青になっていた。護衛も少し遅れて到着した。厩舎に馬を戻す。馬具を外し、馬に水を飲ませてから、ていねいにブラシをかけてやる。厩舎に早出の馬係が出勤してきたので後を任せた。


 自室へ戻ると、ベンノが待っていた。


「殿下、お疲れさまでした。オオハクチョウは見つけられましたか?」


 ベンノは侍従に飲み物を用意させて、ジークフリートに夜狩りの首尾を問うた。


 ジークフリートは事情を説明した。アインジーデルの湖畔でオデットに出会ったこと、真実の愛を見出したこと、愛を形にするために平民になって暮らそうと思っていることを。気分が高揚していて寝つくのに時間がかかりそうだったので、落ち着くまでの間に。


 ベンノは途中で何度も物言いたそうに口を開きかけた。だが最後まで黙って聞いた。ジークフリートが話し終えて、ようやく声を発した。


「殿下が自由を得たいというお気持ちも分かります。私もついていきます。私は成人後も殿下に仕えるつもりでいましたが、でも、あなたが平民になって暮らしたいというのなら、私もいっそ平民になり貴族のしがらみから離れるのがいいのかもしれません。

 殿下が平民になる手続きをするにしても時期を見計らう必要があるでしょう。それまで殿下お一人で出奔するのと、私が側についていて長期不在にするのとでは、王宮の皆に与える不安が違います」


「それはそうかもしれないが、しかし、今回私の決断にベンノを巻き込むつもりはなかったんだ。迷惑をかけたくない」

「迷惑ではありません。私も貴族社会の規範の中で贅沢に暮らすよりも、平民として制限はあるにしても自由に生きるほうを望むのです。どう生きるにせよ、私の意思による選択です」

「……ありがとう」

「どういたしまして。殿下、そろそろお休みになってはどうですか。舞踏会の支度をする時刻になったら起こしに参りますから」




 日が沈み、空が暗くなって、十六夜の月が(のぼ)ってくると夜会が始まる。


 城館には前夜よりもさらに盛大に灯りが点されている。ひとつひとつの灯火は揺らめいているのに、数集まると個々の揺らぎは補いあって、総体として安定した明るさを放つのだった。


 大広間(フェストザール)には祝宴に訪れた貴族を会場へ案内する宮廷官吏の声が響く。大広間に入った貴族たちは、王子が最初にどの令嬢と踊るのか噂している。シュタイン男爵家、シュヴァルツフェルス男爵家など有力貴族が令嬢を着飾らせて待機して、それを派閥の貴族たちが取りまいていた。そこから離れた一団では、別の令嬢の話題が上がっている。


「ロットバルト男爵家も令嬢を連れてくるらしい」

「枢密顧問官の家にはジークフリート殿下に見合う年頃の令嬢はいなかったはずでは」

「どうやら病弱だったらしく王都郊外の別邸で静養していたそうだ」

「王子妃として公務を行えるのか」

「成長して健康を取り戻したのだろう」

「それならば王子妃の最有力候補であろうな」

「なにしろ陛下の懐刀ロットバルトの娘」

「王太子妃には国家間の繋がりを強くするために他国の姫を迎えた。ならば第二王子殿下の妃には国内の結束を強めるための娘を」

「ロットバルト男爵はヴュルテンヴァルト国内でも有数の実力者、国内貴族の代表としてふさわしい」


 だが、と貴族たちは周辺に視線を向ける。大広間全体を見回してもロットバルトがいない。家門にとって大事なはずの舞踏会にまだきていないとは。噂は噂に過ぎなかったのだろうか。


 そのロットバルト男爵とその令嬢『オディール』の名が会場に案内される。人々の視線が入場口へと向かう。両開きの扉から入ってきたのはロットバルト男爵と彼に伴われた令嬢だった。ロットバルト男爵は絹織の黒い礼装、『オディール』も男爵と同じ絹の黒い夜会服をまとって胸元と髪を大粒の金剛石で飾っている。薄く柔らかに織られた絹布は、オディールが動くたび繊細に揺れて光沢を放つ。大粒の宝石も灯火の光を浴びて内側から輝いているかのようだった。


 人々が『オディール』の美しさに魅入られて声を飲み、ざわめきが止んだ。


 舞踏会の会場である大広間に女王とジークフリートが入ってきた。女王はジークフリートを伴って会場の中心へ進むと、隅に控えていたウォルフガングに頷いてみせた。ウォルフガングは傍らの宮廷官吏に合図を送る。


 ロットバルト男爵家、シュタイン男爵家、シュヴァルツフェルス男爵家など六家の名が呼ばれると、各家の令嬢が女王の前に出た。皆それぞれに美しく着飾っている。


 だが、ジークフリートはオデットいや『オディール』だけを見ていた。『オディール』の美しさに目を奪われた。黒衣もよく似合っている。幾重にも重ねられた黒い絹布の光沢は美しく、貴族らしく表情を消した顔立ちを妖艶に見せる。


 他家の令嬢が膝を折って挨拶するのを、ジークフリートは受け流した。気もそぞろだった。だが『オディール』の口上が始まると表情が変わる。意識が『オディール』に集中する。そのあからさまな様子に、令嬢たちは察せざるを得なかった。


「ロットバルト家の『オディール』でございます。

 王国の花たる陛下の御前に進む栄誉を賜りましたこと幸甚にございます。第二王子殿下ご成人の儀まことにめでたきこと。今後、王族と我が家ロットバルトとの連携を元に国内の貴族がより緊密な関係を構築していけますよう、私も微力ながら力を尽くしとうございます。第二王子殿下には、その機会を私にお与えくださいますようお願い申しあげます。

 全能の神が陛下に英知と情愛の心を授けられ、我らの地を平和と繁栄に導かれますように。我ら臣下は、法と名誉のもとに恒久の忠誠と服従を誓います」


 『家』に囚われた言辞だった。口上を述べる『オディール』に表情はなく、ただ笑みの形に作られた顔があるだけ。だがそれでも美しかった。精巧に作られた美しい人形のように。美しい人形オディールには飾られ、愛でられるだけの価値がある。


 第二王子が誰と踊るのか。もはや明白であった。王子は『オディール』の前に進み、その片手を取った。広間の中央から他家の令嬢たちが去り、ジークフリートと『オディール』の二人が残される。宮廷楽士たちはいよいよ円舞曲を奏でる。王子がオディールの腰に手を添えて踊りに導く。


 踊りながらオデットが囁く。


「殿下、『オディール』は殿下に選ばれないまま下がります。そうしてオデットである私自身として再び参上いたします」

「ああ……」


 ジークフリートは、目の前、腕の中に『オディール』がいる幸福を味わっている。やはりこの女性を手放したくない。そのためには王位継承権を引き換えてもいいと思う気持ちは確かだ。


 だが、例えば『オディール』を妖艶に見せている絹の夜会服はどうだろう。ヴュルテンヴァルト王国には奢侈禁止令がある。絹織物は、貴族の特権階級化のために使われる品であり、平民では都市の大商人、高位聖職者、大学教授といった富裕層の晴れ着だ。庶民は絹の着用を禁止されている。一般の都市住民や農民は、麻織のシャツを着て毛織の上着を羽織る。粗い肌触りだ。庶民は薄く柔らかな絹布とは無縁だった。オデットの逃亡先に予定されているフランクライヒでも、絹は平民には手の届かない贅沢品である。


 例えば、絹布のように滑らかな光沢を放っている『オディール』の髪はどうだろう。今の彼女の髪は、毎日ていねいに梳られて、香油を塗って滑らかに手入れをされている。貴族階級の女性が侍女や召使を使役してこそ作れる美しさだ。平民の女性たちは髪が日に焼かれ風にまかれて荒れてしまっても手入れができない。町で見かける女性たちにこの艶やかな髪を望むのは無理だろう。


 平民になったら『オディール』の今の美しさは維持できない。ジークフリートが平民として頑張っても、貴族みたいに人を使って当然の暮らしはできない。大商人のような贅沢な生活もできない。させてあげられない。オデット当人が奢侈を望まないにしても、ジークフリートは忸怩たる思いを懐くことになるだろう。それはジークフリートが宮廷社会の規範を内面化しているから生まれる感情だ。権力を持って生まれ育った王子として、女性を庇護下に置いて養いたいという義務感であり、自分で気に入った女を囲いたいという欲望だ。美しい人形としての『オディール』を欲するか否かの問題だった。


 自由に何かを選び取ることは何かを選んで捨てることと表裏の関係にある。この欲を捨てて、オデットとの愛を選び取る。そう望んでいたはずだった。


 だがジークフリートは迷った。オデットの意志に反しても第二王子として王族に残って、『オディール』と共に宮廷社会の規範の中で生きていく――そんな選択も悪くないのではないか。


 どちらを選んでも選ばなかったもう一方への未練が残る気がする。


 大広間の隅に立っているベンノの視線が刺さる。『オディール』への傾倒がバレているのだろう。オデットとの約束を反故にしやしないかと心配するのは妥当だ。長い付き合いだけあって互いに互いのことをよく分かっているものだ――とジークフリートは薄く笑う。


 女王、宮廷長官ウォルフガング、その他の貴族や宮廷官吏が二人の踊る姿を注視している。


 視界にロットバルトの姿が入った。自信に満ちた表情だった。立ち居振る舞いも堂々とした権威ある者の態度だった。女王を支えながら王国内の貴族を束ねて実質的な権勢を振るう人間、宮廷の規範を体現する男だった。その男と、一瞬だけ目が合った。オデットとオディールの名には共通する語源がある。『富』だ。


 円舞曲が終わり、ジークフリートと『オディール』の足が止まる。二人は灯火に照らされた中心に立っている。ジークフリートは『オディール』の片手をとったまま、片膝をついた。


「『オディール』嬢、どうか私と結婚してほしい。あなたに、永遠に続く真実の愛を誓う」


 その瞬間『オディール』が顔を背けた。大広間の窓硝子に反射した横顔は、哀しげなオデットのものだった。




第4幕


 オデットがロットバルト家の豪奢な馬車に乗り城館から去った。シェーンブーフの方向だ。その馬車の走る道筋を見据えてから、ジークフリートも城を飛びだす。夜会前にまとめておいた荷を愛馬に括りつけて。護衛はつけずにベンノだけ帯同した。そのままオデットの逃避行に同道するつもりだ。町に降りるときはいつもベンノと二人だったので、二人だけで城を発っても誰にも怪しまれなかった。


 ロットバルト家の馬車が向かった方角へ、道なりに馬を走らせる。シェーンブーフの森の辺縁に、ロットバルト家の家紋のついた豪奢な馬車と質素な荷馬車が並べて留めてあるのを見つけた。そこに馬をおいて、ジークフリートとベンノは森に入った。


 ジークフリートがオデットに追いついたのはアインジーデルの湖畔だった。


 オデットは馬車の中で着替えたのだろう。黒衣は脱いで、簡素な麻の衣服を身につけていた。その上に前夜と同じ白いケープを羽織っている。足元は丈の長い革靴。旅に耐えうる身なりだ。乳母と侍女たちも旅支度を済ませている。彼女たちは森の外に荷馬車を用意している。湖畔に隠しておいた荷物を荷馬車に運んで、一路目的地へ向かうのだ。


 荷をまとめるオデット一行の傍らで、ジークフリートは地に両手両膝をつけた。


「私のしたことは愚かな行いだった。謝罪する。申し訳なかった。どうか赦してほしい」

「……」

 オデットはジークフリートを見ない。視界に入れないように外方を向いている。その横顔が、世の中には許されない行いがあるのだと示している。


「せめて旅に同行することは許してほしい」ジークフリートは、固唾を飲んで見守っている乳母と侍女たちに視線を向けた。「私たちがいたほうが旅も安全になるだろう。どうか同行させてほしい」


 もちろんオデットの行先を把握するつもりで言っている。オデットの落ち着き先で共に生活を送りながら、赦してもらえるまで待つ。ジークフリートは長期戦の構えでいる。人生は長い。


 侍女たちは俯き、乳母は困ったようにオデットを見やる。ベンノも肩を竦める。


 沈黙が流れていく。


「……謝る。ごめん。赦して」

「……『オディール』はもういません」

「私はオデットに赦されたい」

「オデットは死にました。さきほどこの湖で死にました」


 会話になったことに安堵して、ジークフリートは湖へと視線を移す。


 今夜もアインジーデル湖ではオオハクチョウの群れが羽を休めている。十六夜の月の光を浴びながら、仲睦まじげに寄り添って、湖のまんなかに浮かんでいる。朝になれば森から飛び立って、旅を続けるのだろう。越冬地はもうすぐ近くだ。


「で、では、ジークフリートもオデットと共にこの湖で死んだ。これから私のことはジグと呼んでほしい。私はあなたを何と呼べばよい?」

「……」


 荷物を背負ったオデット一行が、馬車に向けて歩き始める。ジークフリートは立ち上がって追い縋る。ベンノも一緒だ。一行は森の中を進む。


 オデットから名を呼ぶ許可を与えられないでいるジークフリートは、オデットにどう話しかけたらいいのか分からない。ベンノが気を利かせて乳母に尋ねた。


「皆さん行先は決まっているのでしょうか。フランクライヒに入ってからの目的地を教えていただけると幸いです」


 答えようとした乳母を、オデットが止めた。


「教える必要はありません。彼らは勝手についてくるだけなのです」

「同行させていただけて光栄です。さきほどジグさまがおっしゃっていた通り、道中あなたがたをお守りする役目を果たせる」とベンノが応じる。同行を既定のこととして。


 乳母と侍女たちは安堵したようだった。女性だけで旅するのは不安なのだろうか。ジークフリートは、国内に治安が行き届いていないのかもしれないと、そちらが不安になる。だが、その責任感は城館に置いてきた。女王と王太子その他の宮廷人が負う責任だ。責任を負うことのできない平民、何も権力を持たない庶民は、安全な道行きを願うばかり。


「そういえばフランクライヒでは絹の生産が盛んだったな。南部のほうへ行くなら養蚕について学べる機会があるといいな」

「国策で絹産業を推し進めているのでしたね。絹織物生産地で桑畑の広がっている町があるそうです。私も一度は養蚕の現場を見てみたいですね」


 ジークフリートとベンノがフランクライヒについて語り始める。乳母も会話に参加して、旅の行先を示唆してくれる。


「北部ではブドウ栽培が行われて、葡萄酒醸造と併せて一連の産業になっていると聞いております。一面のブドウ畑があっても畑地の微妙な差異によって味の異なる実をつけるのだとか。その実の出来不出来で葡萄酒の味まで変わるのだそうです」

「なるほど。北部か。かの国は葡萄酒も有名だったな。ブドウ栽培については私もとても興味がある」

「オデットさまはフランクライヒの葡萄酒がお好きでして、ブドウ栽培にもずいぶんと興味をお持ちでしたよ。ジグさまと同じように」

「……そうか、それは嬉しい」


 オデットは前だけを向いて歩いている。ジークフリートの方へは顔を向けない。いつかジークフリートが赦される時は来るだろうか。赦されないままであっても、傍にいて永遠に続く愛を証明しなくてはならない。言葉で裏切ってしまった以上、行動で真実の愛を示し続けなくてはならない。


「フランクライヒの葡萄酒は美味ですものね。栽培技術を学べるものなら学んで、いつかヴュルテンヴァルトに導入したいものです」


 穏やかな声でベンノが乳母と会話を続けていく。


 侍女たちも話を広げていく。


 オデットとジークフリートは黙って歩き続ける。


 満月から一夜分欠けた月が照らす森の中を。



 バレエ『白鳥の湖』ロイヤルバレエ版を基調として物語を組み立てています。かなり改変してオリジナル要素を盛りこみました。たとえば、森や湖が原典とは違うものを暗喩しています。


 王国のモデルにした某ドイツ領邦は、領主が伯、公、王と爵位変遷して成立した王国。領主が伯爵だったので領内の貴族は男爵、騎士爵以下。王国になっても貴族の爵位はそのままだったようです。

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