4. 綻び
その日の夜、私はベッドの中で何度も寝返りを打った。
(何かが、何か大切なことを忘れている気がする。すごく大切なこと……でも思い出せない)
脳の奥に、真っ暗な穴が開いている。
必死に手を伸ばしても、指先をすり抜けていくのは冷たい夜気だけ。
けれど、意識が微睡みに溶けかけるその瞬間――不意に、ひとつの情景が浮かび上がった。
(〇〇ちゃん……)
名前は、まだ出てこない。
けれど、私と一緒に庭を駆け回り、泥だらけになって笑い、
そして……私と同じように、レモンパイを頬張っていた女の子。
『おいしいね、セシリア!』
弾けるような笑顔。私を呼ぶ、高い声。
彼女がいた場所には今、あの「17番」の席と同じ、不自然な空白だけが横たわっている。
(……あの子、どこへ行ったの? 私は、何を……)
答えにたどり着く前に、底なしの眠りが私を引きずり込んでいった。
まるで、誰かが私の思考に蓋をしたかのように。
翌朝。
朝食の席で、両親はいつも通り優しく私を迎えてくれた。
「昨日の夜は幼馴染のレオンくんの家でお祝いしただろう? 楽しかったかい?」
「ええ、とっても楽しかったわ!」
私の言葉に、父様は満足そうに目を細めた。
「これ、お父様とお母様からのプレゼントよ」
差し出されたのは、小粒のダイヤが光るピアスだった。
「ピアス! ありがとう!」
「ふふ、素敵なレディになったわね。そろそろレオンくんとの婚約も考えないとな」
「婚約!? レ、レオンはそんなんじゃ……!」
父様のからかうような言葉に、私は顔を真っ赤にして立ち上がる。
けれど、ふと、胸の奥を通り過ぎた違和感を無視できず、私は言葉を続けた。
「……ねぇ、お父様、お母様。レオンって……一人っ子だったっけ」
その瞬間、父様と母様が一瞬だけ、奇妙なほど無機質な表情で顔を見合わせた。
カチリ、とスプーンが皿に当たる音だけが室内に響く。
「……そうよ? どうしたの、急に」
母様が、何もかも「当たり前」だと言わんばかりに、柔らかな、けれどどこか空っぽな笑顔で首を傾げる。
「そ、そうよね。……変なこと聞いてごめんなさい」
(……気のせい、だよね。昨日レオンの家でも同じことを聞いた気がするけど……。でも、あの記憶はなんだったの?)
「ん? 違うのか? あんなに仲が良いのに」
父様が再び、話を婚約のことに戻した。
「も、もう! 行ってきます!」
逃げるように玄関を飛び出すと、そこにはすでに馬車と、彼が待っていた。
「セシリア!」
「レオン! お、おはよう……」
さっきの「婚約」という言葉が頭を離れず、まともに彼の顔が見られない。
そんな私の動揺に気づく様子もなく、レオンはいつものように優しく微笑んで、馬車の中にエスコートしてくれた。
揺れる馬車の中、沈黙を破ったのはレオンだった。
「セシリア。昨日、誕生日プレゼントを渡しそびれてたから……これ」
彼が差し出したのは、小さな宝石箱。
中には、金色の細いチェーンに、小さな青い宝石がついたブレスレットが入っていた。シンプルだけど、溜息が出るほどセンスがいい。
「これなら普段使いできそうだし、授業中でも邪魔にならないと思って」
「あ、ありがとう……凄く嬉しい……」
彼が私の手首に、直接それを嵌めてくれる。
冷たい金属の感触が肌に吸い付くようで、私はそれをそっとなぞった。
「セシリア、あのさ」
ふと、レオンの声のトーンが変わった。
「ん?」
「今日は学校、さぼらないか?」
「え~? 優等生のレオンが何言ってるの。先生に怒られちゃうよ」
私が冗談めかして笑うと、レオンは一瞬、何かを言いかけたように唇を震わせた。けれど、すぐに視線を窓の外へ逸らす。
「……そう、だよな。変なことを言って悪かった」
窓の外。
学園の正門が見えてくる。
そこには、一人の「見慣れない生徒」が、こちらをじっと見つめて立っていた。
レオンの横顔から、体温が消えたような気がした。
いつものように下駄箱に靴を入れようとして、私は手を止めた。
「これは……手紙?」
封筒には何も書かれていない。けれど、それを目にした瞬間、隣にいたレオンの空気が変わった。
「セシリア。その手紙、僕が預かっていいかな」
「え、あ、うん。いいけど……」
レオンは微笑んで受け取った。けれど、私の背に回した彼の左手が、その手紙を無残に握りつぶしたのを、私は見逃さなかった。
教室に入ると、リサとアーノルドがいつも通り話しかけてくる。
「おはよー、セシリア! ねぇ、今日のテスト範囲、昨日と変わったって本当?」
リサが机に手をついて、いつもの明るい声で笑いかけてくる。
「マジかよ……。頼むセシリア、女神様! ノート見せてくれ、この通りだ!」
アーノルドが冗談めかして手を合わせる。
昨日と何も変わらない、親しみやすい友人たちの姿。けれど、その輪に加わるレオンの声だけが、どこか一線を引いたような冷ややかさを帯びていた。
「ダメだよ、アーノルド。全く……そうやっていつもセシリアを頼って」
レオンは爽やかに笑いながら、けれどアーノルドの手を私のノートからさりげなく退かせた。
「ケチ」と笑うアーノルド。
賑やかで、暖かくて、大好きな毎日。
昨日と何も変わらないはずなのに、私はどうしても「17番」の空席が気になって、授業中も視線を外せなかった。
お昼休み。
「学食いこー!」
「うん!」
リサに誘われ、席を立とうとしたその時だった。
「あの」
背後から、低く無機質な声がした。
「セシリア!!!!!」
鼓膜を突き刺すようなレオンの絶叫。
彼は私の前に飛び出すと、誰かを隠すように、あるいは私を突き飛ばすようにして立ちはだかった。
「ちょ……レオン、どうしたの?」
「レオン……?」
リサたちの困惑した声も耳に入らないのか、レオンは私の手首を痛いほど強く掴んだ。
「走るよ」
「えっ、ちょっと!」
抵抗する間もなく、私は彼に引きずられるようにして屋上へ向かった。
「はぁ……はぁ……っ、レオン、急にどうしたの。あんなに慌てて……」
荒い息をつく私。レオンは屋上の扉を背にして、絶望したように呟いた。
「やっぱり、サボればよかった……。あいつが来る前に……」
「え? あいつって……」
「なんで逃げるんですか」
凍りつくような声が、私たちの背後――フェンス側から響いた。
「!!!!」
いつの間にそこにいたのか。灰色の制服を着た「見慣れない生徒」が、不自然な笑みを浮かべて立っている。
「あなたは……?」
「セシリア! 話しかけるな!」
レオンの叫びを無視して、その生徒はふふっと笑った。
「ふふっ。あなたは何も知らないんだね。そこのナイト様のおかげかな」
「うるさい! 消されたくないなら黙ってろ!」
レオンの形相は、もはや「王子様」のそれではない。獣のような殺気を放っている。
けれど、その生徒は嘲笑うように言葉を続けた。
「はははは! 何言ってるんですか。ここにいる人たちはみんな……」
「だまれ!!!!!!!!!!」
レオンの怒号が響き渡る。
「レオン……? なに……? なんなの、一体……」
混乱する私を見て、その生徒は「はぁ……」と溜息をついた。
「しょうがないですね。予定とは違いますが、セシリアさん。よろしくお願いします」
そう言うと、その生徒は迷いなく、屋上の縁から身を投げた。
「ヒッ……きゃぁぁぁああ!!!!」
――数秒後。鈍い音が下に響く。
レオンが「!!!!」と目を見開く中、私はフェンスに駆け寄り、下を覗き込んでしまった。
そして、いつものように。
「ソレ」は血まみれのまま、グシャリと折れ曲がった手足で立ち上がり、ニヤッと笑って私を見上げた。
「……セシリア! 見るな!」
レオンが私の視界を塞ごうとする。
けれど、私の唇はもう、無意識にあの言葉を紡いでいた。
「――ミセテ」
脳を掻き回す不快感。
視界が切り替わった瞬間、血まみれの生徒の胸にあった赤黒い炎が爆ぜた。
その生徒は満足そうに口角を上げると、煤となって、この世界から跡形もなく消え去った。
「……っ」
激しい眩暈。
意識が遠のき、私はレオンの腕の中に倒れ込んだ。
「あれ……レオン……? なんで私たち、屋上にいるの……?」
私の目から、さっきまでの記憶が、砂のようにさらさらと零れ落ちていく。
レオンは私を強く、壊しそうなほど強く抱きしめて、震える声で囁いた。
「……なんでもない。なんでもないんだ、セシリア」
その瞳には、深い絶望と、燃え上がるような憎悪が宿っていた。




